五章 上元節の変事
一 禅問答
はっと我に返って距離を置く。次いで楊怡の大きな咳払い。流螢と徐恵は示し合わせたように互いに触れていた腕を引っ込める。さすがの徐恵も今のは人前ですることではなかったと反省しているのだろう。顔を伏せて耳まで真っ赤だ。
「上元節をお楽しみのところ失礼いたしました。朱流螢さまで間違いありませんね?」
楊怡の隣にもう二人、いつの間に現れたのか宮女らしき娘が立っていた。らしき、というのは彼女らもまた各々煌びやかな衣装に装飾品を備えていたからである。
流螢は一度頬を肩に擦りつけ、それから先頭にいる娘へ向き直る。
「朱流螢は私です。そちらは?」
「名乗るほどの者ではございません。我らの主人が朱流螢さまをぜひ宴席にお招きしたいと仰せです」
「私を? 徐恵ではなくて?」
「あなたを、です」
流螢は徐恵を振り返り、徐恵もまた横目でその宮女を見た。
「あなたの主は誰?」
徐恵が問う。
「それはお答えできません。ですが、きっと悪いようにはいたしません」
徐恵は一度不信感もあらわに眉を顰めたが、すぐに何やら思いついたように表情を明るくした。
「それはいい、これはいい! 流螢、ぜひともお呼ばれしなさいな。こんな機会はまたとない」
「相手は誰なの?」
流螢が問うと、徐恵は肘で脇腹を小突いた。まだわからないのかとでも言いたげに顔を寄せ耳元にささやく。
「今宵は男女が逢瀬を交わす夜。この状況で皇太子以外にあなたを呼び出す御人がいると思って? 十分に粗相のないように気を付けるのよ」
徐恵は躊躇する流螢の背中を構わずぐいと押して送り出す。ぶんぶんと手を振って見送られてしまった。本当に皇太子からの呼び出しだろうか? あの様子では行きたくないと言ったところで聞いてくれそうもない。流螢は他にどうしようもなく、宮女たちについて行くことになった。
流螢は宮女たちに先導され、人混みを分けながら後に続く。やがて連れてこられたのはいかにも高級そうな酒楼である。中に入ってみればどの宴席でも高官や豪商らしき人物が外の風景を肴に酒を酌み交わしている。それらをすべて横目にして、宮女は楼の最上階へと流螢を導いた。
「
「通しなさい」
穏やかな女性の声が応じる。やはり、と流螢は心中呟いた。徐恵の推測は誤りだ。いくら皇太子でも公衆の面前で後宮の侍女を呼び出すような真似をするはずがなかった。では、娘々と呼ばれた今の女性は何者だ?
宮女は扉を開けて流螢を通した。衝立を回り込んですぐ、真正面に一目でこの場の主と知れる女性が肘掛けに身体を預けているのが目に入った。
服の刺繍は牡丹、簪には紅玉、手にした酒杯は銀に五色の玉をはめ込んでいる。顔つきはふっくらとしており、目は細く、撫で肩で、胸は徐恵以上に豊満だ。左右にはまた別の宮女たちが侍り、二人は団扇を煽ぎ、一人は酌をし、そして流螢を案内してきた宮女はその横に控えた。もう一人流螢を迎えに来た宮女は部屋の外にいる。
記憶の中から相手の素性を探り当てる。思わず身体がこわばった。目の前の人物には一度だけ会ったことがある。流螢が比武召妃に参加することが決まった、あの参加者発表の場で。
流螢は帷帽を取ってその御前に進むやひれ伏した。
「清寧宮の朱流螢、
相手は夫人位の一人、
「礼は免じます。どうぞこちらへお座りなさい」
「感謝いたします、娘々」
起き上がった流螢は誘われるまま、侍女が円座を配した殷徳妃の向かい側に座る。もちろん、貴人を直視するような不敬は犯さない。視線は斜め下へ。
馬毬試合で暴走事件を引き起こした蕭美人は殷徳妃と交流があった。皇太子の敵と目される群王の一人斉王は、殷徳妃の息子だ。徐恵も殷徳妃は警戒するようにと言っていた。それがまさか、あちらから接触を計ってくるとは。流螢は全身の神経を張り詰めて警戒した。
(流螢よ流螢、殷徳妃が敵と決まったわけではないけれど、私一人を呼び出したのには必ず意味があるはず。この場において一切の油断はできない)
殷徳妃はそんな流螢の姿をまじまじと上から下まで見つめ、それから何やら納得するように首を縦に振る。
「早速噂になっているそうね。麗しい女性が殿方の格好をして、それはそれは垢抜けて洒脱であると。きっと明日には都中の胡服が売り切れてしまうでしょう」
予期していなかった称賛の言葉に、流螢はぎくりとして身体を小さくする。被服の心得はあっても自身が着飾ることにはまるで慣れていない流螢である。まさか夫人位の妃嬪から装いを褒められるとは思ってもいない。頬を肩に擦りつければ、せっかく楊怡が施してくれた化粧はすっかり剥がれ落ちてしまった。
「そんな、買いかぶりすぎです。私はただの宮女なのに」
「この上元節で誰が妃嬪で誰が宮女であるかなど関係ない。人々はこのまばゆい光の中でもっとも心に響くものを探し出すだけ。一切の貴賤、一切の怨恨も関係なく。――顔を上げなさい。もっとじっくり見てみたい」
房遺愛に苦笑されるような面構えなのに、人々はどうしてこの朱流螢の容貌を気にするのかと甚だ疑問にしか思えない。とはいえ命じられたなら仕方がない。流螢は「はい」と答えて顔を上げた。殷徳妃は流螢の容貌を値踏みするように見つめた。
「……皇太子があなたを気に入った理由が、なんとなくわかる気がする。困難に立ち向かう強い力を感じる。あなたは武芸のみならず、予備試験の知恵比べでも良い成績を修めたそうね?」
さすがに面と向かって不細工とは言われなかった。流螢はまたさっと視線を落とす。
「あれは徐恵の助力あってこそです。私には教養がなく、文字すら読めません」
「随分と正直ね。普通は人に見下されることを恐れて隠そうとするのに」
「……嘘は、嫌いなので」
何と答えるのが正解なのか、流螢にはわからない。それならばいっそ、正直な受け答えをするしかない。流螢は決して聡明ではない。策略を巡らせたり、それを見抜くような眼力は持ち合わせない。ならばこうして誠実に答えるだけだ。
「それは美徳であり、そして弱みでもある。だけれどそのような人柄こそが、もしかすると皇太子妃には必要なのかもしれない。身の丈を偽っているといつの間にか自分でも嘘を嘘と認識できなくなって、きっといつか大きな過ちを犯す」
殷徳妃は酒杯を一口含み、それから小さく息を吐いた。
「――一つ、答えてほしい。あなたのもっとも愛する人が大きな過ちを犯そうとしている。それを知ったとき、あなたはどうする?」
流螢は瞠目した。殷徳妃は敬虔な仏教徒であると聞き知っていたが、これはいったい何の禅問答か。いきなり話が飛躍しすぎている。もっとも愛する人? 大きな過ち? それは何を
考えるあまりに無言になってしまいそうになる。流螢は先と同様に、思うままに答えることに決めた。
「……私はあまりにも愚かで、娘々の真意が分かりません。大きな過ちというのが何であるかも察することはできません。ただ私は――正しくありたいと願っております」
「正しく――」
殷徳妃の表情に憂いが混じる。流螢はドキリとした。返答を誤っただろうか。しかしながら今のが嘘偽りない流螢の答えだ。取り繕うつもりはない。
殷徳妃は呆れるでもなく、さりとて叱責するでもなく、噛み締めるように「正しくある」と小さく繰り返す。ややあってから納得するようにゆっくりと頷いた。
「私もそうすべきだったのでしょうね。自らの心に恥じない、正しい在り方を貫くべきだったのかもしれない。何度も諭して、立ちはだかって……だけども私は諦めてしまった。それこそが私自身の大きな過ちであるとも知らずに」
流螢は心中
「皇太子を廃位させようと目論んだのは、私です」
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