二 魏徴の死
雲の上に眠るとすれば、きっとこんな心地だろう。
かつてない幸福な
がばりと流螢は身を起こした。覚醒は一瞬だった。ひやりと朝の冷気を感じて寝具を掻き抱く。目の前の光景が見知った自室ではないこと、手にした布団が豪奢な刺繍を施されていること、そして自身が一糸纏わぬ姿であることを知り、流螢は耳まで真っ赤になった。
(流螢よ流螢、昨夜のアレは夢ではないのよ。私は徐恵ともつれ合って、あんなに乱れて、情けない声を上げて……)
流螢はぶんぶんと頭を振ってそれ以上考えることをやめた。
徐恵はすでに寝台にいない。それどころか室内にも姿が見当たらない。眠る流螢を寝かせたまま、そっと出ていったようだ。流螢は床に脱ぎ捨てられた服を拾い上げて身に纏う。鏡台を借りて身だしなみを整えた。
楊怡から預かった小箱はそこにない。徐恵が持って行ったのだろうか。流螢は徐恵の寝室を出た。持ち込んだ寝具は後で運び出すとしよう。
(徐恵はどこへ? 楊怡はもう
寝過ごしてしまったせいで時間感覚が狂ってしまっている。少なくとも日の出は過ぎていて、空はもう明るい。ひとまず流螢は厨房に向かった。朝食そのものは尚食局から運ばれてくるが、楊怡はいつも毎朝必ず茶の湯を沸かすことから始め、その湯で淹れた茶を朝餉に添えることを日課にしている。
ところが厨房は空だった。それどころか
(何か変ね?)
首を傾げたそのとき、正殿から物音が聞こえた。耳を澄ませば楊怡の慌てふためいた声が聞こえる。
「婕妤、婕妤! お気を確かに!」
ざわっ、と胸騒ぎを覚え、流螢は正殿へ急いだ。到着してみると玉卓に持たれかかりながらその場に頽れた徐恵と、その隣に寄り添う楊怡の姿が。そして二人の前には、いつぞやと同じく宦官に扮した称心が立っていた。
「称心さま、いったいどうしてまたここへ? 徐恵はどうしてしまったのですか?」
「これは流螢殿、ご無事でしたか」
流螢は首を傾げた。開口一番安否を問われるとはどうしたことか。
「ああ、流螢。大変なことになった。大変なことに!」
徐恵は顔を蒼褪めさせて叫んだ。流螢にはますます何のことかわからない。しかし、何かしらの大事が発生したことだけは理解できた。問題はそれが何であるのか、ということだ。
「魏大人が死んだ」
称心の口から端的に告げられたその一言を理解するのに、いったいどれだけの時間を要しただろう。
「魏大人が……死んだ? それは本当なのですか?」
「嘘や冗談で言えるほど、これは軽いことではありません」
流螢は絶句してしばし何も言えない。諫議大夫にして太師、そして皇太子派の筆頭。それがこの世を去った。あまりにも衝撃的な事実に未だ理解が追い付かない。
「いつ、どうして亡くなられたのですか? やはり肺の病で?」
流螢は常日頃から案じていた。魏徴の脈は異様なほど静かで、それは死脈の兆候であると悟っていた。だから再三医者にかかるよう言ったのに。
しかし称心は頭を振った。唇を噛み締め、悔恨の念が浮かんでいる。
「医師の診断は病死でした。しかし、しかし……あれは断じて病ではない! 魏徴殿は、殺されたのです。何者かによって暗殺されたのです!」
魏徴はこの日の未明に、
「先ほど皇太子とともに遺体を改めてきました。確かに傍目では病死に見えますが、実際は
「でも部屋は密室だった?」
「そうです。そのために病死と診断されたとも言えます。皇太子は陛下に再調査を嘆願しましたが、聞き入れられませんでした。太師を失って気が動転しているのだ、東宮で心を落ち着けよと。ああ、なんということでしょう!」
称心は頭を抱えて長嘆した。
「魏大人がいなくなってしまっては、いったい誰が皇太子をお護りできるのか? 馬毬試合の一件で比武召妃は運気最悪と噂され、国が三代で滅びるなどというよからぬ流言までもが
「称心さま、どうか気を確かに。あなたが心を乱してはなりません」
楊怡が深い慈しみの視線とともにその肩に触れた。称心はその手を握り返し、楊怡を見下ろす。
「私もあなたも、主に仕える身の上。ならば主の苦境に際して従者が何をするべきか、それは同じはず。とくに称心さまは皇太子の恩寵篤いお方。今まさに殿下が求めているのは、そうした方に支えてもらうことであるはず。――すぐに東宮へ帰られるべきです。そして皇太子のお側で不安を払って差し上げてください。それは称心さまにしかできないことなのですから」
称心はじっと楊怡を見つめ、ややあってから「そうだな」と呟いた。先ほどまで溢れていた憤りや焦燥といった感情はすでに消え失せている。
「東宮へ戻ります。清寧宮の方々におかれましても、十分にお気を付けを」
そう告げて称心は清寧宮を後にする。楊怡がそれを心配して見送りに出た。出ていく直前で流螢に目配せする。徐恵を頼むとの意であることはすぐに察した。
「魏大人がご存命である限り、反皇太子派は公に皇太子を弾劾できずにいた。それがまさか、暗殺に走るだなんて……」
「やはり昨日の一件が関係するのかしら?」
流螢の問いに肯定を示す徐恵。
「陛下はあくまで事故として処理したけれど、蕭美人が亡くなったのもまた事実。魏大人はきっと何度でも陛下に再捜査するよう進言したでしょう。当然、反皇太子派にとって蕭美人の身辺を調べられることは避けたいはず。でも、だからと言って暗殺なんて!」
「だけど、それならどうして……私ではなく魏大人を? 蕭美人の一件をうやむやにすることが目的なら、その最期を目の当たりにした私をまず狙うはず」
称心は開口一番に流螢の安否を確かめた、その意図にも通じることだ。
「流螢は結局のところただの宮女、真に敵を追い詰めることができるのは魏大人だけ。どれだけ証拠を集めても弾劾する者がいなければ悪人も罪には問われない。それに流螢は昨夜、自分の寝床にいなかった」
流螢はかっと顔が熱くなるのを感じてぐいと右頬を肩に押し付けた。真面目な話をしているのだと頭は理解していても、やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしい。
「龍も頭を落とされれば死んでしまう。今、私たちは魏大人という頭を失った。これからどうすればいいのかしら?」
徐恵は生半可なことでは物事を諦めたりしない。宮女である流螢の比武召妃を全力で後押しするような気概の持ち主だ。それがどうだ、こんなにも弱気な姿を見せるとは。魏大人の死はそれほどまでに、徐恵の未来を左右する重大事だったのだ。
「魏大人を殺したのは、私が二度にわたって遭遇したあの刺客に違いない。あいつを見つけ出す。そして敵の黒幕を明らかにする。それしか方法はない。でも、どうやって?」
自ら発したその問いに流螢は答えられない。やるべきことはわかっている。なのにそれを成し遂げる方法がわからない。このもどかしい思いをどのようにすべきだろう。
うぅむと考え込む徐恵。それからふと「そうよ、そうだわ」と呟いて顔を上げた。
「私たちは候将軍から聞き出した宮中の使い手について魏大人に報せたわ。魏大人はそれを元に調べを進めたはず。そうよ、だとすれば!」
徐恵は流螢の袖を掴んで引き寄せた。
「魏大人は密室の中で死んでいるのを発見された。その密室のために魏大人は病死と診断されていたけれど、それがもし、魏大人自身によって作られた密室だとしたら? だって、検死されてもそうと気づかれないように殺したのなら、密室を作る必要がない」
「では、魏大人は何らかの手掛かりを密室の中に残した?」
頷く徐恵。次の行動は決まった。
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