二 罪の告白
あまりにも前触れのない発言だったため、流螢はしばし呆然としてしまった。すると殷徳妃も上手く聞き取ってくれなかったと誤解したのか、もう一度同じ言葉を繰り返す。
「皇太子を廃位させようとしたのは私です」
「それはわかっています。いや、わかってはいませんでしたがそんな気はしていたというか、ええっと、その――なぜ?」
何から明らかにすればよいのか流螢も混乱している。ごしごしと頬を擦りながら自分でも何を言っているのかわからない。
それらに構わず殷徳妃は勝手に話を続ける。
「どれだけ出来が悪くても、
「だからといって、なぜ皇太子を廃すのですか」
「皇太子が廃されれば、いずれかの群王が次の皇太子に据えられる。その空席に祐が収まればあの子は都に戻ることができる。私と一緒にいられる。そのために甘露殿を騒がせ皇太子の責を問い、女王武氏の予言を流布し、比武召妃では蕭美人を使って妨害した」
それなのに、と殷徳妃は自嘲じみた息を漏らす。
「あの方は……陛下はそれらすべてを握りつぶした! これだけの策を弄しても、陛下は少しも動じない。まるで私たち母子の浅はかな策略などすべて見通しているかのように」
流螢は得心すると同時に大いに安堵した。
皇帝は皇太子を廃する意思など微塵も有してはいなかったのだ。反皇太子派の策略に魏徴や皇太子らは振り回されていたが、そもそも皇帝の腹の内は一切揺らいでいなかった。ただ周りがむやみやたらに騒ぎ立てていただけに過ぎない。
(流螢よ流螢、皆よ皆! 私たちは元より意味のない疑心暗鬼に捕らわれ、振り回されていただけだったなんて!)
殷徳妃は侍女が注ぎ足した酒杯をまた一気に飲み干す。酒に酔った様子ではないが、憔悴しているように見えた。
「何か甘いものが欲しい……
「娘々、どうして今、それを私にお話しになったのです?」
侍女がこちらにも酒を注ぎ足そうとするのを遮り、流螢は身を乗り出して問い詰めた。
「私は皇太子派の人間です。皇太子ご自身が私を比武召妃の参加者に加えたことからもそれは明らか。なのになぜ、私にその胸の内を明かされるのですか?」
「疲れてしまったからよ。もうこんなことを続けることに、私は飽いてしまった。疲弊してしまった。だからせめて、すべて吐き出してしまおうかと思った。あなたも親元から引き離された身の上なら、私のこの気持ちを理解してくれるでしょう?」
宮人の大部分は花鳥使によって集められたか、わずかな銭と引き換えに売り払われた人々だ。ゆえに上巳節では多くの宮人たちが家族とほんのわずかなひと時を過ごす。殷徳妃が流螢もそのような境遇と考えるのは当然のことだ。
だが事実は異なる。
「恐れながら、娘々に申し上げます。私は確かに売られて宮中へやってきましたが、ここに留まるのは私の意思です。私は徐婕妤に仕えることを誇りとし、生涯付き従うことに何ら悔いはありません。私は現状に満足しています。これ以上を求めるなど過ぎた望み、ましてや……ましてや、他者を陥れてまでさらなる栄耀栄華を享受しようなどとは、微塵も思いはしません」
ぴくり、周囲の宮女たちが身を強張らせる気配を感じた。後半の言葉が殷徳妃を非難したものであることは明白だ。すぐにでも流螢を袋叩きにしたいと思っているのだろうが、主の手前で軽率には動けないでいる。ちらりちらりと殷徳妃の許しを待っている。が、殷徳妃に激昂の色はない。
ああ、と殷徳妃の口から息が漏れる。それは同情を得られなかったことに対する落胆か、あるいは自身の浅はかさを恨んでのことか。
「あなたはすでに
「悲劇? 娘々、それはいったい――」
「祐は今宵、兵を起こす。陛下を弑し、自らが玉座に就くために」
殷徳妃の手から酒杯が滑り落ちる。雫を撒き散らしながら杯は粉々に砕けて散った。流螢は息を呑む。今、この耳は何を聞いた?
「謀反を起こすつもりなのですか。なんて……なんて大胆不敵な!」
「祐のわがままには困ったもの。狩猟など殺生な行いをしてはいけないとあれほど言っても聴いてくれはしなかった。今回のことだって、蕭美人が失敗して、あの方の後ろ盾を失った時点で、私たち親子の命運は尽きていたのに。あの子も
宮女がやってきて含桃の盛られた大皿を二人の間に置く。殷徳妃はその一粒を摘まみ上げた。
「皇帝は今夜、
「どうして……どうしてそれを私に明かすのですか?」
「それは、あなたが力なきただの宮女だから。ただの宮女であるあなたが祐の暴走を止められるなら、それは天意にほかならない。だから私は……この国の命運をあなたに託すと、決めた。不可能が可能になるならば、それが私たち親子の、宿命――」
直後、殷徳妃の手から含桃が落ちる。それが床に転がるより早く、殷徳妃の口からおびただしい量の鮮血があふれ出た。その顎と胸と含桃の皿を瞬く間に赤く染める。侍女たちは悲鳴を上げ、流螢はさっと立ち上がってその場を退いた。どっと殷徳妃の身体が前のめりに倒れ、卓の上に突っ伏した。
「徳妃娘々!」
腰を抜かして後ずさりする侍女がほとんどの中、すぐ近くにいた近侍が慌ててその体を抱き起こす。あお向けにしてみれば殷徳妃は両目を見開き絶命していた。
毒だ。流螢は直感した。殷徳妃は毒によって死んだのだ。おそらくは酒の中に混ぜていたのだろう。あっという間の出来事だ。
悲鳴と号泣。突然の主の死に侍女たちは混乱している。流螢はそれらに背を向け酒楼を飛び出した。
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