五 真筆の在り処
徐恵は言うなり流螢の腕を掴んで走り出す。流螢にはやや劣るものの、徐恵の軽功もなかなかのものだ。風を切って駆け抜け、すれ違う宦官は腰を抜かしてひっくり返り、宮女はめくれ上がる
「永和九年、歳は癸丑に在り。私はその言葉の意味ばかりを考えていた。でもそうじゃない。これは書かれた文字そのものに意味がある。ああ、なんてこと! 私も幼少から書の道は極めてきたはずなのに、流螢が言うまで気が付かなかっただなんて!」
「わ、私がなにか言った?」
「言ったわよ! この八文字を見て、とても綺麗な文字だと言った。そうよ、これはとても素晴らしい文字なのよ! 書の真髄が込められているから!」
徐恵は一人で随分と興奮しているが、流螢は何を言われているのか皆目見当もつかない。腕を引かれるまま徐恵の行くに従い、やがて一つの楼閣の前にたどり着く。流螢は周囲を見渡してぎょっとした。
「ねえ、もしかしてここは」
「そうよ。ここは蔵書房、あらゆる書物が収められた場所。本当は陛下の許しがなければ入れないのだけど、問題ないわ」
問題ない? 何が問題ないのだ? 徐恵は大股で正面扉へ向かって歩いて行く。そこには見張りのように宦官が一人立っていた。先の承慶宮とは違い、徐恵には身を隠すつもりがまったくないように見えた。とうとう見張りの宦官が顔を上げて二人を見た。
「ああ、徐婕妤。ご機嫌麗しく」
「どうも。中を見させてもらうわね」
なんと宦官はさっと道を開け、徐恵と流螢を咎めることなく中へと入れた。
「私がなぜ婕妤の位に収まったか、知っている?」
だしぬけに徐恵が問うのに対し、流螢は頭を振る。気にはなっていたのだ。守宮砂を未だ残しているにもかかわらず、どうして徐恵が正三品の婕妤に封じられたのか。
「私は昔から書をしたためるのが得意でね。ある日陛下の目に私の書が留まって、それで婕妤の位を頂いて、一緒にこの蔵書房への自由な立ち入りを許されたの。陛下もまた書には並々ならぬ関心をお持ちだから」
なるほど、それであの宦官は徐恵を見るなり道を開けたのか。
蔵書房の中は見上げんばかりの書架がずらりと並び、それぞれにぎっしりと竹簡が詰め込まれている。徐恵は勝手知ったように棚を数えながらどんどん奥へと進んでいく。
「永和九年、歳は癸丑に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す――。陛下はとくに
「では第二の問いの答えというのは」
「この蔵書房に収められた真筆、それが答えに違いない――ここよ!」
扉付きの書架、その中央やや下段に手を伸ばす。扉の留め金を外して開き、しかし徐恵はあっと叫んだ。
「そんな、確かにここにあったのに!」
扉の中は、なんと空だったのである。
「あれは陛下のお気に入り、必ずこのどこかにあるはずよ。探して!」
徐恵に言われるまま、とにかく手当たりしだいに探した。流螢は「蘭亭序」の三文字だけを頭に入れ、同じ形の字はないかと探し回る。だが探せども探せども見つからない。
もう見つからないのでは――諦めかけながら書架を回り込んだ先、人影を見てぎょっとした。入ってくるときには気づかなかったが、小柄な老宦官が一人、文机を出して筆を走らせている。流螢の気配に気づいてわずかに顔を上げたが、とくに何を言うでもなくまた手元に視線を落とす。そっと近づいて見てみれば、何やら古めかしい書を傍らにそれを
『永和九年、歳は癸丑に在り』
冒頭のその八文字はすでに目に焼き付いている。チラリと見えただけで確信した。
「
「いかにもこれは王先輩の蘭亭序。陛下の命により
その声は老人にしては明瞭として聞き取りやすい。
「それをほんの少し見せていただけませんか?」
「あいにくと今日中に献上せよとのお言葉、完成するまでは手放せぬ。ほんの少しだけでも筆を離せば、この手に宿ろうとしている王先輩の魂はたちどころに雲散霧消する」
流螢には書の真髄などわからないが、要は降霊術の類を言っているのだろうと理解した。
「では、書き写し終わってからでも構いません。いつ頃終わりそうですか?」
「おそらく、夕刻には」
てっきりすぐに終わるものと思ったのに、夕方ではもう遅い。第三の問いの答えを日没前に提出しなければならないのに、第二の問いの答えがその直前にしか渡らないとは。
書き写し終わってからで良いと言ってしまった手前、やはり今すぐ借りたいとは言い出しにくい。あるいは力尽くか? この老公公、力があるようには見えない。流螢一人でも簡単に捻じ伏せられよう。
「流螢、どうしたの? 見つかった?」
背後から徐恵が歩み寄る。すっかり肩を落としてため息混じりだ。流螢は文机の老公公を指差した。
「見つけたは見つけたのだけれど、こちらの公公が夕方まで使うのだと仰って」
「臨書しているの? 王先輩の傑作を書き写すだなんて、そうそうできることじゃ……」
そこまで言って、徐恵はぽかんと口を開けて立ち尽くした。その目はじっと公公の手元の蘭亭序と、公公自身が書いた文字とを凝視している。流螢が何事かと小突くと、はっと我に返って例の問題文を取り出す。公公の文字と見比べること三度、最後に公公の顔を覗き込むや、ついにアッと声を発した。
「婕妤徐恵、
がばりとその場にひれ伏す徐恵。流螢は突然のことに瞠目しつつ、徐恵に倣ってひれ伏した。公公がホホホと笑う。
「このまま気づかれぬままかと案じましたぞ。徐婕妤、立ちなされ」
公公は筆をおいて手招く。徐恵は礼を述べて顔を上げ、公公と向き合った。
「まさか褚大人がいらっしゃるとは思いもせず、とんだご無礼をいたしました」
「無礼なことなど何もない。そちらは例の侍女ですな? こちらが宦官の
老宦官の視線が流螢へ。流螢は頭を垂れて直視を避けた。
「朱流螢と申します。……あの、こちらの公公は?」
後半は徐恵へ向けて言ったのである。すると徐恵は珍しく血相を変えて流螢と老宦官を向き合わせる。
「この方は公公じゃないわ。褚大人、
朝廷内における各派閥の勢力関係については徐恵からいくらか話を聞いている。褚遂良、と流螢は呟いてしばし。ようやく思い出した。魏徴と同じく諫議大夫の職にある重臣で、皇太子派と聞く。知らなかったとはいえ、宮女風情が気軽に話しかけて良い相手ではない。
「大変失礼しました! てっきり公公かと……」
「元よりこちらも騙すつもりでここに控えておりましたのでな。さて徐婕妤、第二の問いは解けましたかな?」
褚遂良が徐恵に向き直って問いかけると、徐恵は問題文の紙を広げて見せた。
「この問題文、とても良い字で記されています。ここへ足を踏み入れるまでは蘭亭序の真筆こそが問いの答えだと信じていました。しかし今、褚大人の臨書を目にして悟りました。この問題文を書かれたのは褚大人ですね? この素晴らしい文字を書かれた褚大人こそが第二の問いの答え」
徐恵が文机の真筆と、褚遂良が書き写した文との間に問題文の紙を置く。書に対する眼力を有していれば些細な違いにも気づくのだろうが、流螢の目にはまったく同一に見えた。流螢はこのとき知る由もなかったが、褚遂良はかつて皇帝の書道指南役も努めていた名書家だったのだ。
褚遂良は温和な表情で頷き、「好い、好い」と繰り返した。
「この問題文を手にしたのが徐婕妤であったのは、この褚にとっても僥倖であったか」
「実のところ、私は浅学にしてこの問題文の筆者が何者であるかまったく理解していなかったのです。流螢がその巧みな筆捌きを指摘しなければ今もまだ迷っていたでしょう」
ほほぅ、と褚遂良は流螢をチラリと横目で見る。
「この侍女はなかなか侮れぬ逸材でありましたかな」
「そんな、滅相もない!」
ぶんぶんと首が千切れそうなほど頭を振る流螢。褚遂良は文机の前から立ち上がり、その席を開けた。
「確かに私こそが第二の問いの答え。さて――徐婕妤も書を能くすると陛下から聞いておりまする。よければ
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