三 禁苑の兵営

 皇城の北には広大な庭園が広がっている。庭園といっても、そこは樹木や草花が茂り、動物たちが生活し、池も川もある広大な土地だ。それは都の北、渭水いすいの河にまでおよび、これを禁苑きんえんと呼んだ。


「待って徐恵、待って!」


 木枯らしの中で流螢は先を行く徐恵の背中に向かって呼びかけた。徐恵は手綱を繰り、すぐさまその場で馬を止める。

 二人は揃って馬に乗っていた。もともと嗜みがあると言っていた徐恵は易々と乗りこなしていたが、流螢は生きた馬に触れるのもこの日がはじめてだ。ようやく鞍から落ちないようにはなったものの、少し早駆けすればたちまち置いて行かれてしまう。


「まだまだ人馬一体にはほど遠いわね。もっと練習が必要だわ」

「本当に、本当に次の試合は馬術勝負なの?」

「当たり前よ! 楊淑妃の贈り物、流螢もあれを見たでしょう?」


 楊淑妃が渡したあの細長い箱に入っていたのは、ついの取っ手をやたら長くしたような代物だった。それは打毬杖だきゅうじょうと呼ばれる、馬に乗ってたま毬門きゅうもんに潜らせる馬毬ばきゅうという馬術試合に用いる道具だ。


「私には無理よ。だってこんなに――きゃっ!」

 馬が急に首を巡らせたのに驚き、流螢はあわや転げ落ちそうになる。徐恵がさっと馬を寄せてこれを受け止めた。

「キョロキョロとよそ見をするからよ。馬の視界は広いから、乗り手がどこを向いているのか察してそちらを向こうとする。だからしっかり前だけを見なくちゃ」

 もう何度同じ注意をされただろう。流螢は鞍の上で姿勢を正し、徐恵の後に続く。

「とくにその馬は気性が大人しいわ。あのそんとやら、口は礼儀を知らないけれど、馬の扱いは確かね。他の馬なら何度流螢は落馬したかしら」

「だって、はじめてなんだもの」

「誰にだってはじめてはある。……ふふ、まさか私が流螢に武芸を教える日が来るなんてね」


 早駆けでなければまだ流螢にも話をする余裕がある。二人はしばし馬首を並べてゆっくりと北へ進む。

「それにしても、魏大人はなぜ今日禁苑へ行くようにと? 馬を練習するのに吉日があるの?」


 流螢の問いは、今朝届けられた魏徴からの伝言についてだ。宦官が届けたその手紙には「禁苑へ行け」とだけ書かれていた。楊怡が聞いた話では、魏徴はここ数日とくに病状が悪化し、朝議にも出られなくなりつつあるとのことだった。そんな魏徴がまさか禁苑で落ち合おうと言うはずはないし、そもそも禁苑は誰かと待ち合わせるには広すぎた。


「馬を練習するのに吉日も何もないわ。それこそ、軍馬なら雷雨の中でも走れるように訓練するのだもの。それに魏大人が気に掛けるのは第一に皇太子のこと、そして敵を暴くこと」

 流螢はぎょっとして思わず手綱を強く引いてしまった。馬がヒヒンといなないて急停止する。

「もしかして今日、いずれかの王がこの禁苑に? 私をその方に近づけるために?」

「私も最初はそう考えた。でもそれはない。なぜなら魏大人が容疑者として挙げた三人の郡王の誰一人、今日この禁苑に来ているはずがないから」


 ⻫王の李祐は二月ほど前まで理由をつけて都に留まっていたが、とうとう皇帝によって追い返された。呉王も予備試験のあの日以降、しばらく都には入っていない。魏王はこのところ編纂中の「括地志かっちし」なる書物の完成が近いということで毎日王府に詰めているそうだ。


「魏大人には必ず考えがある。とにかく馬の練習ついでに走っていれば何かが見つかる……かも」

 徐恵の視線が遠い一か所を見つめて止まった。知らず手綱も引いている。その間に遅れていた流螢は横に並び、徐恵が何を見つめているのか視線を追って探り当てた。

「あれは、禁軍?」


 見えたのは兵営だ。緩やかな丘陵を下った先、いくつもの天幕と人馬が見える。何やら大勢の騒ぐ声までわずかに聞こえてくる。禁苑は皇帝の私有軍、北衙ほくが禁軍きんぐんの兵営地でもある。この禁苑で兵営が見えたのならそれと考えるのが自然だが、徐恵は首を傾げた。

「あそこに兵営はなかったはず。仮組みの天幕ばかりだし、数が多すぎる。あれは禁軍じゃない」

「やっぱりいずれかの郡王がここに?」

「わからない。とにかく行ってみましょう」


 二人は手綱を繰り、丘を降りて兵営に近づいた。見張りの兵が接近してくる二頭の馬に気づき、長棍を横たえて立ちふさがった。

姑娘グーニャン、ここはこう将軍の幕営だ。いったい何の用件だ?」

「候将軍? それはもしかして、こう君集くんしゅう将軍のこと?」

「いかにも。候軍は⾼昌こうしょうの都を攻め落とし、昨日凱旋したばかり。陛下は候将軍の功績を讃え、彼らに三日三晩の宴を開くよう命じられたのだ」


 なるほど、と徐恵は頷いた。宴を開くにしても一軍すべてを収められる会場など存在しない。そこでこの禁苑に天幕を張り、どんちゃん騒ぎを繰り広げていたというわけだ。

「それはめでたいことね。候将軍にお会いしたいわ。清寧宮の徐恵がご挨拶に伺ったと伝えてもらえるかしら」

「清寧宮?」

 ただの兵卒が後宮の宮殿を知るはずがない。首を傾げながらも仲間を呼んで伝言に行かせた。その間に二人は馬を降り、兵士に手綱を渡す。兵士は手綱を柵に括りつけながら、その視線でちらちらと徐恵の体を上下に舐める。

「で、あんたらは何者だ? もしかして、陛下が官妓かんぎでも送ってくれたのか?」


 流螢は息を呑んだ。この兵士も素面というわけではなさそうで、頬はほんのり赤くなっている。だが酔っているにしてもこれは失言が過ぎる。よりにもよって正三品の婕妤を官妓と間違えるとは。徐恵もあまりのことに一瞬言葉を失っていると、兵士はにやにやとしながら歩み寄った。その手が不意に徐恵の肩に伸びる。徐恵はぎょっとしてその手を逃れ二歩下がる。すると兵士はあからさまな舌打ちを漏らした。

「なんだぁ? 官妓が生意気な」

 その視線が今度は流螢を捉える。徐恵が飛び退いたため、流螢が彼にもっとも近い位置になったのだ。


 逃げなければ――頭の中ではわかっていても、流螢は動けない。がっしりと肩を掴まれた。ぐいと引き寄せられ、頭の後ろを掴まれる。すん、と鼻を鳴らしてうなじを嗅ぐ兵士。

「お、なかなか良い匂いじゃないか。ちょっと味見もさせてくれよ」

 言うなりべろんと耳の下を舐められた。流螢は完全に硬直して動けなかった。ひくっ、と呼吸が詰まる。頭の中が真っ白になる。気を失いかけたそのとき、徐恵が割り込んだ。


「離れなさい、この下郎!」


 手刀を叩きこまれ、ぎゃっと叫んで兵士は流螢を放り出した。もはや自立する力も失っていた流螢は地面にどっと倒れ伏す。徐恵が庇うように立ちはだかった。

「私の近侍に手を出すとは、大胆不敵な奴!」

「近侍ぃ? 何言ってんだ、おま――」


 最後まで発するより早く、兵士は地面に叩きつけられていた。徐恵ではない。ましてや流螢でもない。天幕の方から駆けてきた一人の将兵が、一瞬で駆け寄るなり頭を掴んで投げ飛ばしたのだ。

君羨くんせん! 貴様、門番の分際で後宮の妃嬪に何たる無礼を働くか!」

 兵士は投げられた事実と、浴びせられた言葉に対して呆然としている。一度に受けた二つの衝撃に頭が処理しきれなかったのだろう。ただただ呆然と地面にへたり込んでいる。ようやく開いた口からは「将軍、ですが」とだけ漏らし、しかしその先は将兵の大喝一声にかき消される。

「貴様はしばらく頭を冷やせ! 徒歩で皇城へ行き、水を持ってこい。お前たちもだ!」

 すぐ近くでたむろしていただけの兵士たちにはまさに災難。将兵がぎろりと睨むのへ、慌てふためいて草原の彼方へと駆けて行った。将兵はそれを見送って深く息を吐き、それから徐恵に向き直って抱拳の礼を取り頭を下げた。


「候君集、部下に代わって無礼を詫びまする。このことはどうか陛下にはご内密に」

「酔って戯れただけのこと。大したことではありません。――流螢、どうしたの? いつまでも腰を抜かしていないで早く立ちなさい」

 徐恵に急かされ、ようやく流螢も震える脚を押さえながら立ち上がる。ごしごしと袖で舐められた首を拭い、徐恵の後ろに控えた。


「それで、徐婕妤はどうしてまた我が幕営にお越しで?」

「候将軍は比武召妃をご存知ですか? 私もその参加者の一人なのです。候将軍は陛下の信頼篤いお方、その武芸の腕前を見せていただけないかと思いまして」

 ほほぅ、と候君集は頷いた。その表情は得意気だ。

「それは光栄! よろしい、我が武功を余すところなくお見せしよう。さあ、こちらへ」


 候君集が幕営への道を開ける。徐恵は会釈を一つ、恐れる様子もなく入っていく。流螢は慌ててその後に続いて徐恵の耳元に囁いた。

「どうしてあんなことを? ここには軍人ばかり、怖いだけなのに」

「大丈夫よ」

 今にも泣き出しそうな流螢をよそに、徐恵は自信たっぷりに胸を張った。


「私に任せて」

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