四 ささやかな贈り物

 石婕妤をはじめ、その場に居合わせた宮女たちは揃って口を開いたまま立ち尽くした。偶然近くを通りすがった他の妃嬪らも何事かと歩み寄り、そして同じくあんぐり口を開ける。そうこうしている内に池のほとりには妃嬪に宮女たち、総勢数十人の女たちが集まっていた。


 流螢が房遺愛の初撃を受け流すや、房遺愛は間髪入れずに左掌で追撃を仕掛けた。流螢はこれを受けずに後退、すると房遺愛はさらに攻め込む。流螢は間合いを詰めようとする房遺愛に立て続けの三連掌打を送り込み、上方に注意を引き付けたのちに蹴りを放つ。視界の外から襲い来る蹴撃をしかし、房遺愛は一瞥もせずに踏みつけによって叩き落とした。

 攻防を続けた二人は地を蹴って飛び上がり、その体は水面を走る。軽功を以て水面に浮かぶ木の葉を足がかりにしているのだ。立ち止まることはできず、両者はぐるぐると螺旋を描いて水面を走り、上体では変わらず激しい攻防を繰り広げた。足を上げれば水しぶきが飛び、交わす腕は目で追えぬ。女たちは顔面に水しぶきを浴びながらも二人の手合わせを見つめていた。


(さすがは武芸を生業とする方だけのことはある! こちらの陽動、本命の攻撃、そのすべてを的確に見通している)

 流螢は内心で舌を巻く一方、高揚もまた感じていた。

(徐恵は覚えが早いけれど歳月を経た力量というものがまだ足りない。だけれどこの房さまは長い年月に裏打ちされた確固たる実力をお持ちだ。しかもまだ余力を残している)


 手合わせを続ける中で流螢は気づいていた。房遺愛はまだ本気を出していない。自身が有する真の武芸を隠すように、使う技はいずれも単純な基礎技ばかり。なんら流派の特徴も見えてこない。

 だからこそ、流螢は退きどころを見極められないでいた。あともう少し、あともう少しだけ攻め込めば真の武功が見えてくる。その武功に対して果たして自分は通用するのか試してみたい――そのような欲求がふつふつと湧き上がって止まらない。


(流螢よ流螢、これほどまでに武芸を楽しいと思うことが今までにあって? 思う存分に実力を出し切って招法を繰り出す、その喜びを感じたことがあって?)


 あろうはずもない。師父は型を教えるばかりで直接組打ちの相手はしなかったし、徐恵との練習も示し合わせた技のやり取りしかやったことがない。唯一の例外があの承慶殿で交戦した薄桃衣装の女だが、あれは気が動転したのとはじめての実戦だったのとで十全の力を発揮したとは言えない。

 ゆえに、この房遺愛との手合わせは流螢にとってはじめて出す全力。内力は全身を駆け巡り視界は鮮明、いまだかつてない絶好調だ。


 掌打の余波が水面を激しく弾けさせ、その場に小雨を降らせた。房遺愛はさっと右腕を払って降り注ぐ雫を払い除けるや、ぴしりと左の剣訣を流螢の喉元へ伸ばす。その指先から内力が迸る。流螢は身体をひねってその軌道から逃れた。直後、背後の樹木がピシリと鳴って震えた。ひらひらと緑葉が舞い落ちる。

 旋回する二人の身体は再び大地へ舞い戻り、さらに数合を交わす。流螢はますます気血満盈、立て続けに掌打を繰り出す。房遺愛が回避すれば、その背後の地面はことごとく穿たれた。


「流螢、このおバカ!」


 流螢の視界にはもはや房遺愛しかなく、背後にはまったく意識が向いていなかった。それが幸か不幸か、流螢はぽかりと後頭部を叩かれその場でたたらを踏んだ。殴りつけてきたのは徐恵だ。

「加減を知りなさい! これ以上続けては庭が廃墟も同然になってしまう!」

 言われてようやく、手合わせに白熱するあまり過集中状態だった意識が他に向いた。いつのまにやら観客は数十名に増え、誰もが呆然として、また一部はおののくようにして流螢を見ている。


 徐恵は続けて房遺愛も睨みつけた。

「房さまもです! 宮女相手に戯れが過ぎます」

 もはや戯れと呼ぶには暴れすぎだが、野暮な口を挟む勇気は流螢になかった。睨まれた側の房遺愛は構えを解いて頭を垂れる。

「これは失敬。侍女殿の腕前があまりにも良かったので、つい興に乗ってしまった。だがこれでよくわかった。比武召妃はこれでずっとおもしろくなる」

 房遺愛はそう告げるや、さっと身を翻してその場をあとにしてしまった。その足取りは軽く、女たちは誰一人としてその後に続かなかった。我に返ったときにはもうその後ろ姿は見えない。


「まったく。やれと言ったのは私だけれど、ここまで本気になるとは思ってもいなかった」

 徐恵に引っ張られ、流螢もその場を離れる。振り向けばまだ集まった女たちはこちらを見ていた。流螢はようやく、自分が余計なことをしてしまったのだと自覚した。

「房さまも意地が悪い。きっと一目で流螢がただならぬ武功の持ち主だと見抜いたのね。比武召妃とは言え参加するのはか弱い女たち、誰もが武芸の程など高が知れていると思い込んでいた。でもあの手合わせを見て誰もが焦ったはずよ。本気で取り組まなければ宮女にすら勝てない、と」


 つまりは比武召妃を盛り上げるため、流螢は道化を踊らされたということだ。


「あれだけ目立ってしまったからには、これから参加者の誰もがあなたを意識するでしょう。たかが宮女とは見下さなくなっても、今度は最大の競争相手と見るでしょう」

 ごめん、と流螢は謝ったが、徐恵むしろにこりと微笑んだ。

「私としては、皆が流螢に一目置くようになってうれしい限りよ」


 そうこうしているうちに二人は清寧宮に帰り着いた。流螢が先に進んで扉を開けようとしたところ、徐恵はそれをさえぎった。

「待って、誰か来ているみたい」

 そう言って流螢ともども壁際に隠れた。何事かと問いかけようとする流螢を制し、壁伝いに窓枠の側まで移動する。


「あ、あのあのあの、つまらない腕前ですが、よろしければその、お茶をどうぞ」

 楊怡の声だ。お喋り好きな彼女にしては珍しく舌が回っていない。

「どうぞお構いなく。婕妤はいつ頃お戻りでしょうか?」

「今日は比武召妃の予備試験が実施されているそうですから、戻りがいつになるかは……」


 話している相手は男の声だ。聞き覚えのある声だ。しばし首を傾げた流螢だったが、すぐに思い出した。

「あれは称心しょうしんさまよ。皇太子殿下の側近の。でもどうして清寧宮に?」

「名目としては私を待っているみたいね?」

 にやっと笑んで徐恵。どうやらしばらく身を潜めて成り行きを見守るつもりらしい。


 茶器の触れ合う音。続いて称心の感心したような息が。

「これは良い。何か特別な茶葉を使っておられるので?」

会稽かいけいで採れた茶葉を。……あの、お気に召しませんでしたか?」

 とんでもない、と称心。

「日ごろは殿下と酒ばかりを酌み交わしているゆえ、茶の味にはまるきり関心がなかったのですが。まさかこれほどの旨味があるものとははじめて知った次第です。しかし会稽とは随分と遠方から取り寄せたものではありませんか。そのような貴重な茶葉を勝手に私などに出しても良かったので?」

「それは、その、称心さまは大事なお客さまですので。しっかりおもてなししなければ婕妤に叱られてしまいます」


 流螢の隣で、ふふんと徐恵が鼻を鳴らす。

「正直に言ってしまえばいいのに。あなたを慕っているからです、って!」


 何度か茶器の触れ合う音が続き、その都度称心の頷きが聞こえる。一口一口をじっくり味わっているようだ。流螢と徐恵はそっと窓から中を覗き込む。称心は玉卓の前に腰かけ、楊怡はその斜め後ろに侍るようにして立っている。その頬はほんのりと紅潮しており、身体はじれったそうにモジモジとしていた。普段の楊怡には絶対にあり得ない光景だ。

 称心が茶器を置く。

「楊怡殿は茶の道に精通しておられる。せっかくなのでこちらを楊怡殿に差し上げたい。手持ちの品で申し訳ないが」

 称心は懐から取り出した小さな円形の包みを楊怡に差し出した。楊怡はびっくりして、少し震える手でそれを受け取った。包みを鼻に近づけ匂いを嗅ぐ。あれは餅茶へいちゃ、茶葉を固めた物である。

「これは、瓜廬かろ茶では?」

「ご明察! 取るに足らない品ですが、楊怡殿なら極上の味に仕上げられるはず。できればまたの機会にそれを淹れてはくれませぬか」


 徐恵が隠れたままま口元を押さえ、声にならない叫びをあげた。

「あれは楊怡にまた会いたいと、そう暗に仰っているのよ! なんてこと! 流螢に続いて楊怡までもが恋路を謳歌しているなんて!」

 明らかにこの状況を楽しんでいる。流螢は無言のまま、真っ赤に上気した楊怡を見てなぜだか一緒に顔を熱くさせていた。


「も、もちろんです! 瓜廬は歴史ある茶葉です。称心さまのお声掛けとあれば、いつだって参上いたします! たとえ火の中水の中!」

 称心は思わず苦笑を漏らす。

「そこまで無理はなさらずとも結構。それで、茶葉の代わりと言っては何ですが、一つお願いがあるのです。実は此度の用件は殿下からこちらを清寧宮へ届けるようにと預かってきたのですが……」


 その右手が脇に置いていた包みを卓上に持ち上げた。開いてみれば中身は衣が一着。楊怡が手に取って広げてみると、それはまるで燃えるかのような深紅のスカートである。しかも布地に細工が施されているらしく、光の加減で艶やかな黒色、あるいは翡翠色に変化している。鳥の羽毛を編み込んでいるのだ。

「良い生地が手に入ったので、東宮の宮女に命じて作らせたのです。この色合いは朱姓の流螢殿にはぴったりだろうと。ただ殿下から他宮の侍女へ直接物を送るのは体裁が悪い。それで楊怡殿への頼みというのは――」

「徐婕妤に、これを流螢に下すよう口添えすれば良いのですね?」

 楊怡の言葉に称心はにっこりと笑んだ。

「いかにもその通り。徐婕妤にはもう一着、月青げっせいの長裙を用意しておりますので」

 その笑みの破壊力たるや、楊怡は陶然として魂を泰山の彼方へと飛翔させてしまった。


 あらあらまあまあ、と呟きながら、徐恵はゴツと肘で流螢を突いた。その意図は明白だ。

(皇太子が、侍女の私に贈り物を? 流螢よ流螢、そんなことが現実にあり得るの? そんなことが、まさか!)


 もはや我慢ならず、流螢はさっと身を翻すなり清寧宮を飛び出した。すぐにその後を徐恵が追ってきてがっしりと肩を捕まえる。振り向けば悪戯なニヤニヤ顔がすぐ近くに。

「皇太子から直々に贈り物だなんて、随分と応援されているじゃないの。これはいよいよ頑張らないとねぇ?」


 ――楽しんでいる。

 ぜぇーったいに、徐恵はこの状況を楽しんでいる!


 流螢はごしごしと頬を肩に擦りつけた。

「そういうのはいいから! 徐恵、あの問題文を見せて。今はあれを解くことを考えなければ」

「そうね、頑張らないとね!」

 もう徐恵の煽りに反応するのはやめた。流螢は徐恵の手から問題文をひったくり、目の前に広げる。とはいえ流螢は文字が読めない。それでも何か手掛かりを見出せないかと観察する。


『永和九年、歳は癸丑に在り』

「――綺麗な文字だわ」


 結局、そんな阿呆のような感想しか出てこなかったが。流螢自身、口にしてからその発言のあまりのバカらしさ加減に頽れてしまう。がっくりと四つん這いになって頭を抱える始末だ。

「無理よぉ! 殿下にどれだけ期待されたって、私みたいなおバカにこんな難しい謎かけが解けるわけがない!」


 ああ、きっと徐恵はこの無様な姿を見て大笑いしているのだろう。そんな拗ねた気持ちで顔を上げたところ、予想外の光景がそこにあった。徐恵は呆然とした様子で流螢を見下ろし、空中に指先で何やら書いている。

「永和九年、歳は癸丑に在り……会稽の茶葉に、優れた楷書かいしょ。ああ、そうか。そういうことだったのね!」

 興奮のあまりにぶんぶん腕を振り回す徐恵。流螢もこれは何事かと立ち上がり徐恵の肩を抱く。


「どうしたの? 何か思いついたの?」

「思いついたも何も、はっきりわかったのよ! 流螢と楊怡、二人のお手柄よ!」

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