四 宮中の使い手

 候君集は宴会の喧噪を避けるように歩いた。これには先の一件ですっかりびくついてしまった流螢もほっと安堵の息を漏らす。そうこうしているうちに幕営の東側に出た。候君集は部下に命じ、弓を一つ持って来させた。


候某それがしは弓をもっとも得意とします。どうぞご照覧あれ!」


 言うなり第一矢を天に向けて放つ。さらに第二矢。すると後から放った第二矢が先の第一矢に命中し、再び第一矢を上方へと飛ばす。そこへ放たれる第三矢。これまた第一矢に命中して跳ね上げた。


「すばらしい! 二つの矢を空中で接触させるだけでも神業なのに、それを二連続だなんて!」

「婕妤にはさらにおもしろいものをお見せしよう。――行け!」

 候君集が合図すると、植物を編んで作った藤牌とうはいを手にした兵士が五人、馬に乗って駆け出した。隊列を組んで蛇行する。


「婕妤、ここで一つ賭けをしませんか? ここに銅銭が一つあります。これを婕妤が投げ上げ、地面に落ちるまでの間に、果たしてあの五つの藤牌を射抜けるかどうか。成功すれば候某の勝ち、出来なければ婕妤の勝ちです」

「それは私に有利すぎるのでは? わざと低く銅銭を投げるかも」

「それでも構いません。なに、負けた側は罰杯を飲み干すだけのこと。――乗りますかな?」

 随分と自信たっぷりだ。それに罰杯程度なら何の問題もない。徐恵は頷いて銅銭を受け取った。

「それでは候将軍、お手並み拝見!」


 藤牌隊がちょうど散開した瞬間を見計らい、徐恵は銅銭を弾いた。低すぎず、しかし高くもない。地面に落ちるまでものの三秒もかかるまい。

 シュッシュッ! 候君集は立て続けに矢を射る。瞬く間に五矢を放ち、見事藤牌に命中させる。徐恵と流螢は揃って驚愕の声を漏らした。候君集はただ的に当てただけではない。まったく異なる方角と距離にある藤牌の、そのすべてを同時に射抜いたのだ。矢の飛翔する速度まで考慮した熟練の技だ。


「素晴らしい! 候将軍の弓技は入神の域にありますね」

 徐恵は候君集の部下が差し出した酒杯を一息に飲み干した。

「斯様な技を以てすれば、⾼昌こうしょうの兵など敵うはずもありません。候将軍を上回る武芸の使い手は宮中にいないでしょう」

 そこでふと、徐恵は深々とため息を吐いた。表情を翳らせる徐恵に候君集は首を傾げる。


「徐婕妤、いかがなされたか? 酒の質が悪かったでしょうか?」

「いいえ、候将軍。そうではないのです。私は、そう、候将軍があの日皇城内にいてくれたならどれほど良かったかと考えているのです。あの日、皇太子が何者かによって手傷を負わされたその場所に!」


 流螢はぎくりと肩を強張らせた。徐恵は突然何を言い出したのだ?


 ああ、と候君集は長嘆した。

「⾼昌への遠征の路に就く直前、候某は皇太子と約束したのです。この遠征から帰ったら心ゆくまで酒を飲み交わしましょうと。それがなんということか、つまらぬ賊徒のために傷を負ってしまわれるとは!」

 メキ、と何かが軋んだ。候君集がその手の弓をあまりにも強く握りしめたため、その握力でへし折れそうになっているのだ。


「皇太子に武芸を授けたのは、他ならぬこの候某だ。それどころか皇太子の双剣の技には今やこちらが圧倒される始末。それだけの力量を有しておられながら、ああ! 居合わせた宮女なんぞを庇って負傷されたとは! 夜中に勝手に出歩いたそやつ自身が悪いのに、なぜ皇太子が傷を負わねばならぬのか。その宮女がもう死罪となったのは実に忌々しい。できるならばこの候某がこの手で首を刎ねてやりたかったものを!」

 流螢はぞっとして呼吸も忘れそうだった。できることならば今この瞬間、この場から全速力で走って逃げたいと思った。もしも自分が皇太子に傷を負わせた宮女飛麗雲だと知られれば、いったいどんな目に遭うだろう。候君集は心底皇太子を慕っており、そして自分を心底憎んでいるのだ。


(流螢よ流螢、これが現実よ。これが当然の反応なのよ。お前が生きているのは魏大人の策略に必要だったからというだけのこと。きっと誰もが、皇太子を傷つけた張本人を不倶戴天の仇と思っている。皇太子にだって本来は恨まれて当然だというのに、この現状を当たり前のことだとでも思っていたの?)


「候将軍、落ち着いてください。皇太子の一件は後宮の妃嬪も皆、心を痛めております。ですがすでに過ぎたこと。死んだ宮女をこれ以上責めてもどうにもなりません。それに直接皇太子を害したのは未だ正体不明の刺客です。宮女を庇ったためとはいえ、皇太子を負傷させるほどの腕前を誰が? それも女の身の上で」

「徐婕妤、何を仰りたい?」

 徐恵はすぐにはその問いに答えず、ちらりと視線を左右に向けた。候君集はその意を悟りすぐさま人払いする。

「妃嬪も宮女も、多くは幼いうちに入宮します。確かな武芸を身に着けるには幼少より学び続けることが肝要。下手人が女の身の上でありながら皇太子を凌ぐ力量となれば、きっと城内に師父となる人物がいるはず。候将軍はそのような人物に心当たりがありませんか?」


 ここで流螢はようやく、徐恵の、そして魏徴の意図を悟った。

 候君集はこの一年以上、不当に朝貢の運輸路を閉鎖した⾼昌国を攻めるために都を離れていた。そして今の反応を見てもわかるように、皇太子派の人間だ。廃位を目論む輩との接点があるとは考えにくい。あの薄桃衣装の女の武芸が誰によって授けられたものなのか、朝廷の軍事武芸に通暁する候君集の意見を聴こうというわけだ。


 候君集はううむと呻いて顎を撫でることしばし。

「皇城に立ち入ることのできる人物で、皇太子の双剣に対抗し得る剣の使い手となれば、今すぐに名前の浮かんだのが三人おります。一人はぼう遺愛いあい。房玄齢げんれい殿の子ですが学問が苦手で、その代わりに武芸に秀でているとの噂。候某は一度だけ練武に居合わせたことがありましたが、あの剣捌きは見事だった。そして二人目はかん王」

「漢王? それは元昌げんしょう様ですか?」


 漢王李元昌は先帝の第七子、現皇帝の弟だ。あまり話題に上らない人物であるため徐恵も詳しくは知らなかった。ましてや流螢に至っては初耳だ。

「その漢王です。候某は未だ縁なくお会いしたことはないが、候某に負けず劣らずの騎射の腕前を持つとか。それだけでなく膂力に優れ、兵士が十人がかりで動かせなかった大岩を一人で押し退けたとも聞きます。武芸の腕も優れているに違いない」

「それはすごい! それで、三人目は?」

王府長吏ちょうり楚客そかく。表向きは文人ですが、武芸の腕も相当との噂です。剣技だけでなく暗器の類にも精通していると。ただそれはあくまで噂、候某がこの目で見たというわけではない」


 なるほど、と頷く徐恵。そこへ、兵士が一人候君集を呼びながら駆けてきた。

「候将軍、陛下がお召しです。至急、太極宮へ参内せよと」

「陛下が? いったい何の用で? まだ宴は二日目だというのに」

 伝令の兵士に問うたところでどうしようもない。候君集は徐恵に向かって抱拳の礼で別れを告げた。徐恵も膝を曲げてこれを見送る。それから元来た道を辿って馬に乗り、まだ宴を続ける兵営を離れた。


「――流螢、何も気にすることはないのよ」

 十分に兵営から離れてから、徐恵はだしぬけにそう言った。

「人々は飛麗雲という宮女を責めるかも知れない。でもそんなのは聞き流していればいい。誰がなんと言おうと、皇太子を害したのは流螢ではなく悪しき賊徒なのだもの。そしてあなたはその賊徒を探し出すために尽力している。誰からも非難されるいわれなんてない」

「ありがとう、徐恵。私は頑張るから」


 この身は生かされている。すべては皇太子の敵を見つけ出し、排除するために。その役目を今一度自覚しただけのこと。自らの使命を再確認しただけのことだ。

「房遺愛、漢王、そして杜楚客。まずはこの三人から探ってみましょう」

 そこでふと、徐恵は表情を和らげて流螢を見た。何がおかしいのか、くすくすと笑っている。流螢が首を傾げると手綱を打ち、さらに速度を上げる。玄武門はもうすぐだ。


「そうよ、その調子。目の前のことにだけ集中していれば、馬なんて簡単よ」

 言われてようやく気付いた。流螢はいつの間にか早駆けを習得していたのである。

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