四章 弘文館の殺人

一 夢を見たバケモノ

 流螢は息を吸うことも吐くことも忘却して、みるみるうちに血の気を失っていく。それから急に思い出したように呼吸を再開したが、吸うも吐くも小刻みで間隔が短く、まともな呼吸になっていない。そうこうしているうちにぐるりと目玉が回転して白目を剥いた。どさりと寝台に頭をぶつける勢いで倒れこむ。ガクガクと痙攣を始めた。


「流螢、流螢!? どうしたの?」

 徐恵は張り型の箱を投げ捨て、流螢の肩を揺さぶった。だがまともな応答はない。徐恵は焦った。流螢の身に何が起こったのだ? どうすればいいのだろう?

「前にこんなことがあった……そうだ、あのときは!」


 徐恵は武芸を学び始めたばかりのころ、練習中に急に息苦しくなって倒れたことがある。自身の意思とは関係なく、呼吸が上手くできなくなった。意識を失いそうになったとき、流螢は手の平を少し丸めて徐恵の口元を塞いだ。それでしばらくすると呼吸は落ち着いた。流螢曰く、それは激しい運動をした場合に発症することがあるのだと。

 今回は運動していたわけではない。だが症状は酷似している。徐恵は手の平を少し丸めて流螢の口元を塞ごうとした。が、流螢が激しく体を痙攣させるのでうまく塞ぐことができない。


「ああっ、もう!」

 業を煮やした徐恵は意を決し、流螢の頭を両手でがっしりと掴んだ。そして大きく口を開け、かぷ、と流螢の口元に被さった。今度は頭を固定しているので振り払われることもない。

 流螢の呼吸は徐恵の口腔内で循環を始める。やがて痙攣は収まり、流螢はぱちりと瞬いた。意識が戻ったのだ。むぐー、と声を発したが徐恵が離れないので言葉にならない。しかも徐恵は必死になるあまりこれに気付いていなかった。流螢は口を塞ぎ続ける徐恵の肩を掴んで無理やり突き離した。

「やめて! これ以上は窒息してしまう!」

「流螢!」

 意識を取り戻したと知って、徐恵は今度は真正面から抱き着いた。


「よかった! 急に震えだして、死んでしまうのかと思った!」

「心配かけてごめんなさい。でももう大丈夫、ありがとう」

「お礼を言われるほどのことじゃないわ。原因は私にあるようなものだし。それにしてもまさか、流螢があそこまで初心ウブだったなんて――」

 そこで徐恵は違和感を覚えた。


 流螢が発作を起こしたのは、間違いなく急に目の前に張り型を見せられたことが原因だ。それはつまり、流螢はあれが何であるのか説明されるまでもなく理解していたということ。そのうえであのような反応を示したのだ。だがそれは、男性を未だ知らぬ乙女の恥じらいでもなければ、男性嫌いで片づけられるような反応でもない。もっと別種の何かだ。

 流螢はすぐに徐恵の疑問を察した。静かに瞼を閉じれば、その両のまなこから涙が流れる。徐恵は狼狽した。

「どうして泣くの? ちょっと驚いて、それで引きつけを起こしただけじゃない。何も恥じるようなことじゃない」

「そうじゃない、そうじゃないのよ、徐恵。私は隠すつもりなんかなかった。騙すつもりもなかった。言わなくてもいいだろうと思っていたのよ。でももう、これ以上黙っているわけにはいかない」


 会話がかみ合っていない。徐恵はどう言葉を続けたものか迷った。すると流螢は帯の間から玉璧を取り出す。比武召妃参加者が携帯を義務付けられたあの玉璧だ。その表面を流螢は撫でる。その表情は苦痛に似て歪んでいた。

「予備試験の最終問題を覚えている? 私たちは一度、間違った答えを導き出した」

驪山りざんの護符ね。覚えているわ。皇太子妃の宝とは世継ぎ、安産祈願の護符こそが答えだと」

「本当の答えは違った。でも徐恵はそれが答えだと考えた。それなら――世継ぎを産めない私は、最初から比武召妃に参加する資格なんかなかったのじゃないかしら?」

 徐恵は言われている意味を理解できなかった。御子は天からの授かりもの、産める産めないは運頼みだ。それをなぜ流螢は断定的に言うのだろう。


 唐突に一つの言葉が浮かんだ。


「流螢、あなたはまさか……石女うまずめなの? でも、どうして自分がそうだと言いきれるの?」

「私は一度も月事つきのものに見舞われたことがない。これまでも、これからも」

 流螢はもう十七歳、いまだ初潮を迎えないとすればあまりにも遅すぎる。それに流螢の口ぶりはその理由を知っているかのようだ。


 ぞっ、と徐恵は背筋が冷えた。正体不明の恐怖を感じた。それでもなお、正面の流螢の双眸から目を離せなかった。


「――私は男じゃない。それどころか女でもない、どちらでもないバケモノなのよ」


***


 飛麗雲がはじめて父親に犯されたのは、八歳のときだった。

 前王朝で役人をしていた父親は、時の皇帝が禅譲して名実ともに国が滅んだ日をさかいに職を失った。農民に身を落とし、しかしそれまでくわも握ったことのない男にまともな農作業ができるはずもなく。畑は毎年凶作続き、これまた身分を落とした母親の作る手芸品だけが生活の糧だった。父親は何の役にも立たない自分を呪ってか、あるいは開き直ってか、そうして母が稼いだ金で連日酒浸りの生活を送っていた。

 酒代を出せと言って母を殴るのは日常茶飯事だったし、殴ったついでに組み伏せて事におよぶこともしばしばだった。麗雲はそれを物陰から黙って見ていた。その行為の意味は理解していなかったが、母親が苦しんでいることだけはわかった。


 その日、麗雲ははじめて父親を殴った。武芸を学び始めてまだほんの数月、基礎をやっと覚えた程度のころ。麗雲は愚かにも、それで父親を打ち負かし、母を救えるのだと思い込んでいた。もちろんたかだか八歳の小娘が大の男を殴り諭すことなどできるはずもなく、酔った上に逆上した父親は暴力の矛先を麗雲に変えた。もちろん、麗雲に抗えるはずもなかった。

 あのとき母親が見せた、悲痛な中に安堵を含ませた奇妙な表情を、麗雲は今もはっきりと覚えている。


「――お前、もう女じゃなくなったね」


 破瓜はかの苦痛を最悪の形で迎えた麗雲を、父親は酒を買って来いと言って家から蹴り出した。腹部を襲う激痛に悶えながら向かった先は、師父の住む草庵だ。師父は麗雲の身体を診るなりあっさりとそう告げた。

「お前の体の中には子供を入れておく、その、なんだ。梨を上下逆さにしたような、袋のようなものがある。それがこう、ばーんと、裂けているんだな、うん。それはもう、壺を落としたみたいにズッタズタのギッタギタだ。これ治すの無理。腹が膨らんでるの、それ中でめっちゃ血が流れ出てるから。まっすぐここに来てなきゃ死んでたよ、うん。っていうか今時点でよく生きてんね? なに、お前の前世ってクソ虫か何かなの?」


 麗雲にとってもっとも幸いだったのは、まだ師父の言葉を理解するに十分な知能を有していなかったことだ。

 師父が腹腔内出血の治療をしている間、麗雲はぼんやりと考えていた。

(男ってなんだろう? 女じゃなくなったって、どんな意味だろう? とにかく今はお腹が痛い。父さんにまた殴られたり、あんなに痛いことをされるのはもう嫌だ。もう私を殴らないで。怒らないで。私を赦して……)


***


「それから花鳥使に売られるまでの四年間、私は毎日といっていいほど父に殴られたし、慰みモノにされ続けた。その間に私は一度も孕むことなんかなかった。もう私は、女じゃなかった。ただのバケモノだった」

 口元に浮かぶのは自嘲か。徐恵は唇をぐっと引き結んで何も言わない。


 この昔話を始める前に、流螢はあらかじめ聞きたくないと思った時点で遮るよう徐恵に言っていた。その時点で流螢は口を閉ざし、以後二度とこの話はしないと。だが徐恵は途中何度か口を開きかけ、また閉じるのを繰り返した。最後まで聞く決意をどこかの段階で決めたようだった。

 ちらり、流螢の視線が床に転がった張り型を一瞬だけ見る。

「あれは、私の恐怖の形。今でも男の人を前にするだけで胸が苦しくなる。だから宮中に来て唯一良かったと思ったのは、男性と関わらなくて済むようになったこと。女性ばかりだし、宦官は男性ではないし。それに私たちは名目上は皇帝の所有物。いたずらに手を出す人なんていない。それにどれほど安心したことか」


「私は――」

 徐恵の声は震えていた。目元も真っ赤にして、なぜか今にも泣きだしそうだ。

「私は、もしかして知らぬ間に流螢を傷つけていたのじゃないかしら? そんな過去を抱えたあなたを、私は本当に皇太子妃に推すべきだったのかしら?」

 その目に浮かべたのは憐憫か同情か、あるいは後悔か。流螢はそんな徐恵の顔に手を伸ばし、頬に流れたそれを指で拭った。


「それが、とても不思議なの。皇太子の……あの方の瞳を見つめているときは、一片の恐怖心さえ湧かないのよ。まるで風がいだかのように、新月の夜のように、心穏やかなまま。あんな気持ちになる方は他に出会ったことがない。だから徐恵が私に皇太子妃になれと言ったとき、私はそんな未来があり得るのかと天にも昇る気持ちだった。私も誰かを愛したり、誰かに愛される未来があるのだろうかと。――でも、あの方の隣に私は相応しくない」

 流螢は女性としての機能を失っている。本来ならば何もせずとも体内で錬成されるはずの陰気を、わざわざ毎晩の調息によって補わなければならないほどに。流螢がかつてたった一人でも武芸の修練を続けていたのはそのためだ。それでも、再び子を望める身体には戻らない。


「皇太子妃に求められることが第一にお世継ぎであるならば、私はそれに相応しくない」

「そんなことはない!」

 徐恵はぐっと流螢の両手を握って詰め寄った。

「お世継ぎはもちろん大切だけれど、妃の役目はそれだけじゃない。あの第三の問いも本当の正解は『女則』だった。私が楊淑妃に答えた言葉を覚えているでしょう? 皇太子妃はいずれ皇后となり、皇帝を支え、寄り添い、時には導くのだと。それはお世継ぎを産むよりも大切なこと。もしかすると、流螢以外にはできないことかも」


 そうかしら、と流螢が問えば、そうよ、と徐恵は頷く。流螢は胸に熱いものがこみ上げるのを感じた。

(流螢よ流螢、お前が徐恵の近侍になれたことは今生で最大の幸福だったことを知りなさい。こんな女モドキの身体と知りながら、それでもお前を支えてくれる人間がこの世で他にいると思う? 今後の生涯をすべて宮中で過ごすとしても、徐恵に仕えられるなら悔いはない)


「――まあ、それはそれとして」

 さっと身を翻して徐恵は寝台を降りると、床に落ちた張り型を拾い上げ小箱の中に収める。ちらりと手にしたそれを横目で見て鏡台の前に置く。そして背を向けたまましばし考え込んだ。

「それでいつまでも男性を恐れていたのじゃあ、やっぱり駄目よね」

「え? いやまあ、それはそうかも知れないけれど……」

「うん。それがいい、これがいい!」


 振り返った徐恵は、それはそれは楽しそうな表情を浮かべて。ひらりと軽功で飛んだかと思えば、両の手で流螢の肩を押して寝台に組み伏せた。

「徐恵、何を――」

「何って、夜伽よとぎの練習よ」

 つやのある声と共に、徐恵の手が流螢の襟からするりと衣服と素肌の間に滑り込む。流螢は夜伽という言葉の意味を頭の中から引っ張り出し、理解するなり慌てふためいた。


「そんな、ダメよ。だって私たちは」

「大丈夫、優しくするから――」


 徐恵がさっと袖を振る。室内を照らしていた燭台の灯りが、ふらりと揺れて静かに消えた。

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