三章 軍と馬

一 真の答え

 流螢、大丈夫――。


 徐恵が腰を浮かせて立ち上がろうとした瞬間、馬乗りにされていた安宝林が突如動いた。徐恵の体を突き飛ばし、流螢を飛び越えて走る。

驪山りざんの護符――手に入れるのは私よ!」

 壁に掛けてあった手綱を掴み、入り口にもっとも近い馬房の柵を開く。そのとき、パシンと音を立てて何かが外れた。馬房の柵に仕掛けられていた何らかが作動したのだ。


 直後、安宝林の体は消えた。否、飼葉ごと地面が浮き上がり、真上に吊り上げられている。徐恵はすぐ近くの馬房を調べた。飼葉が地面に散っていたのは網縄を隠すため。すべての馬房の柵には馬を連れ出そうとする者を捕える跳ね上げ式の罠が仕掛けられていた。

「何よこれ、誰か降ろして!」

 網縄にかかった安宝林が騒ぎ立てると、厩の扉が開いて馬番の孫が顔を覗かせた。


「へぇ、これで五人目か。でもそっちの二人は引っ掛からなかったんだな。……おいお前、血が出てるじゃないか。大丈夫か?」

 びしょ濡れ血まみれの流螢を横目に見ながら、孫は柱に結び付けられていた縄を解き、安宝林を捕まえた網縄をぞんざいに地面に降ろした。安宝林はぎゃあぎゃあと喚いていたが孫はまったく取り合わない。

「うるせぇなぁ。馬が驚くから静かにしろっての。女ってのはどいつもこいつも騒いでばかり……」

「ねえ、あなた。孫と言ったかしら? これはどういうこと? 引っ掛かったのが五人目、というのは?」


 流螢に肩を貸しながら徐恵が問う。すると孫は猿顔を大いに顰めながら、まったく迷惑なことだと言わんばかりに肩を落とす。

「どうもこうも、今日は比武召妃の予備試験だとかで、ここに馬を借りに来た妃嬪は全員とっ捕まえろって楊淑妃に命じられたんだ。しかもここに来る妃嬪ども、兎や狐並みに阿呆だ。ちょっと罠を仕掛けてやったらまんまと引っ掛かりやがる。それもこいつで五人目だ。お前さんたちは運がいいな。罠にかからずに済んだ」

「では……では驪山に行った妃嬪はいない?」

「それを訊いた奴にはこう答えろとも命じられている。曰く、不対ちがう

 徐恵と流螢は揃って顔を見合わせた。第三の問い、その答えは驪山麓の廟の護符ではなかったということだ。


 安宝林がなおも騒ぐ。


「畜生、畜生、この弼馬温うまばん風情が。妃嬪をこんな乱雑に扱ってただで済むと思っているの?」

「うるせーやい。お前こそ妃嬪ってわりには、他人をぶん殴ったりぎゃあぎゃあ喚いたり、まったくもってお妃さまって感じがしねーや。もうちょっとお淑やかにしてみたらどうだ? ただでさえ顔が真っ赤でパンパンなんだからよ」

「匹夫が私を愚弄するか!」

 口喧嘩はやむ様子がない。


 流螢は徐恵とともに厩を出た。すぐ近くの花園に移動して傷口を洗う。血は流れたが傷は浅く、少しみたが痛みはたちまち消え去った。

「酷い災難だったわ。でも安宝林のおかげで助かったとも言える。あいつがいなければ網縄の罠にかかっていたのは私たちよ」

 手巾を流螢の額に巻く徐恵。その表情は暗い。驪山の護符が第三の問いの答えと確信していたのに、それは間違いだという。では真の答えとは何なのだろう?


 日は傾き始め、間もなく空は赤らみ始める。締め切りの刻限は近い。

「もう一度、ゆっくり考えましょう。私たちは大きな思い違いをしているのかも。……いたた」

 額の傷に痛みが走り顔を顰める流螢。その様子を見て安宝林に対する怒りが再燃したのか、徐恵はまたぷくりと頬を膨らませる。

「あの安宝林め! いくら必死だからって、不意打ちで殴るなんて卑怯だわ! 本当に人間としてどうかしている。あんな人間性じゃあ皇太子妃になんかなれるはずが――」


 そこで不意に言葉を呑み込む。流螢か訝って顔を覗き込むと、小さく「そうだ、そうだ」と呟いている。

「問題文の筆跡は全部違った。一つめはきっと楊淑妃のもの、二つめは褚大人。ではこの最後の問いは? 先の二つとはまた違う筆跡、でも私はこれに見覚えがある……」

「徐恵、どうしたの? 何かわかったの?」

 流螢が問いかけるのと同時、徐恵はあっと叫んで立ち上がった。

「ああ、徐恵よ徐恵、お前はどうして気づかなかったの? この文字に見覚えがあるのは当然、これは陛下の文字よ! この第三の問い、出題者は陛下だったのね? ではこの問いの真意は、陛下が皇太子妃に求めるもの。そんなの決まっているじゃない。アレ以外にあり得ない!」


 状況を理解できていない流螢の手首を徐恵は掴んで走り出した。今度の行き先はすぐに分かった。清寧宮だ。

「おかえりなさいませ、婕妤……って、流螢はいったいどうしたの!?」

 出迎えた楊怡が驚くと同時に鼻を摘まむ。流螢は怪我をしているだけでなく、馬糞にもまみれてすこぶる臭かったのである。当の本人と徐恵はすでに鼻が慣れてしまって気づいていなかった。流螢は事情を話そうとしたが、ほとんど何も話さないうちに徐恵が戻ってきた。抱えていた大きな箱を流螢に押し付ける。

「流螢、行くわよ。楊怡は今夜の宴の準備をよろしくね」

「宴? 誰か招くのですか?」

「予備試験状元じょうげん及第のお祝いよ! なんなら称心さまもお呼びなさい!」


 思わぬ言葉に途端に真っ赤になって楊怡は一言も返せない。その間にも徐恵はまた流螢の腕を引っ張って清寧宮を飛び出した。軽功を駆って瞬く間に鳳露台に到着する。空はまだ少し翳り始めたころで、日暮れまでは十分な時間があった。


「楊淑妃が流螢に最初の問題文を渡さなかった、それを私は何と陰湿ないじめだろうと思った。でも真意は違った。楊淑妃は流螢と私が二人一組になるように仕向けたのよ。そうしなければ流螢が最後の答えを手に入れることができずに、不公平になってしまうから」

「徐恵、それはどういうこと?」

「この予備試験は誰か一人の勝者を決めるのではなく、順位を決めるもの。最後の問いは誰もが同時に手に入れられるものでなければならない。それは逆を言えば、妃嬪ならば誰もが有しているものということ。そして出題者は陛下。答えは『女則じょそく』よ」


 箱の中には『女則』全十巻が収められていた。この著者は亡き文徳皇后であり、中には賢皇后として知られる彼女による妃たる者の心得が記されている。皇后が逝去した後にこれを見つけた皇帝はその誠実なる心意気に感服し、以後入宮する妃嬪全員にその写本を与えていたのである。


「――徐婕妤、そして朱近侍。見事である」


 鳳露台で楊淑妃は満足そうに言った。

「刻限までは今しばらくの時間があるというのに、もう答えを得るとは。なぜ最後の問いが『女則』と分かった?」

「皇太子妃とはいずれ皇后になる者。皇帝を支え、寄り添い、時には導くことさえも求められる。その道標となる『女則』は皇太子妃となる者の宝です。文徳皇后に学び、良き妃となることが私たちの使命です」

「いかにもその通り! 徐婕妤はやはり聡明だな」

「このような才女が兄上の妃となるのなら、この国の未来も安泰と言えましょう」

 びく、と流螢の体が震えた。宮女である流螢は楊淑妃の前に参上してからずっと顔を伏せており、檀上に誰がいるのか一切見ていない。そこへ男性の声が聞こえて驚いたのだ。宦官ではない、低い声だ。宦官でなければ誰がこの鳳露台に?


 流螢の動揺を悟ったのだろう。徐恵がちらりと視線を投げてから頭を下げる。

呉王ごおう殿下にお褒め頂き、恐悦至極にございます」

 呉王――魏徴の言葉を思い出す。呉王かく、楊淑妃の子にして前王朝の血を引く皇子。皇太子廃位を目論む三人の容疑者に挙げられた中の一人だ。


 流螢は自身の心臓が激しく脈打つのを感じた。後宮に潜む皇太子を害した下手人を探し出すはずが、まさかこんなところで黒幕の可能性がある人物と出会うことになろうとは。

「そちらの近侍は兄上自らが参加者に加えられたとか? 顔を見てみたい。面を上げよ」


 心臓はいよいよ激しく脈動する。流螢は深く呼吸して動揺を抑え込もうとした。

(流螢よ流螢、何を恐れるの? もとよりこれが魏大人の計画、それがちょっと予期せず実現しただけのこと。それにあの夜に声を聴いた相手は私の顔を見ていないはず。顔を見られてすぐにこの身が飛麗雲であると露見するはずはない)


「どうした? 早く顔を見せないか」

 横目で徐恵を見る。徐恵も目で頷いた。流螢は意を決した。

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