二 お忍びの訪問

 楊淑妃の右隣、いかにも威厳たっぷりに座る人物こそが呉王だ。軽装だが両肩の刺繍には鳳凰を飼い、帯留めの虎はキラキラと金色に輝いている。四角い輪郭に太い眉、鼻は楊淑妃に似てやや小ぶり、キラリと光る瞳が流螢を捉える。


「ほう、宮女にしておくのはもったいない、なかなかの別嬪だ。兄上はどこでこれを見つけたのやら」

「私が裁縫の腕を見込んで近侍に置いたところ、皇太子の目に留まったのです」

 徐恵が咄嗟にでまかせを言う。時系列が逆転しているだけで内容は事実だ。呉王はとくに疑うこともなくこれを信じた。

「まさに僥倖だな。しかしその額はどうしたことだ? 血が滲んでいるように見える。それに少々、その、臭うようだが」


 呉王の鼻がぴくりと動く。流螢は急ぐあまりに馬糞まみれのままだった。鼻に聡ければこの距離でも臭気に気づく。流螢はたちまち恥じ入った。徐恵としてもこれはどう繕うべきか悩んだようだ。言葉に詰まっている間に楊淑妃が口を開く。

「これは比武召妃、おおかた誰かと争いになったのであろう」

 その瞳が流螢を射竦める。流螢は思わず「はい」と答えてしまった。諦めたように徐恵が割り込む。


「恐れながら、玄武門の厩にて安宝林の不意打ちを受けました。流螢は私を庇って傷を負ったのです」

 ぽん、と呉王が手を打った。

「身をもって主を守るとは、従者の鑑だな! しかし困ったな、先ほど医局に立ち寄ったのだが、少し前に晨夕しんせき宮で怪我人があったとかで金創きんそう薬はちょうど品切れだそうだ。母上は何かご存じで?」

「いいえ、何も。薬ならお前の王府から出せるのでは?」

 うむ、と呉王は大きく頷く。

「それもそうだ。我が幕下の医者に命じて清寧宮に金創薬を届けさせよう。予備試験通過と主を守ったことに対する褒美だ」

「ありがたき幸せ」


 徐恵に倣ってひれ伏す流螢。この時点で流螢は一つの確信を得ていた。

(呉王は犯人ではない。少なくとも、私が声を聞いた人物ではあり得ない)

 記憶にあるあの声とは確実に違う、そうはっきりと断言できた。


娘娘ニャンニャン、私からも流螢に褒美を与えたいのですが、聞いてくださいますか?」

 徐恵の問いに楊淑妃は首を傾げた。

「褒美を与えるならば好きにすればよい。なぜ私に問う?」

「私と流螢は同着、しかし順位は決めなければならないはず。娘娘さえよければ、私たちを同着ではなく、流螢を一番にして欲しいのです」


 これには流螢が一番驚いた。先の徐恵の証言がいささか事実と異なることに疑問を抱いてはいたが、呉王について考えるのでまったく気にしていなかった。まさか話をこのように仕向けるための布石だったとは。思わずがばっと顔を上げて徐恵を見つめてしまった。しかし徐恵はまっすぐに楊淑妃を見ている。

 楊淑妃は一瞬呆気にとられたようだったが、すぐにニッコリとほほ笑んだ。

「よろしい。主を庇護した功を讃え、朱流螢を先着としよう」

「ありがたき幸せ」

「あ、ありがたき幸せ!」


 流螢も慌てて徐恵に続いて頭を下げようとする。それを楊淑妃の「ただし」の言葉が遮った。腰を曲げかけた中途半端な姿勢で流螢はまた顔を上げる。楊淑妃は手にしていた扇を開き、口元を隠しながら告げた。


「朱流螢は二番、徐婕妤は三番。一番手はもうずっと前に回答を済ませている」


***


 徐恵は不機嫌だった。理由はもちろん、予備試験を一位通過できなかったからである。

「むかつく、むかつくぅ! じぇーったいに私たちが一番だと思ったのに、どうして二位なのよ!」

「それは私たちよりも賢い妃嬪がいたというだけ……」

「二人で知恵を合わせたにょよ!? きっと最初にとびっきり簡単な問いを引き当てたに違いないわん。しゃもなければこんにゃこと!」

 徐恵は酔っていた。もともと酒量は多くないほうだが、このときすでに通常の倍は飲んでいる。そろそろ呂律がおかしくなり始めたようだ。


 楊怡は命じられた通り、円卓一杯の料理を手配して二人の帰りを待ち受けていた。そこへ頬をぷっくり膨らませた徐恵が帰ってきたものだから驚いた。何があったのかと問うた瞬間、徐恵の怒りは爆発した。瞬く間に酒壺を空け、繰り返し不平不満を並べ連ねたのである。流螢も楊怡もその左右に無理やり侍らせられ、絡み酒を受けている。当然酔い潰されるわけにはいかず、こっそり足元のくず入れに棄てていたが。

「誰よぉ、私たちを出し抜いて、一番を掻っ攫っていったのはぁ~」


「――それを知りたいですか?」


 ぎょっとして侍女二人は振り向いた。徐恵はぐらりと上体が傾ぎ、玉卓にゴツンと頭をぶつけた。あいたぁ! と叫んだが誰も聞いていない。


 宦官だ。宦官が二人、入口に立っている。しかし妙に背筋がしっかり伸びていて、誰かに仕える小宦官とは違うように見えた。それもそのはず、その宦官は皇太子の側近、称心しょうしんだったのである。

「何度か声をかけたのですが、誰の応答もなかったので。勝手にここまで入らせていただきました。お邪魔でなければ同席してもよろしいか?」

 清寧宮の門はもはや客人の出迎えもできなくなったらしい。楊怡はすでに目に見えて狼狽し、ぱっと立ち上がるなりその場でくるくると意味もなく三回転した。


「称心さまがなぜここに? えっと、その、今すぐ酒杯を――いや先にお席に、いやでもどうしてこんな時間に?」

 完全に混乱している。そして一方の流螢は、称心の背後に立つもう一人の宦官に視線が向いていた。ようやく来客に気づいたらしい徐恵が振り返り、戸口に立つ二人をとろんとした目で上から下まで見下ろす。


「これはきょれは、皇太子ではありましぇんかぁ。ようこしょ清寧きゅーへ――皇太子!?」

 徐恵の酔いも一気に醒めた。驚きのあまりこちらも楊怡同様飛び上がり、その勢いで酒杯をひっくり返す。料理が一皿駄目になった。


 称心の後ろに立っていたのは、誰あろう皇太子である。右脚をやや引きずるようにして燭台の灯りの届くところに立つ。

 はっきりと光の下でその顔を見るのは、流螢にとってはじめての事だった。皇帝は北方の騎馬民族の血統を引いていると聞く。皇太子の容貌にもその血筋は現れていて、高い鼻、鷹のような目、黒々とした髪は艶やかで、剽悍ひょうかんな中にも知性を感じさせる面持ちだ。


 貴人の顔を直視してはならない――そんな規律はもはや流螢の頭から吹き飛んでいた。呆然として真正面から皇太子の顔を見つめていた。あの夜、刺客の凶刃から流螢を護ってくれたその人がいま、目の前にいる。


 不意に耳たぶを掴まれた。激痛に我に返り、「いたたたた!」と叫びながら立ち上がった。耳を掴んだのは徐恵だ。

「なにをボケっとしているの! 早くそのスカートを脱ぎなさい!」

「いきなり何を言うの!?」

「そんなみすぼらしい格好で意中の殿方にお会いして許されるとでも? 太上老君が許しても、私が許さない! 今すぐあのくれないの裳に着替えなさい!」


 まだ酔っているのか正気なのか、徐恵はその場で流螢の裳を引っ張る。流螢は引き裂かれまいと慌てて引っ張り返す。その場できゃあきゃあと裳裾の引っ張り合いが始まった。

 これを収拾したのは称心だった。呆れた様子で両者の肩を掴む。

「落ち着かれよ。殿下も私も、今宵はお忍びで参上した次第。慌てる必要はありません」

「で、でも」

 言いすがる徐恵に、称心はわずかに肩に掛けた手に力を込めた。流螢も同時にそれを感じた。ずっしりとした力が体にかかり、否応なく座らされる。重みを感じたのではないが、抵抗を許さない圧力だ。深い内功による技だ。


 楊怡がわたわたと酒杯やら皿やらを持って戻ってきた。称心は流螢と徐恵の間に皇太子を座らせる。そして自身は楊怡の隣へ。楊怡が塑像そぞうのように固まってしまったのは言うまでもない。

「今日の予備試験、無事に通過したようだな」

 皇太子が酒杯を掲げるのへ、流螢は一瞬反応が遅れながらも酌をする。

「ででで殿下の応援あればこそです。そのそのそのその、裳の贈り物をありがとうございまする!」

 また緊張のあまり喋りがおかしくなっている。流螢は自身の頬を殴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、何とか堪える。


「大したものではない。あれを手芸達者に送って笑われはしないかと案じていたが、杞憂だったな」

「そんな、とんでもない! 一生の宝にします! 毎日着ます、いつでも着ます!」

 もはや自分でも何を言っているのかわからなかった。自分で言っていて、寝るときもあれを着るつもりかと自問してしまう。


(ああ、流螢よ流螢、どうしてお前はこんなにも愚かなの? そもそもどうして皇太子と卓を同じくしているの? 私はいったい、夢を見ているのではないかしら?)

 流螢が皇太子を見つめたまま動かなくなってしまったのを見て、徐恵が慌てて話題を変えた。さすがにもう酔いは醒め、清寧宮の主として振舞おうとしている。もちろん手遅れなのだがそこはそれ、建前というものがある。


「称心さま、先ほど仰っていたあれはどのような意味ですか? 予備試験通過の第一位を、お二人はもうご存知なのですか?」

「徐婕妤の仰る通り。此度の比武召妃は主催こそ陛下ですが、その結果は逐一東宮に届けられています。今日の予備試験の結果ももちろん、日暮れのあとすぐに届けられました。だからこのようにささやかながら祝いに駆け付けた次第でして」


 そこで称心は人差し指を唇に添えて囁く。


「これはくれぐれも魏徴殿や楊淑妃には内密に。殿下が特定の参加者と懇意にするのは、当然良くないことですから」

「もちろんです。それで、今日の一位は誰だったのですか?」

 称心は自身では答えず、視線を皇太子に投げた。皇太子は酒杯を干し、うむと一つ頷いて。


「才人宮の才人さいじんだ。試験開始からほんの二、三刻で合格したとか。なかなかの切れ者のようだな」

 武才人――流螢はもちろんその顔を覚えている。出場者発表の場で壇上から流螢を見つめ返した、あの妃嬪だ。美しさの中に、何か例えようのない恐怖を見たあの女性。


「後宮では少し浮いていると聞きます。いつも一人で、何をして一日を過ごしているか誰も知らないと」

 楊怡がようやく呼吸を落ち着けて口を開く。この手の話に関しては楊怡の得意とするところだ。

「出身は利州、父親の武⼠彠しかくは元木材の商人でしたが、先帝が兵を起こされた際に官位を得て出世したとか。文学音楽、歌舞もそつなくこなす秀才との評判です」


 なるほど、と言って称心が続きを引き継いだ。

「多芸に秀でると逆に突出したものがなくなる。それだけ出来が良くても陛下の寵愛を得られないのは、その辺りが理由でしょう」

 ううむ、と徐恵は考え込む。

「武才人……まったく気にかけていなかった。これは思わぬ好敵手の登場ね。次の試合では気を付けなければ」


「次の試合といえば。楊淑妃から何か受け取ったそうだな?」

 皇太子の視線はすでに部屋の隅に置かれた二つの細長い箱に注がれている。

 あれは鳳露台を去る直前、楊淑妃が今日の試験の褒美だと言って渡したものだ。清寧宮に戻るなり徐恵が酒乱を始めたため、今の今まで顧みることがなかった。楊怡がその一つを手に取り卓上に置く。改めて見ると長辺は三尺一メートルもある。


「殿下でさえも次の試合がどのような内容か知らされていない。しかしこれが楊淑妃から授けられたものであれば、それは次の試合に関係するものであるはず。徐婕妤、この中身を私たちにも見せてくれませんか?」

 称心の問いにもちろんと答え、徐恵は箱の包みを解き、蓋を開いた。その場の全員、ぐっと身を乗り出して中を覗き込む。


 なるほど、と誰かが呟いた。


「次の試合は、これか」


 少なくとも、その発言は流螢ではなかった。

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