八 灯樹の下で

 雪解け水が流れ出し、日差しが春の陽気を帯び始めるころ。人々は少し浮足立っていた。街の至るところに灯籠が掲げられ、火が入れられるのを待っている。若者たちはこの日のためにと仕立てた衣装に身を包み、身だしなみを整えるのに余念がない。


 今日は一月十五日、上元じょうげん節である。通常、都は夜になると自由な外出ができなくなる。東西南北の工芸品や文化が流れ込むこの都には数多くの異民族が居住するため、要らぬ犯罪が起きぬようにと警戒してのことだ。だが年に一度だけ、夜行が解禁される日がある。上元節とその前後三日間がそれだ。

 本来は養蚕とそれにかかわる紫姑神しこしんを祭る南方の風習だったが、その文化を取り入れる際に性質が変化し、もっぱら今では街中を照らす灯籠と月明かりの下で昼夜を通して人々が交流を深めるものとなっていた。若者たちが自身の見てくれをやたらと気に掛けるのは、意中の相手、あるいはこれより出会うであろう魅力ある相手に備えてのことだ。


 皇城でもその浮かれようは同じで、妃嬪らも朝から慌ただしくめかしこんでいた。めいいっぱいの化粧を施し、額には花鈿かでんを押し、かんざしを山のように挿し、刺繍靴に足を通し、鳥がその美しさを誇示するかのように庭を出歩いた。そして夜には大勢の宮女を引き連れて街中へと繰り出し、その美的感覚がどれだけ洒脱で先鋭的であるかを下々の民に見せつけるのだ。宮中の流行はそのようにして都の民へ、そして地方へと広がってゆくのだ。


「流螢ったら、本当に何にも考えていなかったの?」

 精緻な青い花弁の刺繍を施した衣装に身を包み、徐恵は呆れ果てるように言った。楊怡もその後ろでやれやれと頭を振る。この日ばかりは楊怡も宮女の青衣を脱ぎ捨て、薄紅色の長裙ちょうくんに白い大袖だいしゅう沙羅さらを掛け、頭には牡丹を模した飾りを付けている。徐恵ほどではないにせよ思う存分に着飾っていた。


 だというのに。流螢は木剣を片手に頭を掻いた。

「本当に、何も考えていなかったわ。どうしよう、皇太子から頂いたあの紅のスカートはちょうど洗濯に出してしまったし」

「このごろちょっと鍛錬に入れ込みすぎじゃない? 私が衣装を作らせている理由を何も考えなかったの?」


 徐恵の今日の衣装は大半が流螢の手によるものだ。流螢がもう少し日常の変化に気を遣っていれば、それが上元節に向けての準備だと悟ったはずだ。そして流螢自身もまた、年に一度の装いを準備していたことだろう。

 それがどうだ。日々武芸の修練に明け暮れて、今日も徐恵に言われるまで木剣を振り回していたとは。


尚儀しょうぎ局へ行って、何か適当な衣装を身繕うのはどうでしょう?」

 楊怡の提案に頷く徐恵。

「あの裳が使えないのなら、そうするしかないわね。――来なさい、流螢。今日ばかりは武芸もお預け。何が何でも私に付き合ってもらうからね」


 徐恵は流螢のあまりの無関心さにいくらか憤っているようだった。それもそうだ。女たるもの、上元節で着飾らずして何とする? 半ば無理やりに流螢を尚儀局司制しせいに向かった。司制は妃嬪の衣服を管理する、流螢が飛麗雲であったころの勤め先だ。


「私の侍女に見合う服を持ってきて!」


 扉を入るなり徐恵は開口一番大声で命じる。妃嬪が突如訪問したことでその場に居合わせた宮人らは仰天したが、すぐさま種々の衣装を持ってきた。流螢は徐恵に急かされそれらに袖を通す。

 ところが、いずれの衣装も大きさが妙に合わないか、着合わせがどうにもしっくりこない。十数着を試してそれでも徐恵が満足できないでいたところ、司制の宮女がおずおずと言った。


「恐れながら、徐婕妤。本日は上元節のため、他にすぐお出しできる衣装がありません。ここに残っているのはどれも他の侍女や妃嬪、公主の方々の衣装のみです」

「空いている服がないですって? そんなはずはないでしょう。ここにはあらゆる衣装が揃っているはず」

「お許しください! そちらの朱近侍は、その、背丈がある一方で起伏が少ないため、見合う衣装がないのです。残ったのは男性用の衣装ばかりで……」

 流螢は表情を引き攣らせて苦笑いを浮かべるしかない。まさかここで貧相な体格を指摘されるとは思いもしなかった。胸も尻も質量不足は百も承知だが、ただ外出するだけの服選びにも支障が出るとは。徐恵も「あー」と言いながら視線を向けるのをやめてほしい。羞恥のあまりに平坦な胸を突き破って血が噴き出しそうになる。


「……うん、それがいい。これがいい」

 やがて徐恵は諦め半分でそう呟き、宮女に何やら命じ、それから流螢の肩をぽんと叩いた。

「武芸しか頭にない流螢には、むしろぴったりの姿よね」

 宮女が持ってきた衣装を広げて、流螢は絶句するしかなかった。


***


「あら、あれを見て」

「なんと美しい好一対こういっついかしら」

「よく見て。喉ぼとけが見えないし、肩もなだらかよ」

「えっ! まさか、あれは女性なの?」


 すれ違う人々の囁く声が耳に入り、流螢は羞恥で顔から火が出る思いだった。せめて徐恵が貸してくれたあの花飾りの帷帽があるだけマシと思うしかない。


 上元節でもっとも華やかになるのは、皇城の西、安福門の前である。ここでは数々の名門貴族たちが自身の権勢とその財を誇示し、十丈三〇メートル以上はあろうかという巨大な灯籠を作って夜空に並べるのである。色とりどりの旗がなびき、特別に設置された舞台では千人近い舞妓たちがひらひらと袖を振って舞い踊る。都の民はもちろんのこと、妃嬪や宮女たちもこれを見ようと大勢が詰めかけ風流に浸っている。

 そんな中、人混みがさあっと開ける一角がある。その中心にいるのは腕を組んだ二人と、それに少し遅れて付き従う侍従の三人組だ。腕を組む二人のうち一方は華やかな女性の装いであり、青い花弁の刺繍は灯籠の光を受けて七色に変化する。その女性が腕を組んでしなだれかかる相手は胡族の衣装を身に着け、腰には煌びやかな剣を提げ、文武備えた瀟洒な若者であるように見えた。誰もがこの一対を前にすると思わず目が眩んだようになり、知らず知らずに道を開けてしまうのだ。


「ねえ、徐恵。その……腕を放してくれないかしら」

 胡服の若者が小声で問いかけた。この風采優れた人物は、流螢の男装だった。武芸に明け暮れて時節も忘れてしまうようならば、いっそ江湖の侠客を気取ってみればいいと徐恵がほぼ強制的に着せたものだ。ゆえに徐恵の返答は明快である。


「ダメよ。こんなに人が多い中で私を迷子にするつもり? それよりももっとしゃんと背中を伸ばしてよ。私の付き人がそんな弱腰では不釣り合いだわ」

「だ、だけど、みんなが私を見ているのよ?」

「結構なことじゃないの。せっかくだからもっと見せつけてやりましょう」

 言うなりぐっと流螢の二の腕に柔らかいものを押し付ける。流螢はぎょっとして背を伸ばしつつ、帷帽の縁を摘まんで引き下げる。本人は上気した顔を隠そうとしているのだが、これがまた傍目には趣深く見えたらしい。きゃあきゃあと騒ぐ町娘たちの声が右から左から聞こえてくる始末。流螢の胸中は何とも言い難い有様だ。


 楽隊と乙女たちの舞台を回り込み、清寧宮の一行はさらに道の先へ。すると見上げんばかりの巨大な光の大樹が見えてきた。灯籠を二十丈六〇メートルの高さからいくつも連ねた灯樹とうじゅと呼ばれるものだ。それが一つだけでなく何百と立ち並び、その合間にさえも灯籠は掲げられ、巨大な光の庭園を造り出している。

 そんな幾千幾万の灯籠が漂うさまは、いわば天空の銀河が地上へ降りてきたかのように感じられた。


「……綺麗ね」

 流螢の口から、自然とその言葉は零れ落ちていた。

「ええ。本当に綺麗ね」

 徐恵の相槌はすぐ耳元で。視線を向ければ、大きな瞳とパチリと合った。徐恵は帷帽の薄沙を少しめくって、流螢の顔を覗き込んでいた。


「本当に綺麗よ、流螢」


 流螢は思いもかけない言葉に硬直してしまった。真正面から徐恵の顔を見つめ返す。万の灯籠がその白い頬をほんのりと照らし、大きな瞳の中には光またたく宇宙があった。流螢は自身でも知らぬ間に腕を伸ばし、徐恵の腰を抱いて引き寄せていた。あん、と徐恵の唇から艶やかな音が漏れる。


(流螢よ流螢、今日はどうしてしまったの? 気脈が陽に傾いてしまったの?)


 人々の喧噪も、好奇の視線も、もはや遠いどこかのようだ。甘く吐息もかかるほどの距離で、徐恵は静かに瞼を閉じた。流螢も顔を寄せた。その他の一切は世界から消え失せていた。


「――もし、朱流螢?」

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