三 師父殺し

「やーっと帰ってきたか。随分と待ちくたびれたぞ」


 清寧宮に帰り着いた徐恵と楊怡を出迎えたのは、どこぞから持ってきたのか山盛りの点心かしを玉卓に積み上げ、それをモゴモゴと頬張る白い尼僧の姿であった。

「師父! いつお戻りに?」

 その尼僧とは言わずもがな、蟾蜍せんじょ師父である。もぐもぐ、ごっくん。


「何を言うか。いつ戻ったもなにも、当然、都に到着するなり一直線にやって来たさ。この私が寄り道なんてするとお思いかい?」

 言いながら引っ掴んでぐびぐびと飲み干す酒瓶は都一の酒屋の品ではなかったか。楊怡は視線を逸らして呆れた素振りだが、徐恵はそれをおくびにも出さない。楊怡には茶を淹れるように命じ、自身は師父の隣に腰を降ろす。


「師父のお帰りを一日千秋の思いでお待ちしておりました。それで、洪掌門にはお会いできたのですか?」

「うーん、いや、それなんだがな。どうにも面倒なことになった。洪掌門の居場所はわかったんだが、その……もう十年近く前に死んでいたんだ。近所に住んでいた農夫どもに話を聞いてみたところ、死因は病死だそうだ」

「亡くなられていた? では、何も分からなかったと?」

 徐恵が問えば師父は「とんでもない!」と頭を振った。


「収穫なしで取り引きするほど私もがめつくはないさ。それに、龍生派は医学薬学にも通じた流派だ。その掌門が病魔なんぞで死ぬものか。あんまりにも怪しいものだから、洪掌門の埋葬地を掘り返して調べてきた」

「墓所を荒らしたのですか?」

 徐恵は思わず顔を顰めそうになるのを我慢する。師父は姿こそ仏に仕える尼僧だが、内面はとんだなまぐさだ。洪掌門について調べるよう依頼したのは徐恵自身だが、なにも死者の安寧を侵害しなくともよかったのに。


 そんな徐恵の胸の内など毛ほども気にした様子を見せず、師父はむしろ手柄を誇るようにふんぞり返った。

「そのまま土葬されていたのが幸いだった。洪掌門の肋骨は無傷だったが、その下の肺がものの見事に潰されていたことがわかったよ。並みの医者なら肺の病と診断しても仕方ないだろうが、あれは掌打の一撃だ。洪掌門は殺されたんだよ」


 あっ、と徐恵は声を上げそうになった。肺病と誤診されるような掌打の一撃――それは魏徴を殺した手管と同じではないか。

「魏大人を殺害したのも、流螢が二度にわたって出会った刺客と同一人物だったのね。では誰が洪掌門を手にかけたのでしょう?」

「それを私が知るものか。ただ農夫たちが一緒に埋めたという洪掌門の遺品を調べて一つ気になることがあった。龍生派掌門の証にして龍生派武芸のすべてを記した武芸書がなかったんだ。しかもそれだけじゃない。農夫たちが言うには、洪掌門は殺される直前に弟子を取っていた。その弟子も洪掌門の死後、行方知れずなんだ」


 徐恵は息を呑んだ。それが意味するところは、つまり。

「その弟子が洪掌門を殺し、武芸書を持ち去った!」

 師父も頷く。

「状況を見るにそう考えるのが自然だ。その消えた関門かんもん弟子も若い小娘だったそうだからな」


 徐恵は厳しい表情を浮かべつつ確信した。間違いない、その娘こそが反皇太子側の刺客だ。

 師父はやれやれと肩をすくめる。

「弟子が師父を手に掛けるだなんて、何があったのやら。もしかすると洪掌門はとんでもないろくでなしで、その若い女弟子によからぬ真似でもしたのかも知れないねぇ? かなり童貞をこじらせていたし」


 そこで師父はぐっと背伸びをする。直後、ガシャンとその背後でけたたましい音が鳴った。楊怡が茶器を床にひっくり返している。背伸びした師父の腕が楊怡の持っていた盆に触れてしまったのだ。師父は転がり落ちた茶杯の中身を頭からびっしょりと被っていた。

 慌ててその場にひれ伏す楊怡。

「すみません! すみません!」

「いや、うん、今のは私が悪かったさ。えっと、それで何の話だったかな?」

「洪掌門が殺され、関門弟子の娘がその犯人であり、反皇太子派の刺客ではないかという話です。その弟子の足取りは掴めたのですか?」

 濡れた髪は楊怡が拭くのに任せ、師父はまた一つ点心を口に入れる。


「いはほれがほれどほろやなくなっへな」

「何を仰っているのかわかりません」

 もぐもぐ、ぐびぐび、ごっくん。酒で口腔内の物体をすべて流し込み、げふっと下品なげっぷを一つ。師父はポリポリと頬を掻いた。

「いやそれが、それどころではなくなってしまってな。斉王が謀反を起こしたのだよ」


 徐恵も楊怡も、この一言には硬直して何も言えなかった。


 師父が語るには、斉王は四日前に手勢の兵と領地から徴発した者たちを率い、都へ向けて進軍を開始した。斉王の右腕となってこの軍列の指揮を執るのは叔父のいん宏智こうち。彼は斉王の命により、監視役であったけん万紀ばんきという役人を捕らえ八つ裂きにして殺した。斉王は日ごろから自らの権威へ眉一つ動かさずに逆らうこの皇帝ちちおやの手先にはらわたが煮え繰り返っていた。斉王は日頃から粗雑な狩人たちと交流を結び身近に置いたため、皇帝から叱責をたびたび受け、監視役として権万紀が派遣されていたのである。


「城内の人間にもこれはかなり突然のことに見えたらしい。私も本来なら国の趨勢がどう転ぼうが気にしないところなんだが、宮中にはお前たちがいるからな。龍生派の調査を切り上げて急ぎ戻ってきたんだ。ほら遠慮なくねぎらえ」

 露骨な構ってくれ仕草を見せる師父。だがそれに応じてやる余裕は徐恵に無かった。


「大変! 陛下はそれをご存知なのかしら? 急ぎお知らせしなければ!」

 師父の軽功が卓越していることは流螢から聞いている。おそらくは早馬による伝文さえも追い越したに違いない。斉王叛乱の重大事は宮中ではまだ誰も知るまい。

 楊怡も主の意を察して師父の髪など放り出し、外出の準備をするため正殿を飛び出そうとした。ところが一歩外に出た途端、あっと声を発して戻ってくる。楊怡と一緒に戻ってきたのは息を荒げた江湖の渡世人ならぬ、男装の流螢ではないか。


「徐恵、大変よ。斉王が皇帝のお命を狙っている!」

「流螢! どうしてあなたがそれを? 皇太子はどうしたの?」

「皇太子とはお会いしていない。私が会ったのは、殷徳妃よ。それもつい先ほど亡くなられた。急いで温泉宮へ向かって! 皇帝の命が狙われている!」


 徐恵は目を見開いて驚いたが、いきなり詳細を問い詰めるようなことはしなかった。この状況で何が一番の大事であるか、聡明な彼女は理解していたからだ。

「楊怡と流螢は東宮へ行って皇太子に会い、援軍を要請して。私は玄武門で馬を借りて、温泉宮へ向かう」

「ダメよ。驪山にはもう斉王の放った刺客が迫っている。そんな中へ徐恵を一人で行かせるなんてできない」

 流螢が止めると、楊怡もこれに同調した。

「私も、婕妤一人で行かせるわけには参りません。ですが事が急を要するのも事実。私は武芸ができない役立たずですから、婕妤と流螢の二人で驪山へ。私が東宮へ向かいます」

 徐恵は一瞬考え込み、すぐに「これがいい、それがいい」と頷いた。


「楊怡の言う通りにしましょう。楊怡には私の銀牌を預ける。何かあれば使うと良いわ。流螢は木剣を持ってついてきて」

 徐恵は懐から銀牌を取り出し楊怡に渡す。これは徐恵の身分証のようなもので、これがある限り楊怡の言葉は徐恵の言葉と変わらぬ強制力と責任を有する。仮に東宮の門番が楊怡の進入を拒んだとしても、これさえあれば婕妤の権限で通過できる。


 その間に流螢は鍛錬用の木剣を手に取って返す。その背中にまだもぐもぐと点心を頬張っている師父が声をかけた。

「おぉい、私は何をすればいい?」

「黙って留守番をしていてください」

「はぁい」

 師父は高手つかいてだが扱いが難しい。積極的に国難に対処しようという気概などあるはずもなく、むしろ留守番しろと言われて嬉々としている。面倒ごとには関わりたくないのだ。それはそれで厄介が減るので流螢としては好都合である。


 徐恵と流螢は軽功で玄武門へ向かい、馬番の孫に駿馬を二頭借りたいと伝える。何事かと訝る孫にいちいち説明している暇はない。徐恵が適当に銀子をくれてやると孫はすぐに手綱を引いてきた。

「こんな夜中に外出とは奇特なことだな。しっかり馬の背中に伏せていろよ。枝に頭ぶつけて無様な顔をもっと無様にしないように」

 ムダ口を背中に駆け出す二人。その道中、流螢は殷徳妃との出来事を語った。その最期の様子を聴いて徐恵は深く嘆息する。


「夫人の位まで上り詰めてなお、徳妃は満たされなかったのね。私は子を持たないけれど、私も母親になったら同じことを思うのかしら」

 言ってから徐恵は失言に気付き、流螢を見た。流螢はどれだけ望んでも生涯子を持つことはない。もちろん流螢は徐恵の言葉になんの含みもないことを理解している。頭を振って何も気にすることはないと示した。

「子があろうとなかろうと、他者を巻き込んでまで望みを叶えようとしたことは赦されない」

「流螢の言う通りだわ。でもまさか、自害するだなんて。よっぽど罪の意識に耐えかねたのね」


 流螢は頷きながら、同時に内心では疑問も抱いていた。

(殷徳妃は直前に含桃を運ばせたけれど、結局は一粒も口にしなかった。それにあれだけの出血を伴う毒であれば喉まで焼けたはず。自ら死を選んだなら、そんな苦痛の大きな毒をわざわざ使うかしら?)


「流螢、あれ!」

 考え込んでいた流螢は徐恵の声で現実に引き戻された。慌てて手綱を引き馬を止める。


 前方に誰かいる。

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