三 麗しの武人

 池のほとりで芝生に寝転がり、徐恵はううんと呻いた。

「永和九年の癸丑……その年に何か特別なことがあった? それとももっと昔のこと?」

 先ほどからずっとこんな有様だ。学のない流螢に至っては書かれた文字すら読めず、まったくの役立たずである。


「何か飲むものか、点心おかしでも持って来ようか? 美味しいものを食べたら何か閃くかも」

「そうね……ううん、私も行く。ここにいたって仕方ないし、まずは清寧宮に戻りましょう。飲むなら楊怡の淹れたお茶がいい」


 そんなわけで二人は腰を上げ、清寧宮へと歩き出した。途中、キョロキョロと周囲を見渡す妃嬪の姿を何度か見かける。彼女らも謎を解こうと躍起になっているのだろう。

「みんな一人でいるわ。知恵を出し合って協力しようというのは、私たちだけみたい」

「私は学がないから徐恵がいなければ問題文すら読めなかった。協力どころか足手まといでは?」


 自嘲気味に流螢が応えると、徐恵はぷくりと頬を膨らませる。

「自分を卑下するなんて良くない。流螢がいなければ鳴子の罠に気づかなかったし、第二の問題文を手に入れることもなかった。流螢はもっと自信を持っていい。比武召妃の参加者である以上、侍女の身分だとか考えなくていいの。皇太子妃になるならちょっと自信過剰なぐらいがちょうどいい」

 そんなものだろうかと流螢は思ったが、考えてみると岳修儀や楊淑妃の立ち居振る舞いには確かに自信が満ち溢れている。だからこそ妃嬪は輝いて見えるのかもしれない。


 池にかけられた橋を渡ったころ、植木のそばに小さな人だかりが見えた。侍女たちが誰かをぐるりと取り囲み、やいのやいのと黄色い声で騒いでる。

「仰ってくださいな。房さまはどちらの宮にお仕えするご予定で?」

「私、菓子を作るのが得意です。お好きなものを何なりと仰ってください。いつでもお作り致しますから」

「まあ、あなたったら抜け駆けするつもり?」

「選ぶのは房さまよ。黙っていなさい」

「ちょっとあなたたち! 何を騒いでいるの!」


 立ち止まって様子を見ていた流螢らの左手から、妃嬪が一人現れた。三人の侍女を引き連れた彼女は比武召妃参加者の一人、石婕妤だ。それまで鳥がさえずるかのごとく騒いでいた宮女たちは一斉に口を噤んで頭を垂れた。すると彼女らに囲まれていた人物の姿もよく見えるようになる。石婕妤はあっと声を上げて表情を和らげた。

「これはこれは、房さまではありませんか。殿方がどうしてこのような場所へ?」


 流螢も徐恵の肩越しにその姿を見、そしてぽかんと口を開けてしまった。


 男だ。後宮の庭に男性がいるという事実にはこの際触れないでおく。流螢が呆然としたのは、その容貌があまりにも美しかったためだ。しっとりとして光沢のある長髪に冠を乗せるのはあまりにも無粋に見え、長い睫毛には霧が雫を作るよう。高い鼻に薄い唇、雪を偽る肌。細身の体はすらりとして柳腰。石婕妤が殿方と言わなければ女性と取り違えただろう。


「あれはぼう遺愛いあいさま。名門房家の次男ね。本当にどうしてあの方が後宮にいらっしゃるのかしら?」

 徐恵が察したように教えてくれる。先ほどの蘭陵王の話の中で称心とともに並べられた房遺愛とは彼のことだったか。なるほど見惚れるような美丈夫だ。


 房遺愛は石婕妤に拱手きょうしゅして頭を下げる。さらりと前髪が流れた。

「……妃嬪の方々にはお騒がせして申し訳なく。所用があり参上した次第で」

 ふっ、と取り巻いていた宮女の一人が姿を消した。その美声を耳にした瞬間気を失ってしまったのだ。他にも数名、くらくらと足元がおぼつかなくなっている者もいる。


(なんという魔性だろう。この世に女性をも凌駕する美しさの男性がいるだなんて)

 流螢が舌を巻く一方、石婕妤は宮女のように動じる姿も見せず首を傾げる。

「所用とはどのような? もしや、いずれかの宮にお仕えするつもりなのでは? 房さまは武芸の使い手、比武召妃の武術指南役に招かれたのでしょう?」

 ちらりと石婕妤が視線を横向けると、見据えられた宮女は慌てて舌を絡ませながら答えた。

「申し上げます。房さまは先ほど、晨夕宮しんせききゅうからいらっしゃいました」


 晨夕宮は殷徳妃の居住する宮殿である。石婕妤はぎくりとして身じろぎしたように見えた。思いがけず殷徳妃の私事に踏み入るとは考えてもいなかったようだ。


 房遺愛は小さく頭を振って答えた。

「確かに先ほど、徳妃さまをお訪ねした。ですがその用件まで申し上げるわけにはいきません」

「ではせめて、いずれの宮に指南されるおつもりか伺っても?」

 石婕妤は腹をくくったのか、そこだけは踏み込んだ。しかしこれにも房遺愛は頭を振る。

「武芸は秘匿するもの。私がどなたに指南しているか、そもそも指南しているのか明かすことは、対策を講じられる可能性を生じる。ご理解のほどを」

 相手は徳妃の客人だ。石婕妤もそれ以上無理には問い詰められない。


「いいでしょう。どのみち妃嬪が武芸を学んだところで房さまほどの腕前になれるわけでもなし、素人に毛が生えた程度に変わりはないのですから」

「さて、それはどうかと」


 房遺愛は言葉を濁し、そして不意に視線を上げた。その先には徐恵と流螢が立っている。その視線を追って石婕妤もようやく二人に気づいたようだ。挨拶しようと口を開きかけたとき、被せるように房遺愛が発した。


「もしやそちらが噂の宮女、朱流螢では?」


 石婕妤のみならず、宮女たちも一斉にざわめいた。だが一番驚いたのは流螢だ。なぜ一度も会ったことのないこの美丈夫は流螢の名を知っているのだろう?

「皇太子たっての希望で特別に比武召妃参加を許された宮女、朱流螢。その噂は外宮にも届いている。よもやこのような場所で巡り合えるとは」

 房遺愛はすでに石婕妤や宮女たちには目もくれず、すたすたとこちらへ近づいてくる。流螢はどうすればよいのやらわからずあたふたするところ、徐恵は至って落ち着いて膝を曲げて挨拶した。


「房さま、いかにもこちらが私の近侍にして比武召妃参加者の一人、朱流螢にございます」

 やはり、と頷く房遺愛。その煌めく瞳が流螢を捉える。星空のような、吸い込まれそうなほどに美しい瞳。


 ――ゾッ、として流螢は顔を伏せた。


(今のはなに? 今までに会ったどの男性とも違う、この底冷えするような恐怖感は?)

 全身に冷水を浴びせられたかのような感覚。顔を伏せたまま流螢は腰を折る。自身の身分が宮女であることを幸いに思った。相手の目を見ない大義名分が立つ。


「顔を見せてはもらえないだろうか。皇太子がそこまで推挙する宮女とやら、この房も関心が湧く」

 こんなことを言われない限りは。


 流螢は頭をひねって徐恵を見上げ判断を仰ぐ。徐恵の返答は上げよだ。流螢は仕方なく息を深く吸い込み、心構え十分に顔を上げた。


 天地の妙としか言いようのない美貌がそれを真正面から迎えた。流螢はあわや迸らせそうになった悲鳴を飲み込んだ。この男、距離感がおかしいのではないか。宮女の顔など見下ろせばよいものを、なぜ腰をかがめて鼻先数寸で見据えるのか。

 侍女らが妬みもあらわにこちらを睨んでいたが、気にしている余裕はない。流螢は肩に頬を擦りつけそうになるのを堪えながら房遺愛が見飽きるのを待つ。その房遺愛はというと、じっくりと毛穴まで覗いているのかと思わんばかりに流螢の顔を観察し、それからようやく腰を伸ばした。


「特別容貌に秀でているわけではないようだが、人の好みとはわからぬもの。皇太子はこのような女人がお好みだったか」

 暗に釣り合わないと言われているようだが、事実なので何も返すことはない。早いところ解放してくれないだろうかとそわそわし始めたところ、房遺愛はさらに思わぬ事を言い出した。


「徐婕妤さえよければ、私にひとつ、朱流螢と手合わせをさせてはくれまいか。比武召妃に推されるほどともなれば武芸もいくらかできるのでしょう?」

 これには先ほどまで以上のどよめきが走った。石婕妤が慌てて口を挟む。

「ご冗談を! 房さまは武を生業とする武官でいらっしゃいます。たかが宮女の腕試しをされるなど」


 ところがこれが逆効果だった。徐恵はたちまち表情を厳しくし、一歩出て石婕妤に詰め寄った。

「流螢の武芸がつたないものであると、そう仰りたいの?」

「違うとでも? 房さまは右衛将軍であるのだから、女と比べることから無礼に当たる」

「もちろん、違う! 房さま、どうぞ!」


 徐恵の頑固ぶりここに極まれり。流螢はとうとう声に出して「ひぇっ」と言ってしまった。見れば、房遺愛はすでに足を半歩引いている。

「ま、待ってください! 私にはとても!」

「戦場の敵は待ってはくれません。さあ、いざ!」

 房遺愛の右手が拳を作って繰り出される。流螢はもはや他に打つ手なしと悟った。


 さっ、と長い袖が宙を舞う。

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