三 手掛かりを探せ
服を裂き、縫い合わせ、墨汁に浸し、流螢は闇に紛れるための服を一着拵えた。人々が寝静まった夜、それを纏って清寧宮を出発した。
夜間警備の目を掻い潜り、城壁を軽功で駆け登る。目的地は魏徴の遺体が発見された門下省の
事前に徐恵が見取り図を手配してくれたおかげで道には迷わない。見張りの目を掻い潜り、ほどなく流螢は魏徴の執務室に到着した。そっと中に入って扉を閉める。
(魏大人が倒れていたというのは、この辺りかしら?)
夜目に慣らした視界の中でやや散らかった部屋の様子が見えてくる。目を凝らせば床の一部に赤黒い跡が見えた。吐血の跡だろうか。点々と落ちた血痕の行く先。あそこに魏徴は倒れていたに違いない。
(扉のすぐ近くね。もしも本当に刺客に襲われたとしたら、敵は窓から飛び込んだに違いない)
室内の状況から当時の光景を推測する。
文机が動いているのは、窓から侵入してきた刺客に驚いたときに引っ掛けたもの。落ちている燭台はよくよく見ると一部が変形している。魏徴がこれで応戦しようとして、刺客の凄まじい内力の籠った掌打で叩き落されたのだ。直後に魏徴は胸に一撃を受けた。刺客は直後に身を翻して窓から逃走、その強い踏み出しで窓枠が凹んでいる。
奇妙なのはその後だ。魏徴はわざわざ窓を閉め、這いずりながら扉の閂までも降ろしている。窓を閉めただけなら刺客が再度侵入してくるのを恐れたのだと理解できる。だが扉から逃げ出すわけでもなく内側から施錠したとなれば、そこには何らか意味があるはずだ。
(ここへ来るまでにも何人も官府の人間を見た。昨夜だって夜中に政務をこなしていた者はいて、外へ出て助けを呼べば誰かしら駆け付けたはず。そうしなかったのは室内に手掛かりを残すためだ。直接言葉で残すのではなく、真相を探る者だけに宛てた何かを)
床を這いずったということは、それは高い位置にない。床には書類がいくつも散らばっている。門下省は
(わかりやすい形ではないはず。この室内で何か不自然な場所を見つければいいのだろうけれど)
あいにくと官僚の執務室に入ることからしてこれがはじめてだ。流螢には何が普通で何が異常なのかわからない。流螢は仕方なく、自らも伏せて床板を押したり叩いたり、何か見つけられないかと目を凝らす。だがそんな方法では何も見つからない。
ざわ、と気配を感じた。誰かが近くにいる。流螢はさっと身を翻して書架の陰に隠れた。その直後、キィ、と小さく音を立てて窓が開いた。そこからするりと何かが入り込む。
(幽鬼だ!)
流螢は危うく悲鳴を上げるところだった。だが寸前でそれを堪える。そして今一度よく見てみると、それは幽鬼の類ではなく白衣に身を包んだ人間だった。頭も顔も頭巾で隠し、上から下まで真っ白だ。
白衣の人物は先ほど流螢がやっていたように部屋を見回し、それから低く屈んで床の血痕を観察する。窓と扉に視線を向け、魏徴が這った跡を追う。
(あれも私たちと同じく、魏大人の死に疑念を抱いた誰かかしら?)
この白衣の人物は文字が読めるようで、床に散らばっていた書類の一つ一つにも視線を向けている。その中のいくつかを手に取り、じっくりと観察している。そしてその内の一つをそっと帯の間に仕舞い込む。
直感した。あれこそが魏徴を殺害した犯人に繋がる手掛かりだ!
興奮に身じろぎした瞬間、ガツンと肘を書架にぶつけてしまった。
さっと視線を向ける白衣の人物。流螢がぎくりとしたのも束の間、鋭い蹴りが流螢を襲った。反射的に転がって避ければ、書架はバゴンと音を立てて穴が開く。生身で喰らえば良くて粉砕骨折、最悪の場合は即死だ。
(流螢よ流螢、なぜこいつを一瞬でも同じ目的の仲間だと思ったの? 魏大人が何らかの手掛かりを残したと、敵が気づいていないとでも思ったの?)
流螢は確信した。この白衣の人物は敵だ。魏大人が残した手掛かりを奪い、抹消するために舞い戻ってきたのだ。さもなければ、これほどまでに殺気を込めた一撃を放つ理由がない。
「お前が犯人か!」
流螢はごろりと床を転がり、起き上がるなり左拳を脇腹目掛けて放つ。白衣の人物は引き戻した蹴り脚の膝でこれを弾く。かと思えばその脚が急に伸びて流螢の顎を狙った。流螢は身を翻してその場で一回転、左腕で相手の構えた腕を跳ね上げるや、空いた胸元に掌打を送り込む。白衣の人物は胸元を引っ込めることで直撃を避けると、さっと流螢の手首を掴んだ。
しまったと思った次の瞬間には流螢の体は宙を舞い、背中から文机に叩きつけられていた。激しい音とともに押し潰される文机。付近の官人や警備は間違いなく聞いただろう。
「
思わず絶叫する流螢。幸い木片が背中に刺さるようなことはなかったものの、その衝撃にはさすがに
「侵入者だ、逃がすな!」
夜警の兵士がどこかで喚き立てる。流螢は視界の端に見えた白色を追って屋上へと軽功で駆け上がる。闇に浮かぶその色はすぐに見つけた。南の方角、
(バカなの? そちらには官府ばかり、見張りの兵士だってもちろん大勢いる。わざわざ捕まりに逃げるようなものじゃないの)
一瞬疑問に思ったが、流螢はすぐにその意図に検討を付けた。
(わざと兵の多い方角へ逃げて私の足止めをするつもりね? 自分は逃げ切れる自信があるのか、あるいはいずれかの官府が奴の拠点!)
逃げられる前に書類を奪い返さなければ。屋根を蹴って軽功で駆ける。
白衣の人物は瞬く間に恭礼門に至り、これを越えて
「逃がさない!」
流螢は走りながら屋根瓦の端を掴み折り、逃げる背中へ向けて投擲した。内力を込めたそれは一直線に飛翔する。寸前で相手は振り返ってこれを片手で受け止めた。だがそれは予測の範囲内だ。投擲物に反応している間は速度が落ちる。その瞬間に流螢は一気に間合いを詰めた。届く!
接近しざまの回し蹴り。低く伏せて回避される。ならばと回転の勢いをそのままに今度は低く足払い。横に飛びながら蹴り脚を飛び越えられた。ごろりと側転した白衣に追撃の
徒手空拳のままさらに五手を交わす。両者の腕前は拮抗している。これでは埒が明かないと判断したのか、白衣は身を翻してまた逃走を試みる。流螢はさっと体を開いて腕を伸ばし、その腰を掴む。なおも前に進もうとする腰を落としてその場に踏み止まり、行かせまいとする。
ビリッ! 前触れもなく、前進する力が消え失せた。後方に引き寄せる力をかけていた流螢は反動で真後ろにすっ飛んだ。その手は白衣を放してはいない。だがその手中になびくのは沙羅の帯、その一端だけ。白衣の人物はすでに数丈先へ飛び出しており、流螢が立ち上がる間に闇の中に消えてしまった。
逃げられた――流螢は起き上がるなり歯噛みした。帯は破れたのではない。その切り口は刃物で断ったかのように綺麗だ。あれは内力を込めた手刀で帯を裂き、こちらを転倒させ、その間に逃げた。なんと姑息な手段だろう。憎たらしいと思うと同時に、その状況判断の早さに舌を巻く。こちらはまんまとしてやられてしまった。
もはやこれ以上の追跡は叶わない。すでに夜警の兵士が騒ぎだしてしまった以上、闇雲に探し回ることも憚られる。ここは一時撤退が無難、流螢は元来た経路を引き返そうと振り返る。
びゅうっ、と風が吹きつけた。目の前に掌打が迫っていた。
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