七 凶手追走

 蕭美人の馬は北を目指して疾駆する。流螢はその後方三十歩の位置にぴたりと付けて追走する。


(流螢よ流螢、あいつを絶対に逃がしてはダメ。比武召妃で騒ぎを起こしたからには反皇太子派に送り込まれた輩に違いない。敵に繋がるあいつを逃がすものか。それに第一)

 ぐっと頬を肩に擦りつける。肌が擦れて痛みすら感じる。だが、徐恵の感じた恐怖に比べればどれほどのものだろう。

 流螢は徐婕妤の近侍で、それと同時に彼女の義姉だ。どちらの立場であるかにかかわらず、彼女を守ってやらねばならない。それなのに、ああ! あんな目に遭わせてしまうとは!


(誰の手先で、どんな目的があったにせよ――私の大切な人を傷つけた、そんなあなたを絶対に赦すわけにはいかない)


 禁苑には丘も林も川もある。蕭美人は小川の水を踏み散らしながら林の中へと駆けこんだ。ここで流螢の追跡を撒くつもりだろうか。両者とも馬は疲弊を見せはじめ、とくに流螢の馬は先の試合で激走を見せている。心なしか引き離されはじめているようだった。

 このままでは埒が明かない。流螢は手を伸ばし、駆け抜けざまに枝を一本折り取った。これを投げつけ後ろ脚を絡ませれば転倒させられるだろう。試す価値はある。大きく振りかぶっていよいよ投擲しようとした瞬間、不意に蕭美人が振り返った。その左腕を流螢へ。


 直感が危険を告げる。流螢はとっさに被布を翻して前方を守った。直後、ぶつりと何かが被布に突き立つ。見れば小さなが突き刺さり、ぶら下がっている。その矢じりには何やら塗布されているようで、一目で毒と知れた。徐恵の馬を暴走させた毒だ。人間が喰らえばどうなるかは想像もつかない。

(あの左腕に何か矢を打ち出す仕掛けを装備しているのね。それで誰にも気づかれないまま徐恵の馬に毒矢を打ち込んだ)


 不意打ちを回避され、蕭美人は焦ったように腕の仕掛けを弄っている。次矢を装填しているのか。流螢は枝を振るって地面を打った。土塊が飛んで蕭美人の手元を襲う。装填しようとしていた箭が弾かれて落ちた。

「朱流螢、しつこい奴!」

 蕭美人は悪態を吐き、腋に抱えていた打毬杖を取って振り上げる。びゅう、と唸りを上げて横薙ぎに打ちかかる。流螢はそれを一目見て、即座に蕭美人の力量を悟った。


 蕭美人は武芸に関して素人だ。今の一閃、肩は上がりすぎ、体幹はぶれ、打毬杖を振るというより打毬杖に振り回されていると言ったほうが正しい。乗り手の体が大きく揺れたことで馬も体勢を崩し、速度が落ちる。流螢の馬はその一瞬の隙をついて側面に付けた。

 ぎょっとした蕭美人は闇雲に打毬杖を振り回す。流螢は二撃を馬体に伏せて回避、続く第三撃を枝で打っていなし、続く第四撃を繰り出させないまま枝をぐるりと一回転。蕭美人の手から打毬杖を奪い取った。枝を投げ捨て、代わりに宙に飛んだそれを掴み取る。


「止まれ!」


 流螢の振るった打毬杖が蕭美人の馬の額をしたたかに打つ。馬はめまいを覚えてたちまち脚がふらついた。急減速。きゃあ、と悲鳴を上げて蕭美人は馬の首に抱き着いた。するとこれが馬を刺激したのか、また一転して急加速する。

 しまった。舌打ちを漏らす流螢。馬を止めるつもりがこれでは逆効果だ。


 ドッ、ドッ、ドッ。馬蹄の響きが耳朶を打つ。何者かが斜め後方から接近している。流螢は打毬杖を短く持ち直し、背後に意識を向けた。

(私の後からも誰かが追ってきた? だけど、さっきまで私の背後には誰もいなかったはず。どこから現れたというの? それに今にも私たちに追いつきそう。そんな駿馬があの試合場にいたかしら?)

 武才人の黒馬でさえ、これほどの速度で距離を詰めることはできないはずだ。接近するのは世にも珍しい一級品の駿馬に違いない。そんなものに跨ることのできる人物とは誰だ?

(まさか、皇太子――)


 はっとして振り向いた瞬間、その馬体が見えた。藪を二つ隔てた向こう、無骨な皮鎧を纏った栗毛の馬が力強く駆けている。その背中には女が一人。薄桃色の裳、肩には厚手の外套を羽織り、頭には帷帽。その下の顔はさらに花の刺繍を施した手巾によって隠されている。

 前方に動きを感じ、視線をそちらへ。蕭美人が左腕を挙げてこちらへ向けている。シュッ! 再びの毒箭。流螢は打毬杖でこれを打ち落とし、再び視線を後方の馬体へ。


 が、その背には誰の姿もない。


 乗り手はどこへ――その疑問を思い浮かべた瞬間、流螢は頭上に殺気を感じた。振り仰ぐ。木立の合間から降り注ぐ日光を受け、きらりと輝く剣刃が目前に迫っていた。

「ッ!」

 無言の気合を発して剣代わりに打毬杖を掲げる。ガチ、とその刃が食い込んだ。敵は軽功で飛び、頭上からの強襲を仕掛けていたのだ。だが初撃は受けた。不意打ちとは相手が気づかないうちに仕掛けるからこそ意味があるのだ。気付かれ、受けられた時点で失敗である。


 そこに流螢の油断があった。刃の一撃を受けた時点で初撃は完全に防いだと誤認した。しかし実際にはまだ招式わざは終わりではなかったのだ。接触点を軸に相手の柄元がぐいと流螢の掲げた打毬杖の下に潜り込む。そこからさっと上方に力の流れが変化する。流螢の打毬杖は腕ごと大きく跳ね上げられた。

(この技は!)

 脳裏を記憶が駆け巡った瞬間、流螢の右頬は強烈な拳の一撃によって殴り飛ばされていた。その衝撃に腰が鞍から浮き上がる。もはや馬上に留まること叶わず、流螢は落馬した。どっと地面に激突するのをごろごろと転がって衝撃を殺す。


 今のは知っている技だ。あの日、承慶殿で遭遇した敵。あいつが使っていた技だ。上段からの打ち込みを受けたと思った瞬間、逆に得物を跳ね上げられて直後に顔面に拳を喰らう。どうしてあいつが今、この場に現れるのか。

 二転、三転した先で地面を踏みしめ、即座に体を起こす。打毬杖を両手で構え迎撃の姿勢を取る。が、追撃はない。


 さっと前後左右を警戒するが、あの帷帽を被った人物の姿はどこにも見えない。耳を澄ませば、すでに遠く走り去る馬蹄の響きが聞こえた。

 さらに流螢から十歩ほどの距離に蕭美人の姿があった。うずくまったままピクリとも動かない。乗っていたはずの馬はどこぞへと走り去ってしまったようだ。


(あいつはどうしてこの場に姿を現した? どうして私を襲いつつも、殺さずに走り去った?)


 瞬間、その疑問に対する答えを流螢は得た。蕭美人に駆け寄ればたちまちその推測が間違っていなかったことを知る。蕭美人は頸を裂かれて絶命していたのである。その瞳は大きく見開かれ、虚ろに流螢を見上げていた。

 あの帷帽の刺客は流螢を狙ったのではなく、蕭美人を始末するために現れたのだ。馬毬試合を混乱に陥れるよう命じた、その黒幕に繋がる手掛かりを残さないために。


(流螢よ流螢、悔やんだところで仕方がない。これは徹頭徹尾、お前のせいではないのよ)


 背後からまたも馬蹄の響きが接近する。身構えた流螢だったが、すぐに緊張を解いた。馬上の人物は良く見知った人物、称心だったのだ。

「流螢殿、ご無事で?」

「ええ、私は何とも。ですが……」

 流螢は蕭美人を追跡する中で起こった出来事をかいつまんで話した。皇太子を直接害した人物が再び現れたと知るや、称心は切歯扼腕して悔しがる。


「私が出遅れさえしなければ、奴を取り逃がしはしなかったものを!」

 過ぎたことを悔やんでもどうしようもない。蕭美人の遺体はひとまずその場に残し、流螢は称心とともに引き返すことにした。

「蕭美人を殺されてしまったのは惜しい。ですが、流螢殿のおかげで皇太子の立場は守られた」

 道中、称心はねぎらうようにそう言葉をかけた。


「あの暴走が人の手によるものだと明らかにならなければ、人々は口々に比武召妃が呪われているだの何だのと噂したことでしょう。女王武氏の予言は表立って口にしないだけで、宮中では随分と広まっている。城外にいたっては誰もがこの国の未来と絡めて噂する始末。しかしそれも人の手による工作の結果と示すことができたのは流螢殿のお手柄です」

 まさか賛辞を贈られるとは思っていなかった流螢である。頬を肩にこすりつけ、そんなことはありません、とまんざらでもない表情で返す。流螢はただ怒りに駆られて行動しただけ、その後の情勢にどのような影響を与えるかなどみじんも考えてはいなかったのに。


 試合場を迂回して玄武門に来ると、老臣が一人佇んでいた。二人はその人物が何者か知るや、さっと馬を降りて首を垂れた。

「魏大人、どうしてこんなところに? お体に障ります。どうかご自愛を」

 その老臣は魏徴だった。魏徴は咳を交えながら頭を振った。

「老体を気遣っている場合ではない。陛下は馬毬試合の一件を事故として扱うと宣言された」


 流螢と称心は思わず顔を見合わせた。

「そんな! あれは蕭美人がやったこと、その証拠もあります。それなのに、なぜ?」

「知るか。詳細な調査をするよう何度も進言したにもかかわらず、陛下はならぬの一点張り。比武召妃の続行だけは約束してくださったが、これでは皇太子の命運を陛下御自身で削っているようなものだ!」

 気血が上昇し激しく咳き込む魏徴。流螢はまた内功で収めようと手を出しかけたが、魏徴はそれを拒んだ。

「お前は早く清寧宮へ戻れ。徐婕妤のお側を離れてはならん」

 その緊迫した物言いに流螢はたちまち不安を煽られた。その意図を問うよりも先に魏徴は告げる。


「陛下があれを事故として処理したからには徐婕妤が馬を暴走させた責任を取ることになる。徐婕妤には罰が下されるだろう」

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