六 暴れ馬

 第二試合、白虎隊と青龍隊の試合は白虎側が勝利した。先に一戦を終えたことで自身が操る馬の性格や自軍の誰がどのような動きを取るか傾向を掴んだのだろう。青龍隊は後半で巻き返しを図ったが、前半の失点を完全に取り返すことはできなかった。

 そして遂に迎えた第三試合。太鼓の音が鳴り響き、観衆が沸き立つ中で試合場に毬が投げ込まれた。


 紅色の被布マントを翻し、朱雀隊の面々が一斉に駆け出す。最初に毬を取ったのは東宮の妃嬪だ。一直線に毬門を目指して突き進む。これを二人の玄武隊が挟み込むように迎え撃つ。進路を塞がれた馬は自らの意思で減速し、その間に毬は奪われた。

 ころりと転がった毬にさっと馬が群がり、打毬杖同士がカツンカツンとぶつかり合う。


 流螢はそれを遠目に見ていた。徐恵に言われ、武才人の後方十歩ほどの位置につけている。

「武才人が注目を集めているなら、それを利用させてもらいましょう」

 徐恵はそれだけ言って、策の詳細を語らなかった。武才人の近くにいるからといって目立つとは限らない。むしろこんなにも毬から離れていては誰の目にも留まらないのではなかろうか。


 ふ、と息が漏れた。やれやれ、自分は何を躍起になっているのだろうか。

(流螢よ流螢、何を本気になっているの? 別に目立たなければそれで構わないでしょうに。どのみち皇太子妃になれる未来なんてありはしないのだから、こうして役立たずに徹していればいい)


 誰にともなく肩を竦める。と、そこへ。ぼとんと何かがすぐ目の前に落ちた。はっと視線を向けて見れば、そこには見覚えのある物体が転がっていた。


 毬だ。


 顔を上げる。先ほどまで一か所に群がって奪い合いをしていた妃嬪たちが、一斉にこちらに視線を向けている。


「今よ!」


 徐恵が叫んだ。反射的に流螢は手綱を打ち、打毬杖を振るった。カンッ、と毬が勢いよく転がる。流螢の馬はここぞとばかりに走り出す。観客が歓声を上げた。流螢が毬を取ったからではない。武才人が動いたからだ。

 漆黒の被布は黒い馬体と一体化して、さながら一陣の疾風と化して追い上げる。あの黒馬は体格が他の馬と比べてやや大きく、歩幅が大きい。単純な速さを比べれば圧倒的であるが、その気性が荒いので誰も選ばなかった。それを武才人は完璧に操作している。もともとの十歩の距離は瞬く間に詰められた。


 武才人が右横に並ぶ。まだ試合場の真ん中を過ぎたあたり、毬門までは距離がある。武才人は上体を捻り、右手に持った打毬杖で毬を奪おうとした。

 流螢は咄嗟に毬を跳ね上げ、武才人の打毬杖を躱した。ちらり、武才人が視線を上げたように見えた。流螢もそれを察して武才人を見れば、両者の視線はぱちりと交錯する。

 にやり、武才人の口元が動いた。それは笑みだ。この状況を心底楽しんでいる、そういった笑みだ。


 武才人の打毬杖が、未だ空中にある毬を捉えた。後方へと飛ばそうとする。流螢は慌てて打毬杖を縦に一回転、後方へ飛んで行こうとした毬を受け止め、再び前へ。その曲芸じみた動きに会場からどよめきが走る。

 再び武才人の打毬杖が伸びる。流螢は毬を前方へ飛ばしつつ、武才人の打毬杖を弾いた。カツン、と触れ合う二本の打毬杖。その瞬間に武才人の打毬杖がギュルリと回転した。打ち込んだはずの流螢の打毬杖が弾かれる。一歩遅れる。武才人の打毬杖が毬を取った。


(逃がさない!)


 流螢は素早く打毬杖を繰り出した。武才人が馬首を切り返しながら毬を跳ね上げる。そこへ流螢は打毬杖を突き込み、毬を奪うのではなく、真横に突き飛ばした。武才人の馬はすでに転身を終え、再びの方向転換は間に合わない。その間に流螢は毬を追って武才人の側を駆け抜ける。


 わあわあと観客が騒いでいた。流螢はようやく徐恵の策を理解した。武才人に注目が集まっているのなら、それを利用すればいい――。

 武才人と攻防を演じたなら、衆目の興味は自然とその対戦相手に移動する。今や会場の誰もが流螢を注視している。


 転がった毬を拾う。手綱を繰り、毬門へ向けて駆ける。残り四分の一の距離。肩越しに振り向いて後方を見る。武才人が再びの追走を始めている。その後ろからも赤黒の被布を翻して妃嬪たちが追い上げる。その中で徐恵だけが、打毬杖を頭上に掲げてぶんぶんと振り回していた。

「行っちゃえー! 流螢ー!」

 騒がしい試合場の中で、流螢は確かにその声援を受け取った。――ゆけ! 馬をさらに駆り立てる。


 またも武才人が右側に付ける。打毬杖を繰り出した。カンカン、カン! 瞬く間に打毬杖が数合を交わす。毬の奪い合いをしているように見えて、その実、二人の杖捌きは槍や長棍などの長柄武器のそれだった。この試合場において、流螢と武才人だけは戦場に馬をはしらせている。

 毬門が近い。本来ならばここで毬を長打して門に通すところだが、武才人の攻めを掻い潜って打毬杖を振りかぶる余裕はない。このまま馬体ごと駆け抜けるしかない――流螢が強く手綱を握り締めた、そのときだった。


 後方から甲高い悲鳴が上がった。次いで、ドスンドスンと鈍い音が。流螢は思わず振り返り、そして驚愕に目を見開いた。


 妃嬪が数名、落馬して地面に転がっていた。その中心で一頭の馬が激しく首を振りながら暴れている。後ろ脚を振り上げればまた別の馬を蹴り飛ばし、飛び上がっては地面に転がった妃嬪を危うく踏みつけようとしている。口からは泡を吹き、目は飛び出さんばかりに見開いている。

 その背に跨り、今にも振り落とされそうなのは徐恵ではないか。


「助けて!」


 その瞬間、流螢は馬首を返した。カツン、と打毬杖が震えて毬を奪われたが、もはやそれどころではなかった。今しがた駆け抜けた距離を再び駆け戻る。


 徐恵の馬は正気を失っているようだった。ひとしきりその場で暴れ回ったかと思えば、今度は突如一直線に走り出した。流螢がいるのとは逆方向の毬門目掛けて突進する。その後を追う流螢。地面に転がった妃嬪や馬たちを飛び越え、こちらも一直線に走る。

 観客たちは総立ちとなり、何が起こったのかと口々に叫んでいる。もはや試合どころではない。


 徐恵は手綱を引いて馬を止めようとしたが、正気を失った馬はまったく意に従わない。それどころかぐいと手綱を引き返したため、徐恵は逆に前方へと投げ出されそうになった。右足があぶみから離れる。落馬するかと思われたところ、なんとくらに被布が引っかかった。徐恵は左足だけが鐙にかかったまま、仰向けの状態で馬上から逆さ吊りされる形となってしまった。この状態で落馬すれば脚に巻き込まれ踏みつけられてしまう。そんなことになれば即死だ。


「徐恵、手を伸ばして!」

 左斜め後方に付けて手を伸ばす。徐恵は懸命に手を伸ばそうとしたが、その瞬間に暴れ馬は何を思ったのか、流螢の進路を阻むように馬体を寄せてきた。体当たりだ。慌てて距離を取り接触を避ける。ビリッ! 徐恵の被布が揺れた衝撃で裂けた。ガクンと徐恵の体が下がる。もはや地面に触れそうだ。

 流螢はまた距離を詰めようとしたが、すでに全力疾走を続けた馬はこれ以上速度が上がらない。一方の暴れ馬は限界を超えてますます加速している。距離を詰めるどころか開かれている。伸ばした手はもはや徐恵に届かない。暴れ馬が駆ける先には毬門、そのさらに先には壁しかない。このままでは激突してしまう。


 ザッ、と流螢とは逆側に黒い馬体が現れる。武才人だ。こちらも異常事態に気づいて後を追ってきたのだ。流螢を追い抜き、暴れ馬の右隣に付ける。暴れ馬はまたも体当たりを仕掛けようとする。

 一閃、武才人の打毬杖が暴れ馬の額をガツンと打った。唾をまき散らし悲鳴を上げる。失速した。武才人が距離を取る。入れ替わるように流螢の馬が追いついた。


「飛べ!」

 武才人が凛とした声で叫ぶ。もとより流螢もそれしかないと踏んでいた。鐙を蹴って鞍の上に飛び乗るや、さっと跳躍した。空中で徐恵の体を掴み、暴れ馬の背中を蹴って方向転換。軽功でもって距離を取る。地面に背中から落ち、そのままゴロゴロと転がった。もちろんその腕は徐恵を抱きしめ守っている。


 ドォン、と轟音。暴れ馬は遂に止まることなく壁に激突し、脳漿を撒いて絶命した。あと一瞬遅ければ徐恵も巻き込まれていたところだ。

 流螢は仰向けに寝転がった状態で腕を解き、徐恵を起こそうとした。が、徐恵はぐっと流螢の胸元を掴んで離さない。その間から嗚咽が漏れ聞こえた。

「怖かった……怖かった……」

 流螢を見上げた徐恵の顔は涙で一杯だった。それを見た瞬間、流螢の胸中に憤怒が湧いた。窯の蓋を開いたがごとく、メラメラと燃え上がる。

(徐恵をここまで怯えさせたのは、誰だ?)


 顔を上げ、周囲を見渡す。観客はざわめき立ち、落馬した妃嬪らの元へ太医らが駆け寄っている。黒馬に跨った武才人が絶命した馬の側に寄って何かをその亡骸から拾い上げた。流螢が目を凝らしてみれば、それは小さなのようである。


(あれは暗器? 徐恵の馬はあれによって暴走させられた? でも、誰が)

 武才人ではありえない。徐恵の馬が暴走を始めたとき、彼女は流螢と攻防を繰り広げていた。暗器を放ったのはそのとき徐恵の近くにいた何者かであるはずだ。

 では、誰が――未だ落馬せずに試合場に残る妃嬪らに視線を向ける。誰だ、誰がこんなことを? 探る流螢の視界で一人の妃嬪が目に留まる。今、明らかに不審な動きで腕に振れた。まるでそこにある何かを隠そうとするかのように。


「婕妤、婕妤! 流螢も、二人とも無事?」

 試合場に降りてきた楊怡が血相を変えて駆け寄る。恐怖で身体が竦んでしまった徐恵を抱き起こし、引き連れてきた太医に診せる。それから流螢の袖を引いてまさしくあの妃嬪を指さした。

「あいつよ! あいつが徐婕妤の馬に何かするのを、私は見た!」


 もはや疑いようもない。楊怡の言葉は喧噪の中にあってはっきりと会場内に響いた。妃嬪や太医、そして観客らの一部がくだんの妃嬪に目を向ける。黒の被布に身を包み、あどけなさの残る顔――蕭美人だ。


 蕭美人は自身に注目が集まっていることに気づいたのか、さっと手綱を繰った。近寄ろうとした宦官を蹴散らし、門を抜けて試合場の外へ。

 流螢は飛んだ。軽功で再び馬の背に飛び乗り、蕭美人を追って試合場を飛び出す。


 逃がさない。絶対に、逃がさない。

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