八 不安な夜

「ああ、流螢。よかった、無事だったのね」


 清寧宮へ駆け戻るなり、流螢を出迎えたのは意外にも意外、徐恵であった。それも出合い頭に抱き着き、流螢の腰を強く引き寄せるありさまである。

「私を置いて、どこへ行っていたの? 私がどれほど心細い思いをしてあなたを待っていたのか知っていて?」

「ご、ごめんなさい。蕭美人を逃がしてはいけないと思って……」

「そうよ、蕭美人。彼女はどうなったの? とにかく座って、お茶を飲むといいわ」


 徐恵は玉卓へと流螢を誘い、楊怡は茶を淹れて差し出す。思えば試合場から飛び出して以降何も口にしておらず、喉はすっかり乾いてしまっている。この寒気強まる時期に喉を乾燥させるのは避けるべきことだ。

 流螢は茶を口に含みつつ、試合場を飛び出してからのことを話した。同じ内容をすでに一度称心にしていたため、内容は簡潔にまとまっている。例の刺客が現れ蕭美人を殺害した事実を話すと楊怡は恐怖したように口元を押さえ、徐恵は拳を握って怒りをあらわにした。他者を利用した挙句にあっさりと切り捨てた、その無情さに憤っているのだ。


「蕭美人がやったことは赦されないことよ。だけど、命を奪われるほどのことかしら? 皇太子の敵は豺狼さいろうのごとき悪辣な心を持っているのね。そんな奴に皇太子の座は渡せない。そんな奴がこの国の未来を担うだなんて、絶対にあってはならない!」

「蕭美人はどうしてそんな奴の手先になったのかしら?」

 そもそも東宮の妃嬪は皇太子の妃となるべくして集められた女たちだ。それが皇太子の失墜を望むなど。


 流螢の問いに徐恵は物悲しそうな様子で答えた。

「人を操るなんて簡単なことよ。弱みを握る、金を掴ませる、人質を取る、いくらだって手段はある。蕭美人もきっとそうやって操られたのね」

「蕭美人は殷徳妃と交流があったそうです。もしかすると、殷徳妃から何らかの指示を受けていたのかも」

 楊怡が口を挟むと、徐恵はふと思い出したように指先を顎に当てた。

「呉王が仰っていた。晨夕宮しんせききゅうで怪我人が出て、殷徳妃は金創薬を医局に求めていたと。あれはもしや、皇太子に傷を負わされた下手人を匿ってのことかしら。そう考えると怪しく思えてくる。今後は殷徳妃の動向に気を配るべきね。二人も重々気を付けて」


「徐恵、私はそれよりもあなたが心配よ。魏大人から聞いた。陛下は今日のことを事故として扱い、徐恵に馬を暴れさせた責任を取らせるだろうと」

 すると徐恵は「ああ、それね」と呟き、楊怡は顔を覆って頭を振った。徐恵の手が玉卓の上に置かれた黄色い布の巻物を手に取った。今までそこにあったのに流螢はまったくそれに気づいていなかった。あれは比武召妃の参加者を読み上げる際に王太監が持っていたのと同じもの、皇帝の勅状だ。

「別に大したことは命じられていない。冬の間の禁足、ただそれだけよ」

 つまりは外出禁止だ。今は初冬、冬が終わるまでは三か月ある。その間、徐恵はこの清寧宮を出てはならないということだ。


 ほっ、と安堵の息を漏らす流螢。罰、と聞いて流螢が真っ先に思い浮かべたのは、あの掖庭の獄だったのだ。今でもあの掖庭の獄で過ごした一晩を流螢は覚えている。空虚で無機質で未来を奪われたかのようなあの空間、できれば二度と訪れたくはない。そこへ徐恵は送られるのではないかと危惧していた。だが、それは少々考えすぎだったようだ。


 くす、と笑む徐恵。

「私が禁足になって、それであなたは笑うのね?」

「あ、いや、これはそんな意味じゃなくて!」

 もちろん徐恵はわかっていてからかっているのだ。冗談よ、と言いながら流螢の肩を叩く。

「辛気臭い話はここまでにしましょう。楊怡、私たちの分のお茶も準備して。何か気晴らしをして、今日のことは一度忘れてしまいましょう」


 そのあとは女三人、他愛もない会話に花を咲かせて過ごした。馬毬試合についてはもはや触れもしない。誰それが作った菓子が評判だとか、どこの家の娘が婿を取っただとか、大半は楊怡が仕入れた噂話をネタにした。

 そうこうしているうちに日は落ちて、茶もほとんど味が出なくなった。楊怡も話し疲れたのかウトウトとし始め、それで今夜はお開きとなった。


 寝ぼけ眼の楊怡を寝室へ連れて行こうとする流螢を徐恵は呼び止めた。

「流螢は今夜、私の寝室に来て。……今日は怖い思いをしたから、悪い夢を見そうな気がするの」

 後半は耳元に囁いて。これまで一度もなかった命令だが、無理もないことだと流螢は思った。危うく死ぬところだったのだから不安に思わないほうがおかしい。頷いて夢うつつな楊怡を宮女用の寝室に運び、自身は寝具をまとめる。楊怡が寝台に寝転んで「何をしているの?」と問うのへ、徐恵と寝るのだと答えた。


 すると楊怡、ガバッと身を起こして眠気を忘れたように目を見開いた。

「まあ。まあまあ! まあまあまあまあまあ!」

 なんだかよくわからない鳴き声を発し、それから小物入れをガサゴソとやり始めた。寝具をまとめて部屋を出ようとする流螢に何やら小箱を押し付けてきた。

「これを持っていくといいわ。ちゃんと洗ってあるから大丈夫。優しくして差し上げるのよ?」

「……? ええ、もちろんよ」

 流螢の返答をどのように受け取ったのか、楊怡は顔を真っ赤にして布団に潜り込んだ。さっぱり訳が分からない。酒を飲んだわけでもないのにあの奇行はなんだろう?

(……まあ、いいか)


 流螢は気にせず宮女部屋を後にし、徐恵の寝室に向かった。徐恵はすでに寝間着に着替えて寝台に横になっていた。

「あら、枕だけでよかったのに。まさかあなたを床に寝かせたりはしないわ」

 寝台で徐恵は手招きする。――ああ、そういうことか。流螢はここではじめてためらった。てっきり幼子を寝かしつけるように付き添ってやればいいのかと思っていたが、まさか添い寝を求められていたとは。

(まあ別に、徐恵は女だし気にすることなんかないのだけれど)


「でも狭くはないかしら?」

「妃嬪の寝床よ? 二人くらい何ともない。……あら、それはなぁに?」

 徐恵が問うたのは流螢が枕と一緒に置いた、楊怡から手渡されたあの箱だ。流螢は肩を竦めながらそれを徐恵に手渡し、自身は寝台に腰を下ろす。

「――まあ!」

 徐恵はその蓋を開き、短く言ってからパタンとまた蓋を閉じた。次いで目元を細めて流螢を見る。


 ニッタァァ。その口元が魔性のように歪んだ。


「こんなものを持ってくるなんて。流螢はこれを私に使うつもりだったの? それとも、私に使ってほしかったの?」

 流螢は何を問われているのかさっぱり理解できない。ここへ来るまで両手は寝具を抱えるのにふさがっていたので、箱の中身をまだ知らないのだ。

「楊怡が渡してくれたものだけど、中には何が入っていたの?」

「楊怡が? あらあら、さすがは年長者ね。こういう物まで持っているだなんて」

「だから、中身は何……」

 言い差した流螢の眼前に、徐恵は蓋を開いたその箱の中身を突きつけた。


 中に入っていたのは、何やら木でできた彫り物だった。円柱形をしているが太さは一定しておらず、緩やかな曲線を描いている。長さは手の平に乗せて縦方向に少しはみ出す程度。太さは箒の柄ほどだろうか。片方の先端はつるりと丸みを帯びていて、途中には小さな段差が――などという煩雑な表現を一切放棄して言い表せば、それは男性器の模倣品、すなわちがたであった。

 後宮は基本的に男性の立ち入りがなく、宦官はすでに男性ではない。そんな中で欲求不満に陥る宮女というのはいるもので、こうした品は密かに流通していたのである。


「別にそんなつもりで召し出したわけじゃなかったのだけど、流螢がそのつもりなら……流螢?」

 悪戯っぽくその表面を指先で撫でた徐恵だったが、その口調が瞬時に緊張を帯びる。流螢の様子がおかしいと気づいたためだ。


 流螢は息を呑んで硬直していた。それだけではない。呼吸が完全に止まっていた。

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