八 横取り
まだ日没まで十分な時間はあるが、そうそうゆっくりもしていられない。徐恵と流螢はまた軽功で宮廷を駆け抜ける。
「
「その驪山とは遠いの? そこまでどうやって?」
「城を出て東に十数里、歩きでは夕刻に間に合わない。でも馬を使えばすぐよ。玄武門の側に
玄武門――流螢は先の魏徴と房玄齢の会話を思い出した。房玄齢がその一語を持ち出した瞬間、魏徴は激しく動揺していた。
「昔、玄武門で何があったの? 魏大人が守れなかったと言っていた、建成さまとは誰?」
徐恵が立ち止まる。一つは玄武門に到着したため、一つは流螢の問いに反応したためだ。さっと左右に視線を巡らせ、余人の有無を確かめる。厩の側に数人の宦官、城壁の側に妃嬪の姿が一つ。どちらも十分な距離がある。徐恵は声を潜めた。
「その話題はね、流螢。あまり口に出しては駄目。でも知らないままというのも良くないから話すわ。建成さまとは陛下の兄君で、皇太子だった方。それを陛下は……陛下は討ってしまわれた。この玄武門で!」
流螢は思わず悲鳴を上げそうになるのを、かろうじて手で口を押さえて堪えた。
時の皇太子李建成は当時立て続けに軍功を上げていた弟を疎み、いずれ皇太子の座を奪われるのではと憂慮していた。
「そこで陛下の暗殺を建案したのが、誰あろう魏大人だったのよ。結局のところ計画は露見して陛下が一歩先に建成さまを討った。魏大人は当然死罪となるところ、陛下に才を見出されて諫議大夫に封じられたという経緯がある」
「魏大人は陛下を恨まなかった?」
「もちろん恨んだでしょうね。でもそれ以上に、陛下の懐の深さに感銘を受けた。情ではなく、何がこの国にとっての最善か、誰が皇帝たるべきか、魏大人にはそれがわかっていた」
そして今また、皇太子は窮地に立たされている。魏大人が今の皇太子にかつて守れなかった李建成を重ねるのも無理はない。
(あの気の流れの異様な静けさ……魏大人は大病に侵されている。それも死脈すら現れるほどに。それなのに、いや、だからこそ命あるうちに皇太子を守ろうとしている。ああ、流螢よ流螢、魏大人が皇太子を案ずる心に比べたら、お前はなんて小さいの)
徐恵が馬番に馬を借りたい旨を伝えると、
「実をいうと、徐恵。私は馬に乗れないの」
貧しい農村に生まれ、宮官になってからも馬に乗る機会などなかった。実のところこんなにも間近で馬を見るのははじめてだった。
「それなら二人で乗れる強健な馬にしなくてはね。私は結構な腕前だから心配なんて要らないわ」
「……えっと、私が乗る必要はあるかしら? 徐恵一人で驪山に行って、二人分の護符を貰ってきてもらえれば」
「まあ! この子ったら、主人を使いっ走りにするつもり?」
徐恵が冗談めかして言い、流螢は自身の失言を悟って縮こまった。徐恵はアハハと笑ってどんどん奥へ進み、馬を探す。
「驪山へ二人で行くには……うん、この子がいい」
徐恵が壁に掛けられていた手綱に手を伸ばそうとしたそのとき。流螢の背後で地面に散った飼葉を踏みしめる音がした。二人が入った直後、厩の扉は占めたはずだ。馬番は外にいるはず。背後に誰が?
振り返った瞬間、風切り音とともに額に衝撃が走った。痛みは感じなかった。誰かに横殴りにされたのだと気づいたのは、飼葉入れに激突してからのことだ。足から力が抜け、飼葉入れをひっくり返す。飼葉を頭から引っ被った。
「誰!?」
驚愕の声を上げる徐恵。今さらになって疼痛が頭を襲う。額が割れたのではないかと思うほどの痛みだ。手で押さえてみればぬるりとする。眼前に翳してぎょっとした。真っ赤な血に染まっている。誰の血だ?
「わた、し……」
「流螢、逃げて!」
徐恵は叫んだが、流螢はこの時点でまだ混乱していた。動けないでいる間にももう一撃、ガツンと今度は後頭部に喰らう。視界が激しく明滅する。ここにきてようやく状況を理解する。誰かに棍棒か何かで殴られているのだ。
飛びそうになる意識を何とか保ち、流螢は地面を転がった。柵の下を潜り抜けてすぐ側の馬房に転がり込む。何者かの三回目の殴打はガツンと柵を打った。
「
徐恵の叱責。流螢は馬糞まみれになりながら顔を上げ、自身を不意打ちした相手の顔をようやく見た。あれは見覚えがある。出場者発表の場で流螢の参加に異議を唱えた妃嬪だ。その手に握りしめているのはその辺で拾ってきたと思われる薪木のような木片。その表面にはべっとりと赤い液体が付着している。流螢の血に間違いない。安宝林は血走った眼で徐恵を見つめる。
「驪山の護符、それが第三の問いの答えなのね……!? 馬を渡して、ここから出て行って! この勝負、勝つのは私よ!」
楊淑妃は言った。第三の問いは全員が同じ答えにたどり着くと。そしてこうも言った。これはあくまで比武召妃、決して油断してはならないと。
(問いを最後まで解けなくとも、先に解いた誰かから答えだけを奪えばいい。なるほど、あれはそのような意味だったのね……)
意識が朦朧とする。安宝林はじりじりと徐恵ににじり寄った。
「まだ世間も知らない十二の歳で後宮に入れられた。それなのに陛下のお召しは一度も賜っていない……。このままでは私は、若い
「そのために人を害するの? そんなことをして、流螢を殺すつもり?」
「宮女の一人や二人死んだところで、何よ! こんな卑しいクズと比べられるだけでも腹立たしいのに、私より上を行くだなんて絶対に許さない!」
棍棒の先を徐恵に突きつける。
「あんただって! たかが少し書が上手いだけで婕妤になって、気に食わない。私の邪魔をするならお前も殴ってやる!」
安宝林が動く。棍棒を振り上げ、徐恵に迫る。徐恵はさっと横に動いてこれを回避した。が、その背中が柵にぶつかる。武芸の基本は相手の攻撃、それが描く直線から逃れること。だが馬房の間は動き回るに狭すぎる。安宝林がさっと一歩動けば、徐恵の体はまた棍棒の射程範囲に入っている。
「逃げ、て、徐恵!」
どくどくと痛む頭を押さえながら流螢は立ち上がる。徐恵を守らなくては――だが足元はふらつき、気を抜けば意識さえも飛びそうである。
安宝林の振り下ろした棍棒が、今度はガツンと柵を打つ。徐恵は背面越しに柵を蹴って跳躍、上方へと逃れていた。身を翻しながら軽功で距離を取る。しかし徐恵が着地したのは厩のさらに奥、そちらに出口はない。この窮地を脱するには入り口側へ逃げるべきなのに、なぜ?
(私が……私がこちらにいるからだ。徐恵では私を抱えては行けない。もしも徐恵一人が厩を出て行ったなら、安宝林は私を確実に殺すかもしれない。だから徐恵は逃げないばかりか、私から安宝林を引き離すように奥へ行ったのだわ)
安宝林の動きに武芸の型は感じられない。何も知らない素人の動きだ。手にした棍棒をめちゃくちゃに振り回し、間合いも理合いもなく攻めている。これは半端に武芸を修めている人間よりもずっと厄介だ。
助けなければ――流螢の気は急くが、体がついてこない。額から流れ出す血は顔の半分を濡らし視界を赤く染める。意識が遠のく。まずい。
徐恵は遂に端まで追い詰められた。左右は馬房、背後は壁。正面に立つ安宝林はここぞとばかりに棍棒を振るって殴りかかる。徐恵は横薙ぎの二連撃を体を屈めてやり過ごし、次いで腰を狙った一撃を両手の掌打で受け止める。暴れる安宝林の腕力も、内功を修める徐恵の守りは突き崩せない。動きが一瞬止まる。徐恵は強く一歩踏み込むと肩から安宝林の胸に体当たりを喰らわせた。
ザザッ、と安宝林の体が五歩後退する。しかしその手は強く棍棒を握りしめ、殺気は少しも衰えていない。むしろ先ほどまでよりも逆上したように見えた。
「あんたも殺してやる!」
双眸に怒気を漲らせ吠える安宝林。その背後で突如、ザブンと水音。振り返った先では一人の宮女、すなわち流螢が馬用の水桶に突っ込んだ頭を引っ張り出しているではないか。
「……徐恵から、離れて」
水を滴らせ、まだふらつく足取りで安宝林に歩み寄る。まだふらついているが流螢の意識はっきりしていた。朦朧とする意識を冷水で醒ましたのだ。結っていた髪は解け、べったりと頭から首、胸にかけて体に張り付いて、さながら活きた水死体である。
そのおぞましい光景に安宝林の肝は冷えた。先ほどまでは溢れる殺気によって、そして今度は恐怖によって棍棒を振り回す。
「寄るな、来るな、私に近づくな!」
三歩の距離にまで迫った流螢に大上段から棍棒を振り下ろす。あっ、と徐恵が叫んだ次の瞬間、流螢の体は安宝林の懐に飛び込んでいた。
ズン、と鈍い音。流螢の拳が安宝林の腹にめり込んでいる。肺の空気が押し出され、安宝林の開いた口から声にならない呻きが漏れる。
「ハ……かへェ……」
カラン、こぼれ落ちた棍棒が地面に転がる。流螢の体ががくりとその場に膝を突く。頭部に傷を負い、今の一撃で体力を使い果たしたのだ。安宝林は数歩後退りつつ、まだ倒れない。げぇっ、といくらか胃の中身を吐き出しつつも、流螢の間合いから離れようと振り返る。
あいにくと、振り返った先では徐恵が待ち構えていたが。
「――ハァッッッ!」
右の手首と胸倉を掴み、徐恵は転身する勢いで安宝林を投げた。完璧な、綺麗な投げ技だ。その体は一回転して厩の地面に背中から叩きつけられる。受け身など知るはずもなく、安宝林は呼吸器に衝撃を受け激しく咳き込んだ。その腹に徐恵はまたがり平手を振り上げる。
「これは私の分!」
パンッ! 乾いた音が響き渡る。みるみるうちに安宝林の頬が真っ赤に腫れ上がった。
「これは流螢の分!」
さらにもう一つ。これで終わらず、徐恵は立て続けに平手を放つ。
「これも流螢の分、これも流螢の分! これもこれもこれもこれも――流螢の分よ!」
都合十発は放っただろうか。まだ続けようとした徐恵の手がピタリと止まる。安宝林が両手で顔を守り、ぐすぐすと泣き始めたからだ。
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……。私は負けたくなかった、負けたくなかっただけなのよぉ……ただそれだけだったのよぉ!」
両頬が真っ赤に腫れて涙まみれのその顔はとても醜く、徐恵はやっと手を降ろした。視線を上げれば流螢がへたり込み、荒い息を吐いている。
滴り落ちる水滴には、まだ赤い色が混じっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます