五 龍生派
師父は何と言った?
流螢が何も答えないので師父は首を傾げる。
「違ったか? 今のは龍生派の『
「今のは皇太子を襲った下手人が使った技です。師父はこの技を知っているのですか? これは、龍生派が使う技なのですか?」
先ほどまでの怒りはどこへやら、流螢は師父に詰め寄った。師父はその剣幕にいささかうろたえたようにしつつ頷く。
「確かにそう見えた。念のためにもう一回、一人で型取りしてみろ」
言われたとおりに流螢が型を演じると、師父は深く頷く。
「やはり間違いない。それは龍生派の『飛来蛟』だ。当代
「では、龍生派の弟子を調べることで下手人の正体がわかるかも! 洪掌門はいまどこに?」
徐恵は高揚のあまりに流螢の手をぐっと握った。ずっと進展がなく懊悩していた案件が、まさかこんなところで新たな糸口に遭遇するとは。
「最後に消息を聞いたのはもう何十年か前だが、確か
「斉州? ではまさか、斉王の身辺にその門弟が?」
斉王
「洪掌門は立国の争乱に疲れ果てて俗世を疎んだと聞く。それから斉州に移り住んだから、それ以降に弟子を取ったとは思えないが。……いやまあ、何事にも例外はあるか」
ちら、と師父は流螢に視線を向ける。師父も本来、流螢を弟子にするつもりなどなかった。それをどうしてもと追い縋るものだから仕方なく弟子にしたまでのこと。洪掌門も見どころある者を見出せば弟子に取るかもしれない。
「
「なんだ弟子二号よ。そんなに畏まって」
だから徐恵は弟子ではない、と流螢は口を挟みかけて、やめた。今はそんなくだらないやり取りをしている場合ではない。
「妃嬪や宮女は街に繰り出すまではできても、斉州のような遠方まで出向くことは叶いません。加えて私は禁足の身分、行動は制限されております。そこで先輩にはご足労をおかけしますが、私たちに代わって洪掌門を訪ねてもらえないでしょうか?」
「ははぁ。龍生派の門弟が今どこで何をしているか、探ってほしいというわけだね? まあ、弟子の頼みならやってやらんことはないが」
ちら、とその視線が流螢に。その意図は明らかだ。徐恵は正式な弟子ではない。ならば流螢が頼むしかない。
「わ、私からもお願いします……」
「んん~? 聞こえないなぁ~?」
流螢は内心で盛大な舌打ちを漏らす。この師父は人の足元を見ては際限なく屈辱を与えてくる。とはいえ流螢もここで物事の優先順位を間違えるほど愚かではない。ここは屈辱を受け入れるしかない。
「お、お願いします!」
「それで私には何の得があるのかなぁ~?」
流螢は泥を掴んでその高慢ちきな口に突っ込んでやりたい衝動を抑えるのに必死だった。それを知ってか知らずか、師父はさらに調子に乗る。
「せっかく都にまでやってきたんだものなぁ~。せっかくだからちょっと羽目を外して遊ぼうかと思ったのになぁ~。私はこの存分に熟した体を持て余しているというのに、ただ働きだなんてなぁ~」
何やら妄言を吐きながらくねくねと体を動かし始める。流螢はかっと頭に血が上った。
(ああ流螢よ流螢! お前はどうしてこんなクズを師父と仰いだの!? 幼く無知だったあの頃の自分を殴ってやりたい!)
師父はそれに気づいているのかいないのか。
「いやぁ、さすがに国の中枢ともなれば違うねぇ。昼間にちょっと
ばっちーん、と片目を瞑ってみせた師父に、流螢はほぼ反射的に目突きを繰り出していた。ギャア、っと叫んで仰け反る師父。寸前で躱しておきながら何を大げさな。流螢はわなわなと肩を震わせた。
「何をやっているんですか、この……この売女め! よりにもよってこの皇城で!」
「流螢、師父をそんなふうに罵るのは良くないわ」
徐恵が諫めるのを流螢は頭を振って流した。徐恵はこの師父の本性を知らないからそんなことが言えるのだ。流螢はふらふらとして頭も痛くなってきた。何から話そうかと考えて、もう何から話したところで変わらないと諦めた。
「師父はとんでもない色好みなのよ! 顔立ちの良い男性を見かけたら手当たりしだいに……手当たりしだいに庵の中に連れ込んで、恥晒しな真似をして好き放題なんだから!」
これには徐恵、驚きに目を見開き、そして同時に羞恥で顔を真っ赤にする。徐恵は一途に皇帝を慕っている淑女だ。糸目も付けずに男を漁る破廉恥とはまるで違う。
「そんなに怒るなよぉ。どのみち大半は男モドキの宦官ばっかりだったんだから。いやまあ、それでもイイ感じに仕上げてやったけど? ――あ、いや、だからそんな怖い顔するなって。それにしてもあの東宮の武官はなかなかの難敵だった」
ガチャン。けたたましい音に振り向けば、玉卓で茶のお代わりを注ごうとしていた楊怡が
「蟾蜍さまが仰っているそれは、その方はまさか……」
「称心とか言ったか? あれはなかなかの美形だね。私も口やら股やらから色々溢れて止まらなかったよ。で、早速寝床に忍び込んでお待ちかねしていたら、あいつどうしたと思う? 顔色一つ変えずに「曲者め!」なんて叫んで、私は素っ裸のままで逃げ出す羽目になってしまった。いやはや、あれほど硬派な人間は久しぶりだよ。
楊怡は途端にふらふらと上体を揺らし、額に手を翳したかと思えばバタンと仰向けに倒れてしまった。気絶したようだ。
けらけらと師父が笑う。
「おやおや、後宮は
流螢がまた木剣を振り上げ飛び出しそうになったのを、徐恵がさっと進み出て遮った。
「師父の望み、弟子徐恵は理解いたしました。この都には娼館がいくつもありますが、中には女性や好事家を相手にする……その、男娼を囲ったところもあります。私はあまり詳しくはありませんが、きっと斉州からお戻りになるころには先輩を都で随一の店舗へご案内できるでしょう。一晩……いえ、三日三晩の宴の費用を持ちますわ」
師父の双眸がたちまちキラーンと輝いた。両手を広げていきなり徐恵を抱き締める。
「あらやだ、この二番弟子ったらよくわかってるぅ~! 言ったからね? 絶対だからね? もしも約束を
後宮の妃嬪に対して何と無礼な発言か。流螢はたまらず打ちかかろうとしたが、そのときすでに師父はひらりと跳躍し、軽功で数十歩の距離を駆けた後だった。足跡一つ残していない。
流螢は顔を真っ赤にして徐恵の肩を掴んだ。
「徐恵、あなたなんて約束を!」
「別に心配しなくても大丈夫よ。お金や宝石は腐るほど持っているもの」
「徐恵が身銭を切る必要なんてないじゃない」
「皇太子をお守りするためなら安いものよ。それに、上手くいけば皇太子から埋め合わせしてもらえるかもしれないし?」
にこっ、と微笑む徐恵に、流螢は少し引いた。そこまで計算高い生き方は流螢には無理だ。
「……そもそも、皇太子に直接お知らせすれば良かっただけでは? 敵は龍生派の門弟だと」
「それはあまりにも危うい判断よ、流螢」
徐恵はぶるっと体を震わせ、屋内へと駆け込む。長く外にいたので身体が冷えてしまったのだ。流螢も中に入り扉を閉めた。火鉢の炭を足して火勢を強める。玉卓を囲んで腰を下ろした。気絶した楊怡には徐恵が体を冷やさないよう外套を掛けてやった。
「このところの皇太子の様子はあなたも知っているでしょう? 魏大人の後ろ盾を失くして以降、朝議では考慮の足りない進言をして陛下に諫められ、体調不良を理由に欠席することも増えたとか。その代わりに呉王や魏王が参列するようになってますます皇太子は追い詰められている。女王武氏の予言も相まって皇太子の地位はますます危うい。そんな中でまだ不確定な敵の情報を渡して果たしてどうなると思う?」
「敵を排除して権威を取り戻す。そうではないの?」
「すべてが上手く運べば、そうなるでしょう。でも私はそうは思わない。皇太子は焦っているはず。いつでも背中に匕首を突き付けられたような気分でいるはず。そこに龍生派の話を持っていけば、皇太子は間違いなく敵を斉王と断じるでしょう。何の確たる証拠もないままに、ね。そうなれば皇太子がどんな行動に出るかわからない。最悪の場合、兵を起こす」
流螢はぎょっとした。皇帝の命なく兵を出し、異母兄弟の命を狙う。そのようなことが本当に起こり得るだろうかと考えて、ふと玄武門で聞いた話を思い出す。皇帝は兄を殺し、先帝に譲位を迫って帝位に就いた。血塗られた皇位継承だ。その歴史がまた繰り返されるのか。
「……私は大バカ者だわ。二手先、三手先を予想することもできやしない」
「誤解しないで、流螢。人には誰だって得手不得手がある。私はあなたを責めるつもりなんてないんだから。あなたはあなたの得意なことで皇太子に報いればいい」
「私の得意なこと?」
流螢が問うのに対し、徐恵はその横を指で指し示す。それで流螢はうっかり木剣を手にしたまま座っていたことにようやく気付いた。たちまちかっと羞恥で頬を染める。
「あなたの得意なことというのは、もちろん武芸よ。敵は龍生派の技を使うと判明したのだから、その対策を練らなければ。――ああ、師父に龍生派の技を訊いておけばよかった。敵を知らなければ対策の立てようもないのに」
徐恵はふぅむと考え込み、そしてややあってから「それがいい、これがいい」と手を打った。
「称心さまにお願いしましょう。もちろん詳細は伏せて、龍生派の武芸書が手に入らないか聞いてみるのよ。楊怡もそろそろ悶々としているだろうし、使いに出してやらなくちゃ」
「称心さまに? でも、どうして?」
「あら、流螢は知らないの? 称心さまは元々少林寺の門弟だったのよ」
「少林寺は先帝が立国する際に力を貸したことで知られているわ。私もあまり詳しくは知らないけれど、皇太子はその関係で参拝に訪れたおり、称心様と出会ったのだとか。お二人がどんな友好を結んだのか知らない。ただ、それがきっかけで称心様は還俗して山を下り、皇太子に仕えるようになったという話よ」
「でも、それと龍生派の武芸書にどんな関係が?」
「聞いた話だけれど、少林寺は
なるほど、それは道理だ。ただ、一つだけ、気になることがあるとすれば。
「……やっぱり、私がやらなくちゃならないのよね?」
できればあの刺客とはもう争いたくはない。それが流螢の正直な胸の内だった。あのとき感じた恐怖は今でも忘れない。
しかし徐恵はあっさりと。
「もちろんよ。雪辱を果たしたくないの?」
やっぱりそうか、と流螢は息を吐いた。
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