四 思わぬ再会

 咄嗟に片足を引いて半身になり、迫る掌打を紙一重で回避する。が、掌風が予想以上に強い。余波を喰って三歩後退させられる。


(油断した! 逃げたと見せかけて背後に回り込んでいたのね!)


 両掌を前後に構えて迎撃姿勢を取る。即座に追撃が襲ってきた。瞬きする間に三連撃。左から掌、右から拳、そしてまた左から掌だ。流螢は両掌で円を描いてこれらを体の両側面へと流す。かと思えば真下から下腹を狙って蹴りが飛んでくる。これは両掌を重ねて受け止めた。強烈な一撃だ。流螢の体が上方へと持ち上げられ、つま先立ちになった。

 びゅぅん、と蹴り足が縦に一回転、浮き上がりかけた流螢の右膝を蹴りつける。流螢はその場に前のめりで転倒するかのように上体を傾がせ、そこに横からの掌打を喰らった。とっさに防御したが威力を逃がし切れない。吹っ飛ばされて屋根から地面へと転落する。


(強い――)

 何とか受け身を取って重傷は免れたものの、流螢はどっと冷や汗を流す。これはどうしたことだ。先ほどの白衣とはまるで動きが違う。こちらの一挙手一投足、すべて見切られているのではないかと思うほど歯が立たない。

 ざっ、と頭上で衣がなびく。見上げる間もなくその場から転がって逃げた。ドシン、と重厚な音を立てて着地する。その姿を見て流螢はようやく気付いた。


(さっきの奴じゃない!)


 動きが違って当然だ。こちらも白一色の衣装なのは同じだが、装いは先の白衣の人物とまるで違っていた。先の人物は袖も裾も絞っていたが、こちらは広い袖裾をそのまま垂らしている。肩や腕には被帛ひはくも巻いて風に流していた。

 踏みつけた足でそのまま地面を蹴り、流螢に肉薄する。動きに一分のムダもない。掌打が迫る。流螢は両掌でこれを迎え撃つ。真正面からぶつかり合う、かと思いきや。相手の掌がくるりと翻る。流螢の放った両掌打は横へ逸らされ、はっとした瞬間には胸の真ん中、鳩尾みぞおちに肘が突き刺さっていた。


 たちまち胸が苦しくなり、呼吸が途切れる。げほっ、とむせて流螢はその場に膝を折った。息ができない。体が痛い。動けない。あらがえない。

「や、やめて……!」

 脳裏に鮮烈に浮かび上がるのは、あの日の出来事だ。己の武芸が敵わないと知ったとき、半死半生となるまで殴りつけられたあのときの記憶。身体が二つに引き裂けそうな痛みに悲鳴を上げながらも決して止まることのなかった拳の応酬。

「やめて、やめて! 私をたないで! もう……もう逆らったりしないから! 言うことを聞くから!」


 恐れるように身体を丸め、腹を抱える。もはやそこに武芸を扱う者の矜持はなく、ただひたすらに怯える幼子のような無様な姿しかなかった。

 追撃を仕掛けようとしていた白衣の人物が動きを止める。油断を誘うための奇行かと訝りながら流螢を見下ろし、首を傾げて顔を覗く。


「……お前、麗雲か?」


 思わぬ問いが発せられた。退行していた流螢もはっとして現実に引き戻された。見上げればこちらを見つめる瞳。どこかで見たような。

「私だよ。もう忘れてしまったか?」

 言いながら白衣の人物は顔に巻いた覆面を取った。流螢の驚くまいことか。そこにあったのはかつて彼女が飛麗雲であったころ、この世でたった一人優しくしてくれた人物。そして命の恩人だ。


師父しふ!」


***


「弟子、徐恵。先輩にお目通りいたします」


 叩頭しようとする徐恵を流螢は慌てて押し留めた。礼を受けた側は「いいよいいよ、そーゆのはさぁ」などと言いながら適当に円座を引き寄せて座っている。勝手知った自宅のような振る舞いだ。

 清寧宮に戻るまでの間、流螢は師父にこれまでのいきさつを語っていた。徐恵にも順を追って話をしようとした流螢だったが、待っているようにと言っておいた師父は勝手に清寧宮へ飛び込むなり「おっ、これが私の新しい弟子か!」などと宣う始末。目を丸くする徐恵に「残念ながらあれが私の師父だ」と伝えたのがつい先ほどのことだ。


「いやぁ、知らない間に弟子ができているだなんてびっくりだ。まるで種馬夫が旅先の町娘を孕ませたみたいな事態だねぇ。いやはやもちろん私は快く認知するけどね」

「師父は黙っていてください。それと徐恵は私の義姉妹であって、師父の弟子じゃありません」

 流螢はもう胃が痛くて仕方がない。粗野な市井の人間だからと言えば言い訳も立つかもしれないが、仮にも高貴な妃嬪の前であまりにも下品すぎる。


「だいたいどうして師父がこんなところにいるんですか! ここは皇城ですよ? 田舎官府の酒蔵に忍び込むのとはわけが違うんですから!」

 流螢が叱りつけると師父はむっとした様子で唇を尖らせる。

「うーわ、なんて酷い言い草だ。私はねぇ、麗雲、お前が気になって追っかけてきたのさ。お前が突然いなくなって、もしかしてあのクソ親父にとうとう首絞められて畑に埋められたのじゃないかと心配になったんだ。それで行き先を問い詰めてみたら、なんと花鳥使に売り飛ばしたと言うじゃないか。せっかく技を仕込んだ弟子を失うなんてもったいない……じゃなくて、いくら私でも一欠片ひとかけらの情くらいある。お前の安否が気がかりで今度は花鳥使を探し出し、それでようやくお前がこの城内にいると突き止めたんだ。それがなんだい。師父に襲い掛かって来るだなんて!」

「事実を捻じ曲げないでください。いきなり襲ってきたのは師父でしょう!」

 あれ、そうだったっけ? などとはぐらかす師父。楊怡が茶を淹れて持ってくると、勝手に杯を奪い取って手酌でごくごく飲み始める。楊怡はあまりの不作法さに固まってしまった。


「だってさぁー、明らかに兵士じゃない奴が歩哨ほしょうでごそごそやっていたら怪しいだろう? そんなのを見つけたら、こう、やっつけてやる! って気になるじゃん? 怪しい奴はとにかく成敗! って感じにさぁ」

「それでは師父もまた怪しい奴になるわけですがそれは」

「いや私は怪しい奴なんかじゃないし。ほら、仏に仕える身も心も清い尼僧だし」

「はいはい清い清い」

 いけしゃあしゃあと抜かして悪びれる様子もない師父に対し、流螢はもうこの件について追究することをやめた。言い方はアレだが流螢を案じてわざわざ田舎から都にまで単身上京してきたのは間違いないのだから、そこは感謝しても構うまい。とりあえず心の中では礼を言う。直接は調子に乗るので言ってやらない。


 横目で徐恵を見れば笑いを堪えるのに必死なようだった。呆れられるのとどちらがマシだろうか。

「そういえば師父のご尊名は? なんとお呼びすればいいのでしょう?」

「私? 名前なんてないよ。呼びたければ適当に、蟾蜍せんじょとでも呼べばいい」

蟾蜍カエル?」

 蟾蜍とはヒキガエルを意味する。尼僧の衣装を取り払った師父は思ったよりも若く見え、せいぜい三十後半から四十程度にしか見えなかった。流螢に似て痩せている感はあるものの起伏はしっかりある。どこをどう見れば蟾蜍などと呼べるのだろうか。


 まじめに悩む徐恵の肩を流螢は呆れ気味に叩いた。

「本気にしなくていいのよ。師父の言葉なんて八割がその場の勢い、残り二割も妄言と思えばいい。本人が言うんだから蟾蜍で構わないわ。ね、蟾蜍?」

「うーわ、弟子が師父を呼び捨てにしたぞ」

「あなたがそう呼べって言ったんでしょうが!」

 シャーッ、と流螢が威嚇すれば、師父はぺろっと舌を出す。まるで子供だ。徐恵はとうとう堪えきれずに吹き出してしまった。それで流螢ははっと気を取り直す。


「師父については後で詳しく話すとして。それよりもまずは魏大人の残した手掛かりについて話しましょう」

 流螢は弘文館での出来事を語った。室内の様子、白衣の侵入者と選び取られた書類、それを巡って奪い合いになったこと。

「なんだその面白そ――とんでもない事態は! それで? その白衣の相手と勝負して、お前は勝ったのか? 私が武芸を教えたんだ、負けるなんてあり得ないよな? その書類とやら、しっかり取り戻したんだろうな?」

 師父が目をキラキラさせて食いついた。流螢はぷいと顔を背けた。瞬間、師父の興味津々な表情が下劣なそれに取って代わる。


「おいどうした、こっちを見ろ」

「嫌です」

「負けたのか。負けたんだな? 負けて悔しくて今にもピーピー泣き出しそうなのか? お? 違うのなら何か言い返してみたらどうなんだこの負け犬め」

「そこまで言わなくてもいいでしょうが!」


 さすがの流螢もここまであからさまに煽られては黙って流すなどできなかった。

「別に負けてなんかいない! 確かに取り逃がしはしたけれど、打ち負かされもしなかった」

「よく言うよ。ぶたないでぇ~蹴らないでぇ~言うことを聞くからぁ~若くて美人でかっこいい師父助けてぇ~、だなんて言いながら丸まっていたのはどこのどいつだい?」

「この……っ!」


 流螢はたちまち耳まで赤くなった。妄言が含まれているとはいえ、事実は事実。しかしながら徐恵の前で言わなくてもいいだろうに。醜態をさらされ、恥ずかしさのあまりに流螢は壁に立て掛けてあった木剣を手にするや、加減もなしに打ちかかった。

「誰のせいで! 師父が私にもっと実戦の技を教えてくれていたら、あんなことにはならなかった! 皇太子だって怪我を負わずに済んだのに!」

「お、どうした。比武召妃に向けての鍛錬か? よーし、やってやろうじゃないか!」

 師父は慌てる様子もなく流螢の一撃を飛び退いて躱す。流螢は激昂のあまり撲殺する勢いだ。二人は玉卓の周りを二周したのち、中庭へと飛び出した。


「おぉい、我が二人目の弟子よ。私にも得物をくれ!」

 師父がひょいひょいと流螢の攻撃を避けながら徐恵に声をかける。徐恵はこれを師弟のじゃれあいとでも思ったのか、クスクスと笑いを漏らしながらもう一振りの木剣を投げた。師父はそれがまだ宙にあるうちに軽功で跳躍、はっしと掴み取る。


「そーれ、行くぞ!」


 カァン! 木剣同士が激しく交わった。流螢はいささか手が痺れたものの、怯むことなく技を繰り出す。日々鍛錬を怠らず、徐恵と共に磨き続けてきた武芸はさらに鋭さを増している。速度、威力、その技巧のいずれをとっても一流の域に達している。

 だがそれでも、自身の師にはまだおよばない。数十合を交えてなお師父は余裕綽々、一方の流螢は招式をほぼ使い果たそうとしていた。

「ここいらで品切れか? では今度はこちらから、行くぞ!」

 師父は反撃に出る。一歩踏み出す。流螢は攻めさせまいと大きく振り被った木剣を真上から打ち下ろした。受ける師父。その瞬間、流螢の体は思わぬ動きを見せた。木剣同士が触れた部分を支点に剣を潜り込ませ、上方向に払い除ける。それと同時に、体の前後を入れ替えた。右側を引き、左が前へ。その左拳が師父の顔面に迫る。


 パァン! 破裂音と共に両者飛び退いた。流螢の放った左拳は、師父の掲げた左掌によって受け止められていた。

(い、今のは……)

 これまで鍛錬してきた技ではない。流螢自身動揺しているところへ、師父は構えを解いて感嘆の声を上げた。


「珍しい技を使ったな。まさかお前が龍生りゅうせい派の技を使うとは」


 流螢の驚くまいことか。

 今のはあの夜、承慶殿で薄桃色の女が流螢に対して使った技だ。

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