六 敵と味方と
後日、弘文館は侵入者騒ぎのために警備が厳重となり、また魏徴の執務室は清掃されたとのことだった。
目下後宮の関心事は比武召妃の継続だ。称心が危惧した通り、あの日以降中止を求める機運は高まっているようだ。
「
流螢は柱の側で宮女らの囁き合うのを聞く。名の挙がった二名はいずれも朝廷の重臣だ。彼らはいつか流螢も聞いた「国三代にして女王立ち、李に代わり武が栄える」の予言を持ち出し、比武召妃を潰そうとしている。
(占いごときに振り回されるなんて、なんてバカバカしい。あるいは単に利用しているだけ? いずれにせよその二人、皇太子の味方ではない。あるいはもしかすると、敵かしら?)
疑心を深めそうになるのを頭を振って堪える。深く吐いた息が白く濁る。
(流螢よ流螢、軽挙妄動は慎みなさい。徐恵の禁足はまだ解かれておらず、清寧宮は迂闊に事を起こせない。魏大人亡き今、一切は徐恵の判断を仰がなければ)
流螢は両手に抱えた
清寧宮に戻ると、徐恵と楊怡が玉卓を囲んで座っていた。茶を嗜んでいるのかと思いきや、どうやら様子が変だ。何事だろうと首を傾げた矢先、流螢に気づいた徐恵が手招いた。
「ようやく帰ったわね。流螢、こっちへ来て、これを見て」
言われるままに腰を降ろすと、徐恵はその眼前に一部の書類を差し出した。その色、その形、流螢はどこかでそれを見た。しばし記憶を探り、はっとして思い至る。
「これは――まさか、魏大人の執務室から持ち出された、あの書類では? どうしてこれがここに?」
「やっぱりそうなのね。これは先ほど、称心さまが届けてくださったの」
「称心さまが? ではあの夜、称心さまもあの場所に?」
流螢が身を乗り出すのを、徐恵は手の平を掲げて制した。
「落ち着いて、順番に私の話を聞いて。確認だけれど、これは魏大人の執務室から持ち出された物に間違いないのね?」
流螢は頷いて答えた。なるほど、と徐恵は腕を組んだ。何から話すべきか考えるように目を閉じ、ややあって「それがいい、これがいい」と呟く。話はまとまったようだ。
「候将軍の兵営で私たちに無礼を働いた兵士を覚えている? あれの名前が
流螢は顔を顰めつつ驚いた。思い出したくもない記憶だが、しっかり覚えている。しかしそれがまたどうして急に?
「あのときのことが皇帝の耳に入ったから? いまさら?」
「もちろん違う。左遷の理由はこれよ。この書類が今朝、陛下の枕元に置かれていた。何者かが夜のうちに甘露殿に侵入して置いていった」
流螢の驚くまいことか。人間は就寝中がもっとも無防備だ。ゆえに皇帝の寝殿である甘露殿はより厳重な警備であったはず。皇太子の敵もそれを見込んで偽りの刺客を送り込んだのだ。それなのに、その警備をかい潜って殿中に忍び込んだ者がいるとは。
これは、と言って徐恵は書類を開く。
「李君羨の身の上を記した調書よ。李君羨、武安の出身で、武連に封じられ、今は玄武門にて左武衛将軍の任を与えられ門番を務めている」
「それがどうして左遷の理由になるの?」
「気づかない? この人の出自にはすべてある一文字が含まれている」
流螢は今しがた徐恵が読み上げた内容を反芻すること三回、あっと言って思い至った。
「すべての経歴に武の一字が含まれている!」
「その通り。そして、彼の幼名は
国三代にして女王立ち、李に代わり武が栄える――魏徴も生前に頭を悩ませていたあの予言。やがてこの国の第三代皇帝となるべき皇太子を暗に貶す流言。
「皇帝はこの李君羨が、将来国を乗っ取ると考えた?」
「本気でそう思ったわけではないでしょう。でも、皇太子の周りでこそこそ陰口を叩く連中を黙らせるには十分だっただけのこと。李君羨には申し訳ないけれど、あれは身代わりにされたのね」
徐恵は元来、他人の不幸を望むような人間ではない。だがあの日、禁苑で李君羨が流螢に大してやった行為には強く不快感を示していた。ゆえに憐れむこともない。妃嬪を官妓と見誤り、名目上は皇帝の所有物である宮女に手を出した。その罰が下ったと考えれば妥当なものだ。
「これは私の推測でしかないけれど」
徐恵は一度言葉を切り、茶を一口含む。楊怡がすかさず茶壺に湯を足した。
「李君羨を女王武氏に仕立て上げようと最初に考えていたのは、魏大人ね。魏大人は敵をどのように探り、追い詰めるか、その詳細を多くは語られなかった。私だけじゃない、皇太子にも秘密にしていた。それはきっと、自身の策が漏れて玄武門の変を引き起こしたことを悔いていたから。だから魏大人は私たちにも何も言わず策を講じていた。その一つがこの調書だったのよ。ただ、敵の方が一枚上手だった」
「そうか、魏大人が暗殺されたのは、敵方にその動きを悟られたから!」
女王武氏の予言は官僚のみならず民衆にも広まっている。それは皇太子に対する不信感を大いに煽る材料になっていた。皇太子廃位を目論む側としては、この大事な手札を失いたくなかったはず。魏徴がこれを突き崩す材料を手に入れたなら、力づくでも止めようと考えたに違いない。
ただ、そうなると新たな疑問が浮上する。
「ではあの夜、私が見たあの人は何者だったの? なぜ弘文館からこの調書を持ち出し、甘露殿へ届けたの? 調書が甘露殿に届けられたなら、あれは皇太子の敵ではなかった?」
あれが魏徴を暗殺した犯人であったなら、李君羨の調書は今ごろ灰になっているはずだ。
「私が見たあれは、まさか……魏大人の亡霊だったのかしら? 死してもなお皇太子のため、皇帝の枕元にこれを届けようと?」
言いながら流螢はぶるりと身体を震わせ、頬を肩に擦りつけた。自分で言いながら、まさか自身は亡霊と手を交わしたのかと
「それは違う。魏大人はとにかく慎重で、最低限の相手にしか策を教えなかった。きっと私たち清寧宮以外にも協力者がいて、調書を持ち去ったのはその人よ。魏大人の遺志を継いで事をやり遂げたのね」
徐恵は大きなため息を一つ、不意に
季布無二諾
侯嬴重一言
人生感意氣
功名誰復論
流螢はさらに強く頬を擦りつける。恥を忍んで問うた。
「それは誰が詠まれた詩? それはどのような意味?」
「これは誰あろう魏大人が詠まれた詩の一節よ。一度やると決めたことはやり遂げる、人生とは心意気に感じて事を成すもので、功名を上げることが目的ではない――魏大人は死してもなお皇太子を守った。魏大人も、そしてその意思を引き継いだ誰かも、とても立派だわ」
流螢はすっと背筋を伸ばした。魏大人が病に侵された身体でなお、皇太子のために奔走していたことを流螢は知っている。その心意気には実に感服したものだ。
ゆえに今、魏徴の述懐を知るにあたり、自身に宛てた遺言のようにさえ思えた。
(流螢よ流螢、お前はいずれ歴史に名を残すことなく消えてゆくちっぽけな人間だけれど、その人生を何に賭すかは明らか。魏大人亡き今、皇太子をお守りできるのは私たちしかいない)
そして同時に、こうも考えた。
(宮中には皇太子の敵がいる。そして味方もいる。でも、それはいったい誰なのかしら?)
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