六 永字八法
徐恵の表情が固まった。確かに徐恵は書に長け、書によって婕妤の地位を得た。それがまさか、ここでその腕を国内随一の相手に見せることになろうとは。
辞退するわけにはいかない。それでは第三の問いを得られない。徐恵は文机の前に座り筆を執る。王義之と褚遂良の書をしっかと見据え、それから手元の白紙に視線を移す。筆にたっぷりと墨を含ませ息を吸う。
一気呵成に書き上げた。その筆遣いは滑らかで滞りがなく、ぶれがない。流螢に書はわからないが、その姿にはっきりと達人の発する気迫を感じた。
『永和九年在歳癸丑』
徐恵が筆を置き、ふぅと息を吐く。流螢はその文字を見て心中喝采を上げる。徐恵が記した八字も褚遂良のものに負けず劣らず王義之の真筆に迫っている。これもやはり素人目には区別がつかない。
(さすがは徐恵! 師父は昔、書の道は剣の道にも通じると仰っていた。神経を研ぎ澄ませ、没入して道具を揮う。それは剣の用法と違いはないと。武芸の上達が早くて当然ね。こんなにすごい字を書けるのだもの!)
期待いっぱいで顔を上げる。だが、徐恵の表情は芳しくなかった。自身の書いた八字を見下ろし、口惜しそうに唇を噛んでいる。褚遂良を見れば、こちらも感嘆するどころか失望とも取れる面持ちで頭を振っている。
「すでにご自身の中で決着がついているようですな?」
「はい。私の書は取るに足らぬ駄作、褚大人にお見せする域にはございません」
言うなり、徐恵は今しがた書いたばかりの書を破り捨ててしまった。流螢は驚きのあまり目を見開いて叫んだ。
「そんな、なんてこと! 今のがどうして駄目なの? とても良く書けていたのに!」
徐恵は答えない。代わりに褚遂良が答えた。
「蘭亭序は春の良き日、気心の知れた仲間たちと曲水の宴を開いた際に書いたもの。その心の内は喜びに満ちており、それは書体にも現れている。王先輩自身でさえこの草稿に勝る一筆は二度と書けなかったほど。しかしながら徐婕妤の字はまるで正反対、鬱々として楽しまず、苦渋に溢れた書であった。私は書に関しては世辞を言わぬ。あれは宜しくない」
「褚大人の仰る通りです。見苦しい物をお見せしました」
徐恵の声はわずかに震えていた。それは書の大家に己が駄作を見られたためか、それともその心の内を見透かされたためか。いずれにせよ悔しさが見て取れる。
鬱々として苦渋に満ちている――流螢はあの『玉階怨』の一節を思い出していた。徐恵の心の内にはいつだって皇帝がいる。流螢は皇帝がどのような人物なのか知らない。徐恵にしてみれば父と子ほども歳は離れているはずだが、それでも徐恵がこれほどまでに恋焦がれるとはそれだけ魅力ある人物なのだろう。そんな相手に振り向いてもらえない、その苦悩を徐恵はいつでも胸に抱いているのだ。
(流螢よ流螢、このぼんくらめ。徐恵には散々助けられてきたというのに、どうしてその心がわからないの? 書の何がわからずとも、従者が主人の気持ちを察してやれずになんとする?)
流螢がふつふつと慙愧の念を覚え始めた矢先、褚遂良は次に流螢に視線を向けた。
「では宮女殿、そなたも筆を執るが良い。そなたも比武召妃の参加者、私を感嘆せしめれば第三の問いを差し上げよう」
これは予想外の展開だ。流螢は飛び上がって驚き、ぶんぶんと千切れんばかりに首を振った。
「む、無理です! 私は筆を手にしたこともなければ、文字も読めません」
「それはもう聞いた。なに、筆を扱うなど造作もないこと。徐婕妤、あなたが教えて差し上げなさい」
褚遂良が勧めれば、徐恵もうなずいて流螢の背中を押す。
「流螢、腹を括って。第三の問いを得られるかどうかはあなたにかかっている」
徐恵に無理やり文机の前に座らされる。おどおどする流螢の手に徐恵が筆を持たせた。
「手の形は、こう。真っ直ぐに立てて、決して傾けない。手首を使ってはダメ。腕と肩、体全体で書くの。とくに注意すべきは最初の『永』の字よ。この一字には書法のすべて――
簡単も何も、流螢はこれが人生初の書なのである。簡単と言われて簡単に済むはずがない。白紙に向かい合ったは良いが、何をどうすればいいのかさっぱりわからない。どの順番で書くのか、どの位置に書けばよいのか、筆はどの程度紙に付ければ良いのか、筆はどのように運べばよいのか。何一つわからない。
(流螢よ流螢、落ち着くのよ。どのみちこの難関を乗り越えなければ最後の問いは得られない。できなくて元々、やれるだけのことをやるしかない)
何回か深呼吸を繰り返す。書と剣とは通じる。ならばここも調息の呼吸で落ち着ける。雑念を払い、心身を合一し、筆と我が身を一体とする。
(褚大人は仰った。これは喜びの書なのだと。どれだけ徐恵が上手く書いたところで込められた感情が不適だとされるのなら、とびきり嬉しい事柄を思い浮かべて書くしかない。書の才能なんかない私にできるとすれば、それぐらいしかない)
瞼を閉じ、記憶を探る。果たしてこれまでの人生、流螢にとってもっとも喜ぶべき瞬間はいつだったか。
両親との生活に喜ばしい記憶などない。針職人として働いていたころだって嬉しいことなどなにもなかった。ただひたすらに毎日を生きるだけだった。
一方、今が不幸の渦中かと問えば、それは否だ。徐恵は良くしてくれるし、楊怡も頼れる先輩だ。加えて先の清寧宮での出来事だ。皇太子はなんと流螢に贈り物をしてくれた。流螢を気に入ったのだと言ってくれた。これに勝る喜びがあろうか? 今この瞬間こそが人生で最高の瞬間だ。
――そうだ、今この瞬間こそがもっとも喜ばしい瞬間なのだ。
流螢は突如立ち上がり、左手で紙を掴むや真上へと投げ上げた。さらには右手の筆は匕首でも握るかのように順手に持ち替え、その先端をざっと硯に通す。墨が尾を引いて飛ぶ。
それは書ではなく、剣であった。一筆一筆が鋭く走り、瞬く間に『永』の一字を書き上げる。突き、払い、斬り下ろす。まるで紙を斬り裂かんばかりの勢いで墨が伸びる。
「流螢、あなた何を!」
愕然とする徐恵の声で流螢は自身の失態に気づいた。あ、と間抜けな声を漏らしてももう遅い。感情のあまりに筆を揮いすぎてしまった。ひらひらと床に舞い落ちた紙上にあるのは王義之の書などまるで無視した一文字であり、そして残る七字を書く余白など残らぬほどに大胆な墨の跡であった。
これは失敗だ――そう思った矢先、褚遂良がううむと呻く。
「粗雑、乱雑、繊細さの欠片も見えぬ。だが――それ以上に、雄渾壮大で気迫に満ちている! そしてなにより、これまで見たどの書法とも明らかに違う。これは確かに『永』の一字であるのに、すでに一線を画した境地にある! おお、そうか! 他の誰でもない、己の書体――それこそが我が進むべき道、我が書道の果てか!」
震える手で流螢の書を取り上げる褚遂良。流螢自身には何がなんだかわからない。あんな落書きのどこに、あんなにも驚く要素があったのだろう?
褚遂良は生涯の宝でも見つけたように流螢の書を懐に収め、代わりに筆を一本取り出した。それを流螢に差し出す。
「正直なところ、貴殿を侮りすぎていた。まさか我が書に足りぬところを文字も知らぬ宮女に教えられるとは。天の配材とは恐るべきものよ。さあ、これを受け取りなさい」
なんだかとんでもない誤解を招いている気がしたが、流螢は言われるままその筆を受け取った。褚遂良はぶつぶつと「我が書法、我が書法」と呟きながら蔵書房を出て行った。
彼がやがて「褚法」と称される独自の書法を編み出すのは、また少し先の事である。
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