五 温泉宮襲撃

 驪山りざんの温泉宮はその名の通り、大小さまざまな温泉を有する巨大な宮殿である。上元節は外気もそこまで寒くなく、ゆっくりと湯船に身体を浸すにはちょうどよい頃合いだ。


 広い湯船の水面一杯に花びらを浮かべ、貴妃は陶然と心を遊ばせていた。皇帝からの寵愛が薄れてよりしばらく、乾祥けんしょう宮への行幸は年に数えるほどに減ってしまった。もしかすると我が身はこのまま深窓の中に朽ち果ててゆくのかと半ば諦めてもいたところ、思わず温泉宮への同行を命じられた。

 これを喜ばないはずがあろうか。貴妃に冊立されてより十余年、すでに四十を過ぎた韋貴妃もここぞとばかりに着飾って臨幸に望んだ。先の酒宴では皇帝も上機嫌で幾度となく微笑みかけてくれた。韋貴妃はそれはそれは乙女のようにはしゃいだものだ。


(わかっている。楊淑妃は比武召妃の運営で手一杯、殷徳妃は斉王の件で陛下とは確執がある。私がこの度選ばれたのはほとんど偶然。だけれども、今夜ばかりはまたあのころのように、私を愛してくださるだろうか)

 花の香りが十分に溶けた湯を肩に浴びせる。髪も肌も潤いを取り戻し、韋貴妃は十も二十も若返った心地だった。


 湯から上がると侍女たちが身体を拭き、衣装を被せる。上等な薄紗を重ねたそれはあまりにも薄いため、それでも臍の形が透けて見えた。

「行きましょう、陛下のところへ」

 上気した顔をつんと上げ、韋貴妃は浴場を出ようとする。しかしその扉の前に立ったとき、韋貴妃はさっと表情を変えた。


「誰、そこにいるのは?」


 扉の向こうが騒がしい。誰かがこちらへ駆け寄ってきたのを韋貴妃の耳は捉えていた。視線で侍女に命じ扉を開かせる。

 瞬間、ぱっと鮮血が散って侍女は悲鳴も上げる暇さえなくその場に頽れた。首から胸をざっくりと斬られている。扉の向こうから現れたのは、顔を隠し血刀を携えた男たちである。


「誰か! 曲者くせものよ!」

 侍女たちは怯え叫びながらも韋貴妃を取り囲み奥へと押し込む。男たちがまた血刀を振り回せば、盾となった侍女たちがたちまちその場に倒れ伏す。どぼんと一人が湯船に落ちれば、たちまち煙のように赤色が湯の中へにじみ出る。

「お前たちは何者か! ここを陛下の玉殿と心得ての狼藉か!」

 韋貴妃が声を張り上げても男たちは答えない。一人が韋貴妃と侍女らを追い回しながら、他の数人は浴室内を何やら探し回る。


 韋貴妃は思いつくところがあり、咄嗟に中庭へと続く廊下に向かって声を張り上げた。

「陛下、ここは私を置いてどうか先にお逃げください!」

 すると予想通り、家探しをしていた男たちはさっとそちらへ飛び出してゆく。やはり、と韋貴妃は確信する。あの不届き者たちの狙いは金品の強奪でも韋貴妃でもない。皇帝だ。


 双剣を手にした男にとうとう最後の侍女も斬り伏せられ、韋貴妃は壁際へと追い詰められた。息のある侍女たちは口々に「娘々ニャンニャン、逃げてください」と繰り返すが、この状況でどこへ逃げられようか。

「お前たちは斉王の配下か、それとも呉王か。あるいはそれとも、皇太子か」

 双剣の男は答えない。韋貴妃は問いかけながらも左右を見て何らか活路はないかと探してみるが、何も妙案は浮かばない。掲げられた剣を前にもはやここまでかと目を閉じる。視覚を閉ざしてようやく、ほんのかすかに聞こえる足音がこちらへ急ぎ向かっているのに気づいた。


 バン、と壁を突き破り、何者かが浴室へ飛び込むや何かを投擲する。刺客がはっとして振り向いた瞬間、その手から剣が弾き飛ばされた。投擲されたのは短い箭。剣ともども壁に当たってカランと床に転がる。

「貴妃娘々から離れよ」

 飛び込んできたのは女と見まがう美貌の武人。刺客は一瞬面くらったように見えたが、相手が軟弱そうな風采であるのを見て取るや、すぐさま左剣で斬りかかる。右の首筋を狙った斜め一閃。


 ところが美貌の武人は剣訣を握った手で迫る剣身をピィンと弾いた。その思わぬ内功に相手はさっと身を引く。

 韋貴妃はあっと言って武人を指差した。

「お前は、房玄齢の次男……」

「遺愛にございます、貴妃娘々」

 房遺愛は剣訣を解いた手で腰の剣に手をかける。ゆっくりとこれを引き抜き、斜め下へ構える。


 侵入者の男はハッとして床に転がった剣を拾う。双剣を前後に構え、値踏みするように房遺愛を見据えた。

「美剣君子房遺愛、か」

「かく言うそちらは、旋風せんぷう双剣そうけんえん弘亮こうりょうとお見受けする」

 男は一瞬ギクリとしたように身をこわばらせ、それからグッと眉間に力を込めた。覆面を着けているにもかかわらず、先の一瞬の攻防だけで身元を言い当てられ、正面に立つのがただならぬ使い手と認識を改めたのだ。


 サッ、と燕弘亮の姿が消える。まさに旋風、もう房遺愛の左手に間合いを詰めている。房遺愛がそちらへ身体を開く、そのときにはもう燕弘亮は右手へ回り込んでいる。房遺愛にとっては背後、絶対の死角。

「もらった――!」

 双剣が一挙に房遺愛の首を狙う。今しも達しようとした直前、ガチと双剣を房遺愛の剣が阻んだ。背後からの攻撃を一瞥もせずに受けたのだ。

 受けが突きに変化、燕弘亮の眉間目掛けて伸びる。燕弘亮は後方へ一回転、間合いを大きく取って逃れた。

「てめぇ、背中に目でも付いていやがるのか!?」

「実は虚、虚は実。そこに有るは無く、無くば有る」

「……はぁ?」

 燕弘亮が理解できていないのを見て、房遺愛はただただ頭を振った。今のが理解できぬようであれば、燕弘亮はその程度の力量ということだ。


 房遺愛が言ったのは至極単純な道理である。武芸を用いる者は絶えず動き続け、一つ所に留まりはしない。すなわち、ある瞬間にはその場にいても、次の瞬間には別の場所へ移動している。すなわち、「有るは無い」。逆に、相手が視界から消えたのなら、相手は自身の死角にいると判断できる。故に「無くば有る」。

 房遺愛は燕弘亮の風のような身のこなしを目で追ったのではなく、見えないからこそ逆説的に死角からの攻撃を予測できたのである。


 再び動く燕弘亮。消える。房遺愛は迷わず背後へ一閃。キン、と剣が交わる。索敵の術理を理解しなかった燕弘亮には、なぜこうも自身の動きが読まれてしまうのか不思議でならない。旋風双剣の異名を取る彼にとって、その素早い身のこなしは誰にも追跡できぬものであるはず。それがまったく通用しないとは何事か。

 ならば、とばかり、燕弘亮は房遺愛の正面に躍り出た。背面からの奇襲が通用せぬのなら、真正面から斬りかかる。双剣が左右から両腕を削ぐ軌道で房遺愛に迫る。しかし剣を振り抜いた瞬間、房遺愛はもはやそこにはいない。


 実は虚、虚は実。燕弘亮が房遺愛を見失った直後、その胸を背後から剣が貫き通した。有れば無く、無くば有る。房遺愛は燕弘亮の死角、真後ろに立っていた。

「バカな……!」

「お前の剣術は、皇太子にも劣る」

 ずるりと剣を引き抜けば、どくどくと血を噴きながら燕弘亮の身体は崩れ落ちる。そのままドボンと湯船に落ち、水面をさらに赤く変色させた。


 ドタドタと慌ただしい足音が廊下の先から迫ってくる。韋貴妃の芝居に騙された男たちが戻ってきたのだ。

「敵はまだいる。用心せよ!」

 韋貴妃が警告を発するやいなや、房遺愛はサッと廊下へ飛び込む。何者だ、と誰何すいかする声は途切れ、続いて幾重もの断末魔と血飛沫の音が響き渡った。韋貴妃はその光景を見ずとも廊下の有様が目に浮かぶようで、軽く吐き気を催した。やがて静寂が訪れると、湯気立つ廊下からわずかばかりの返り血を浴びた房遺愛がいや増して美しく飄々とした姿で現れる。


「貴妃娘々、ご無事で?」

 韋貴妃は自身が恐怖によって震えているのか、血に酔って浮ついているのか、あるいは眼前の美貌に蕩けているのかもわからない。回らぬ頭で一字一句を咀嚼し、ようやくその問いの意味を飲み込んだ。

「私……私は無事よ。房遺愛、今は私より、陛下を!」

「ご安心を」


 房遺愛は焦る韋貴妃をなだめつつ、その視線をどこか遠くへ向ける。

「陛下のもとには、強い女子おなごがおりますから」

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