七 予言あるいは流言

 第三の問いは筆の軸に隠されていた。丸められたそれを取り出して開き、流螢と徐恵は顔を見合わせる。


なんじたから


 第二の問いはたった八文字だったが、最後は三文字ときた。むうぅと唸る徐恵。

「私の宝ですって? 簡潔にして難問ね」

ぎょくかんざし瑪瑙めのうの碁石、銀の鏡に三彩さんさいの壺。清寧宮に宝と呼べる物は山ほどある。いったいどれを言っているのかしら?」

 ううんと悩む流螢に、徐恵はクスリと笑みを漏らす。


「一番の宝は決まっているわ。でもね、流螢。人によって何を宝とするのかは変わる。それは個人の価値観に依るものだから。私は書が好きだから筆にはこだわる、でも流螢にはどれも同じ。楊怡は茶器を大事にしているけれど、私達にとってはただの道具に過ぎない」

「金銀財宝や宝玉の類なら、誰もが宝と認めるのでは?」

「第三の問いの答えがそんなにも単純とは思えない」

 流螢もそれには同意だ。第一、第二の問いが一筋縄では行かなかったのに、最後の問いだけがそんなに簡単であるはずがない。


 二人は話し合いながら内廷を歩く。足は太極宮へと向かっていた。文武百官が集い政治を行う朝議の場である。この時間帯にもなると人の姿はほとんど見ない。

「比武召妃は即刻中止すべきでは?」

 不意にそんな声が耳に飛び込んできた。徐恵と流螢はさっと身を潜める。声は通りかかろうとした角の向こうから聞こえる。


「あれは陛下が開催を決定したもの。たかが予言ごときで中止になどできるはずがない」

 答えた声には聞き覚えがある。そっと二人して角の向こうを覗き見れば、やはりそこにいたのは魏徴である。

淳風じゅんぷう殿の卜占ぼくせんですぞ。些末事と掃いて捨てるわけには行きますまい」

 渋い表情の魏徴に詰め寄るのは長身で面長の老官吏だ。魏徴の前に立つと頭一つ抜けている。


「あれはぼう玄齢げんれい、房大人。魏大人と同じく陛下の寵臣で、房遺愛さまの父君ね」

「お二人が話している李淳風というのは?」

「天文家で占師うらないしよ。数年前に日蝕があったのを覚えている? あれを事前に予知した人」


 房玄齢はそっぽを向こうとする魏徴を強引に振り向かせた。

「国三代にして女王立ち、李に代わり武が栄える――もうこの一節が出回り始めている。無視せよと言ったところで無理な話だ。陛下はこの国の二代目、三代目は皇太子だ。そして今まさに皇太子妃を武芸で以て選び出そうとしている。これの意味するところがわからないはずはないだろう? 武によって皇太子妃となった女がいずれ政権を握るという暗示だ」

「バカバカしい!」


 魏徴は房玄齢の手を払い除けようとしたが、力が足りずに腕を組み合うような形になってしまった。

「皇太子は次の帝位を継ぐに相応しいお方、それが女ごときに政権を握られるなどあるものか。世迷い言もはなはだしい」

まつりごとを揺るがしてきたのはいつだって女だ」

「色香に惑わされる時点で帝王の器ではなかったということ。妲己だっきに酔ったちゅう王も、西施せいしに溺れた夫差ふさもな。そもそも女が武芸で殿下を意のままにできるとでも?」

「殿下は不具ふぐになった。女のために」


 瞬間、魏徴の顔に怒気がみなぎり、房玄齢を突き飛ばした。

「殿下は未だ剣を揮える、馬にも乗れる! 将が兵を率いるのに足が要るか? 孔明とて晩年は座してなお兵を動かしたのだぞ。たとえ殿下が歩けずとも、帝王の器には瑕疵きず一つない!」

 魏徴は拳を握り、ぷるぷると震えている。房玄齢はそんな魏徴を見下ろし息を吐く。

「魏殿とは先王の時代から一緒にやってきた。だから私にはわかる。魏殿はまだあれを悔いておられるのだな」

「あれとは何だ」

玄武門げんぶもん


 魏徴はかっと目を見開き、房玄齢を見た。直後、ゴホゴホと激しく咳き込み始めた。いつか清寧宮で見せた以上の激しい咳だ。房玄齢が手を伸ばして支えようとする間にも足から力が抜けてゆく。あわやその場にくずおれそうになる。


「魏大人!」


 もはや隠れておれず飛び出す流螢。突然現れた宮女に房玄齢はぎょっとしたが、流螢は構わず魏徴の背中に掌を押し当てる。ぐっと内気を送り込むと魏徴はうぅっと一つ呻いた。てっきり流螢が魏徴を苦しめていると思い込んだ房玄齢が慌てて止めようとする。そこへ徐恵が現れ遮った。

「私は清寧宮の婕妤、徐恵。これは侍女の朱流螢と申します。房大人、ご心配なく。流螢は魏大人の経絡を整えているのです」

「徐婕妤? ではそれがあの噂の宮女か」

 魏徴は深呼吸を繰り返し、ようやく気を落ち着かせた。柱に手を突いて体を支えながら房玄齢を見上げる。


「……そうだ。房殿の言う通り、微臣やつがれは皇太子を……建成けんせい殿下をお守りできなかった。だから今度こそはと思うのだ。今度こそは、必ず皇太子を帝位につける。それを阻む一切、この魏徴が退けると」

「ではこの予言も退けるのだな? あれだけ反対していた比武召妃を、今度は意地でも続けさせるのだな?」

「そうだ。国が三代で滅びるだの、女が国政を握るだの、一言でも認めるわけにはいかぬ。そのような流言を認めてしまえば皇太子を非難するに等しい。私は断固認めるわけにはいかぬ」


 魏徴の決意が固いのを悟ったのだろう。房玄齢は無言で頷き、労わるように魏徴の肩を叩いた。

「明日の朝議は荒れる。なんにせよ、お体には気を付けられよ」

「あいにくとまだ役目があるのでな。泰山府君にもお帰り願うわい」

 そうだな、と言い残し、房玄齢は徐恵に軽く礼をしてからその場を立ち去った。


 魏徴はまたしばらく呼吸を落ち着かせていたが、ややあってから口を開いた。

「見苦しいところをお見せした。流螢にはまた助けられたな」

「魏大人、お医者には診ていただいたのですか? 前よりも悪化しているようです」

 魏徴はそれには答えず、徐恵へと視線を移す。


「妃嬪がこのようなところまで、いったい何用ですかな?」

「今日は比武召妃の予備試験が実施されているのです。魏大人はご存じないのですか?」

 魏徴は知らないと答えた。楊淑妃が言ったように、この予備試験の開催は限られた人物にしか知らされていないようだ。徐恵は試験の内容と、褚遂良から受け取った最後の問いについて話した。


「私が所有する宝ならいくつかあります。でもそのどれも正しい答えとは思えないのです。魏大人、何か思い当たることはありませんか?」

 ふむ、と魏徴は顎に手を当てて考え始めたが、すぐに頭を振る。

「私にもこれと言える答えは思いつかぬ。ただ、これが徐婕妤ご自身の宝を差しているのではないことは確か。よく考えられよ、この「なんじ」とは比武召妃の勝者、すなわち皇太子妃を示しているに違いない」


 ぽん、と徐恵は手を打った。


「なるほど! この問題文の真意は、皇太子妃となる女性が宝とすべきものは何か、を問うているのですね? 魏大人、助言に感謝します。私たちは行かなくては」

 徐恵は挨拶もそこそこに流螢の腕を掴んで歩き出す。

 魏徴は会釈してこれを見送り、二人の後ろ姿が見えなくなってから一歩歩き出そうとして、そこで一つ大きく咳き込んだ。口元に運んだ手の内に何かが飛び散る。翳してみれば黒々とした悪血がべっとりと付いているではないか。


「……医者になどかかっていられるものか」

 袖の内側で口元を拭い、魏徴はふらつく足取りで歩く。その身体は確実に病魔に侵されつつある。それを知りながら、彼は立ち止まるわけに行かなかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る