七 流れる醜聞

 李君羨は華州かしゅう刺吏しりの任を与えられ、都を去った。それ以降、女王武氏が云々の予言は誰も口にしなくなった。一切の片がついたのだ。


 それに前後して、東宮から荷物が届けられた。


 真意を悟られないようにするため、称心には龍生派の他にいくつかの門派について少林寺で調べてほしいと依頼した。名目は比武召妃で勝ち進むための技の研鑽だと偽ったのだ。称心はこれを快く引き受け、それから十数日後には清寧宮に数巻の書物が届けられた。

「武芸書、ではないわね。でも龍生派の特徴が事細かに書いてある。武芸としての技法は多くない。しかし薬学に優れ、自身を強め敵を弱める術に長ける……。あっ! 流螢、ここを見て!」

 玉卓に広げて内容に目を通していた徐恵は一点を指さす。もちろん流螢に読めはしない。


飛来蛟ひらいこう、とあるわ。流螢が型取りしたあの技よ。動きの解説が書いてある。それに対処法も! さすがは少林寺ね。ここまで他流派を研鑽しているなんて。加えて字も達筆ね」

 書に通じる徐恵には書かれている文字以上の何かが感じ取れるのか、一文字追うたびに感嘆の息を漏らしている。

「他には何か書いていない?」

「ちょっと待って。……飛来蛟の他に、「風起牢ふうきろう」「覇山靠はざんこう」「化幻蜃かげんしん」の解説と対処法があるわ。多分、どれも龍生派の基本技なのね。これがすべてではないにせよ、対処する技法を習得すれば敵がこのいずれかを使った瞬間に勝負を決められる」


 四つも対処法がわかれば十分だ。流螢は早速、徐恵と共にそれぞれの技の再現を試みた。系統が異なる武術を文章のみから完全に模倣することは不可能だが、形を作るだけならばなんとかなる。連日鍛錬を続けること数日、二人はようやく四種すべての型取りとその対処法を形にすることができた。あとは繰り返し鍛錬するだけだ。

「徐恵はあまり長く外にいると風邪をひくから、中に戻っていて。私は一人で鍛錬する」

 流螢の申し出に指先のかじかんだ徐恵はあっさり従い、早々に室内へ戻って火鉢に手をかざした。時節はまさに冬の最中。中庭はすっかり厚く雪が積もっている。真ん中だけ地面が剥き出しになっているのは流螢が朝から鍛錬を続けた結果だ。


「流螢の才能は本物ね。私はちょっと器用なだけで、あれほどの熱意を持って取り組むなんてできないもの」

 誰にともなく呟く徐恵。元来聡明な徐恵は学び始めこそ流螢も驚く進歩を見せたが、流螢に追いついて以降はほとんど上達を感じなくなってしまった。それは共に学ぶ流螢の技量が低いというわけではなく、徐恵自身が自らの限界に達してしまったためであると理解していた。

 誰にでもどの分野でも、到達できる上限というものがある。徐恵は書や歌舞、馬術に通じ、そのいずれも一定の域に到達している。が、結局はそこまでだ。熟達の域には到達しても、至高の境地には到達できない。所詮は器用貧乏だ。

(武才人の事を言えないわね。私は書だけがほんの少し他より飛びぬけていただけで、そうでなければ何も特徴のない冴えない妃嬪に変わらない。だけど流螢は違う。限界のその一歩先へ踏み出そうとしている。私にはとてもできない芸当だわ)


 カタン、と背後で物音。徐恵が振り返ると、尚食局まで昼食を取りに行っていた楊怡が戻ってきたところだった。今の物音はひつを壁にぶつけたものだ。

「……楊怡?」

 徐恵はすぐに異変に気付いた。いつもの楊怡は出先から帰れば必ず聞こえるように声をかけてくるし、櫃をぶつけるなんてことは絶対にない。足取りもふらふらとしてどこか危なっかしい。徐恵は木剣を振る流螢を庭に残し、楊怡の後を追った。食事の前に楊怡は必ず湯を沸かす。行き先は厨房だ。


 竈の前で楊怡は蹲っていた。やはり、と確信する徐恵。これは明らかにおかしい。

「楊怡、どうしたの? 何かあったの?」

「婕妤……」

 振り返った楊怡の両目は真っ赤に充血し、喉も震えている。声を押し殺して泣いていたのだと一目でわかる。

「これは、その、何でもないのです。目にゴミが入って」

「両目とも?」

 言ってしまってから、これは意地悪だったな、と後悔する。わざわざ追い詰めなくても良いだろうに。だが徐恵はこうも考えた。自分は楊怡の主だ。侍従が心痛めているのを黙って見過ごせるものか、と。


「どうしても話したくなければ、答えなくていい。ただ私があなたの味方であることは約束する。その上で一度だけ訊くわ。――何があったの?」

 楊怡は一度口を開きかけ、しかし一度閉じ、ぐっと考え込んだ。

「……流螢は今どこに?」

「庭で稽古中よ。もしかして流螢に関わること?」

「半分は、そうです」

「呼んだほうがいい?」

「いえ、いないほうが良いでしょう」


 楊怡は立ち上がってかまどに体を預ける。ずずっ、と鼻を啜り上げた。

「尚食局へ向かう途中で、東宮の宮女らが話しているところに居合わせたのです。私は皇太子の近況が知れないかと側によって聞き耳を立てました」

 噂好きの楊怡らしいことだ。

「私もそれは気になるわ。それで? その宮女たちは何を話していたの?」

「皇太子は以前にも増して素行が荒れ、酒量も増え、一切のまつりごとを放り投げ、そして……そして……」

 楊怡の瞼にたちまち涙が溢れる。徐恵が腕を回して背をさすってやると、とうとう堪えきれずに徐恵の胸に飛び込んだ。


「皇太子は毎晩毎晩、夜遅くまで自室の明かりを灯しているのです。しかもお召しになるのは妃妾ひしょうでもなければ官妓でもなく、いつだって称心さまだと。毎晩毎晩お二人は、お二人は……倒錯しておられるのです! 妃をめとられぬのもそれがため。男性が男性を愛するだなんて、ああ!」

 泣き崩れる楊怡を支えきれず、徐恵もまた愕然として膝を突いた。

(私だって他人のことは言えた義理じゃないけれど……よりにもよって皇太子が? たかが宮女が口にする戯言ざれごとにしてはあまりにも大事過ぎる。真偽はともかく、これはいよいよ皇太子の立場は危ういわ)


 せっかく「国三代にして女王立ち、李に代わり武が栄える」の流言を封じたというのに、ここにきて男色趣味とは。これはとんでもない醜聞だ。市井の豪商が男娼を囲うというのは聞く話だが、皇太子でそれはまずい。皇太子に求められるのは政治的手腕、為政者としての器もさることながら、次なる世代を繋ぐことも重大な責務だ。その血統を絶やすことなく連綿と繋いでゆく、それができなければ皇太子たる資格はない。

 魏徴が世を去ってから徐恵には政界の動きが見えづらくなっている。内廷と太極宮は城壁一つ隔てているだけだが、妃嬪は元より政治に干渉できないもの。楊怡の情報網からその断片を得ることしかできない。


(皇太子はすでに朝議を欠席するようになって久しい。それに代わって呉王と魏王が進出してきている)

 とくに魏王は先日、遂に地理書「括地志かっちし」の全五五〇巻を完成させた。皇帝はこれを大いに喜び、魏王を褒め称えたという。これは皇太子の立場を著しく揺るがす出来事だった。


「東宮の妃嬪が何名か、比武召妃の棄権を申し出たそうです。名目上は冬の寒さで体調を崩したなどと言っているそうですが、事実は違います。もはや今の皇太子は斜陽の人、望んで妃になろうとする者などいません」

「楊怡、それを口にしてはダメ!」

 どれだけ事実がそのようであったとしても、それを口にすることは大いに不敬だ。ましてや未だ噂話や推測に過ぎないそれをあたかも事実であるかのように吹聴することは絶対にあってはならない。


(人生意気に感ず、功名誰かた論ぜん――。魏大人は重病の身を押して死の間際まで皇太子をお護りしようとした。私は女だけれど、その心意気は私にだって感じられる。魏大人は皇太子の未来を私たちに託したのよ。徐恵よ徐恵、これに応えずどうするの?)

「皇太子の失脚なんてない。絶対に私が阻止して、流螢を皇太子妃にしてみせる。だから今の話は流螢には内緒――」


 カラン。背後で何かが床に転がった。ハッとして徐恵が振り向けば、そこには木剣が一振り転がっているだけだった。


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本作をここまで読んでいただき、ありがとうございます。

誠に勝手ながら、これ以降の原稿がまだ仕上がっていないため、今回を以て更新を一時停止とさせていただきます。

できるだけ早く、中間選考結果発表前には完結するよう努力いたしますので、次回更新まで今しばらくお待ちください。


2020年1月29日 古月


(追記)

更新再開しました。引き続きお楽しみください。

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