二章 知恵比べ
一 内功と外功
まさか――気が付けば流螢は大声で叫んでしまっていた。周囲の視線が一斉に流螢を捉える。好奇、羨望、嫉妬、敵意。さまざまな感情が波となって押し寄せた。
うっかり注目を集めてしまった流螢は次にどうすべきかさっぱりわからない。そうこうしているうちに壇上で王太監がじろりと睨んだ。
「朱流螢だな? 急ぎ壇上へ上がり、玉璧を
「いや、その、私は――」
「異議あり! 王太監、比武召妃に宮官の出場は許されていないはず。なぜ宮女ごときの名前が出場者名簿にあるのですか」
しどろもどろな流螢を遮って発言したのは、すでに檀上にいる妃嬪の一人だ。確か正六品の
「宮女と競わせるなど、それは私たちに対する侮辱にはなりませんか?」
「控えよ! 私が読み上げた出場者一覧は陛下の
王太監の強い言葉に安宝林はびくりと肩を震わせて口を噤んだ。皇帝陛下の定めたことと言われては逆らえない。それは流螢とて同じだ。妃嬪らの視線を一身に受けながら前に進み、壇上へ。まるで妃嬪たちを見下ろしているかのような視線の高さに思わず腰を曲げてしまう。ごしごしと肩に擦りつけた右頬が痛い。
「あ、あの、念のためにお尋ねしたいのですが」
玉璧を差し出す太監を前に、流螢は横目で王太監に話しかけた。王太監は皇帝がもっとも重用する宦官だ。これまで侍女ごときに直接話しかけられたことなどなかったはずだ。またぎろりと睨みつけられ、流螢はヒッと息を呑みつつ視線を逸らして問いかけた。
「私は宮女であるばかりか、出場の意思を尚宮局へ申告してもいません。それなのになぜ、私の名前が出場者一覧にあるのでしょう?」
「それを私が知るとでも? それともまさか、不服なのか?」
「不服だなんて、そんな滅相もない!」
間違ってもそんなことを言えるはずがない。先の妃嬪はまだしも、宮女風情が皇帝の聖旨に逆らうなどその場で斬首されても不思議ではない。もちろん流螢はまだ死にたくなかったので、それ以上何かを言う気にはなれなかった。震える手で玉璧を受け取り、遂に退路は断たれた。
「良かったわね、流螢! これで私たちは競争相手になったのよ」
気が付けば静寧宮に帰りつき、バンバンと徐恵に背中を叩かれていた。あの後何があり、どのように歩いて来たのかまったく覚えていない。両手で握りしめた玉璧は手汗でべっとり湿っていた。
「どうしよう、徐恵。私、どうすればいいの?」
声が震える。どうするもこうするも、答えは一つだ。
「比武召妃を勝ち抜くのよ。それ以外の道がある?」
楊怡が茶を淹れてくれた。茶杯を受け取り、一口含む。いつもならばその馥郁たる香りを楽しむところなのに、今日に限っては何の香りもしない。それだけ頭の中は混乱していた。
「私は本当に出場するの?」
「そうよ」
「徐恵と戦うの?」
「そうよ」
「死ぬの?」
「……えっと、それは喜びで?」
流螢の頭の中はもうごちゃごちゃだ。自分でも何を言っているのかわかっていない。とうとう頭を抱えて卓に突っ伏してしまった。
「そんなの無理よ、絶対に無理! 妃嬪の方々と並んで競い合うだなんて、絶対に無理ぃぃぃぃぃ!」
「無理なんかじゃないわ。流螢なら必ず勝てる。それに容貌だって安宝林なんかよりずっと優れているし、器量だって負けちゃいない。物事は何だってやってみなくちゃわからないでしょう?」
「それにしても、なぜ流螢の名前が名簿にあったのでしょう? あれは婕妤の計らいで?」
楊怡が徐恵の茶杯を差し出しながら言うのを聞き、がば、と流螢は顔を上げた。そうだ、それがいまだに謎なのだ。あり得ない事態が現実に起こった、そこには理由があるはずだ。
徐恵は頭を振る。
「私は何も知らない。どうしてそう思うの?」
「王大人は初めこそ訝っておられましたが、流螢の名前はずっと前から数に入っていたはず。玉璧がぴったり人数分準備されていたのが何よりの証拠です。そして一覧は御書坊に保管されていた。尚宮局を介さずに流螢の名前が書き足されたのだとしたら、それは陛下の手によるものかと」
「否、事実はそうではない」
女三人、飛び上がって一斉に背後を振り向いた。突然背後から声を掛けられたことにまず驚き、そして次に声の主を知って仰天した。そこにいたのは太師
「魏大人! どうしてこちらへ?」
「何度呼びかけても返事がなかったので、勝手に入らせてもらいましたぞ」
「いやその、清寧宮に入ってきた過程を訊いているのではなくてですね……」
内廷の庭先で会うならばまだしも、大臣が後宮に足を踏み入れ妃嬪を訪ねて良いのかという問題だ。魏徴はそんな徐恵の困惑など知ってか知らずか、ゴホゴホと咳き込みながら徐恵に勧められるまま円座に座る。楊怡が慌てて四つ目の茶杯を取ってきて茶を差し出すと、魏徴は一口飲んで息を吐いた。よく見ると額に汗をかいており、体力的に無理をしたようだ。
「魏大人、先ほどの言葉の意味は? 事実はそうではない、とは?」
茶の味に一度は笑みを浮かべていた魏徴だが、徐恵が話を戻せばたちまちその表情は険しくなる。
「朱流螢の名を比武召妃の参加者名簿に書き加えた者のことだ。それは陛下ではない。皇太子だ」
「殿下の? それはどうして?」
流螢は二人の背後に侍っていたが、思わぬ話にうっかり口を挟んでしまった。魏徴はそれをちらりと横目で見て、それからふふんと鼻を鳴らした。
「ほんの数日でもう己の使命を忘れたか。すべては皇太子の敵を探し出すための策だ。先の鳳露台で王太監が話したはず。比武召妃の優勝者には副賞が準備してある。もはや察しているものと期待していたのだが」
ぎく、と流螢は右肩に頬を擦りつけた。まさか自身の名が参加者名簿にあった衝撃で、それ以降の王太監の話をすべて聞き流してしまったとは言えない。どう言い繕おうかと思案しかけたところ、徐恵があっと声をあげた。
「そうか、だから
「いかにもその通り。殿下を害した下手人はきっと招子丸を欲している。それが比武召妃の副賞品にあるなら、彼奴は必ずそれを狙って比武召妃に参加する。朱流螢はそれら参加者の中に混じり、よく観察し、下手人の正体を突き止めるのだ」
それに、と魏徴は言葉を区切る。
「皇太子の廃位を目論む輩がこの比武召妃に要らぬ介入をして来ぬとも限らぬ。何しろこの比武召妃は皇太子の地位を盤石にするためのもの。それを望まぬならば必ず妨害がある」
「流螢は妨害工作も未然に退けなければならない?」
徐恵の問いに魏徴は深く頷く。流螢は目を白黒させてよろけそうになった。
(流螢よ流螢、なんてこと! 学もなければ知恵もないお前に、そんな大役が務まるものですか! だけれど魏大人の手前、できませんだなんて言えるわけがない)
下手人を見つけ出すことは簡単だ。ただ彼女らの声を聞けば良い。だがそれに加えて妨害を阻止せよとは、魏徴は流螢にどれだけの期待をかけているのだろうか。こちらが元々針仕事をするだけの宮奴婢であることを忘れたのだろうか。
その不安を払ってくれたのは徐恵だ。
「ご安心を。私も流螢とともに全力で事に当たります。必ずやこの比武召妃、成功させてみせます」
そもそもが魏徴も流螢に期待していたわけではない。期待していたのはその主である徐恵に対してだ。それを悟ると流螢は安堵する一方、情けなさも感じた。皇太子のためであればもちろんできる限りのことをしたいと願う。だが流螢にはそんな力は備わっていないのだ。
「ところで魏大人、皇太子のこのところのご様子はいかがでしょうか?」
徐恵がちらりと流螢に横目をくれながら問う。流螢はその意を察してごしごしと頬を擦った。耳まで赤くなっているのがわかる。徐恵は流螢のために皇太子の近況を問うたのだ。
ところが魏徴はふと表情を曇らせ、はぁ、と深く嘆息した。
「このところの皇太子は何を考えておられるか、この
握りしめた拳が卓面を打つ。タン、とその音は悲しく響いた。
「これでは陛下からの評価はますます地に落ちるばかり。仮に比武召妃が大成功に終わったとして、あのような素行不良が続くようであれば敵の思うツボ! それがわからぬ人ではあるまいに、ああ、皇太子は気が触れられたのか!」
気が高ぶったためか魏徴は激しく咳き込んだ。今度は今までよりも激しく、そして途切れない。呼吸が危ういのではと気に掛けた瞬間、とうとうどさりと上体を倒してしまった。徐恵が慌ててその身体を受け止め、流螢はさっとその背後に回る。
「徐恵、魏大人を支えて、それから
即座に察した徐恵は魏徴の身体を支え、
流螢は魏徴の背後で胡坐を組み、両掌を天に掲げる。深い呼吸を繰り返すこと数回、その掌からゆらゆらと熱気が立ち上った。それを一転、肩甲骨下部に押し当てる。
「……これは意外。流螢は真に武功を有していたか」
呟き、魏徴が目を開ける。このときにはもう流螢は気の注入をほとんどやめていた。掌を収め、徐恵も剣訣を引っ込める。
「私の
魏徴はただ頷き、瞼を閉じてしばらく深呼吸を繰り返した。それからうっすらと瞼を開け、今一度見定めるように流螢を振り返る。
「――そなた、
先ほど流螢が魏徴に対して使ったのは内功と呼ばれ、調息や経絡の運行によって体の奥深くで錬成される力を差す。今回のように
これに対して外功とは、いわゆる肉体的な筋力や型の作りを言う。打撃に強い体を作ったり、武器を自在に操る技術などを総じてそう呼んだ。
「ある程度は。でも実戦の経験が少なくて、さほど強くはありません」
武芸は内功と外功の二つを揃えて修める必要があり、一方に秀でていても全体の力量は低い位置に留まってしまうものなのだ。
「そんなことはありません。流螢はもう何年も武芸を磨いています。多少の型を覚えただけの付け焼刃な武芸など取るに足りません」
謙遜する流螢に被せるように、徐恵が勝手に答えている。魏徴は
「その話を蒸し返したいわけではない。魏某はどうやら、朱流螢を見くびっていたようだ」
魏徴は卓の縁に手をかけて立ち上がる。腰を伸ばし、流螢を真正面から見据える。それどころかその肩を触れるかどうかの力で掴んだ。
「さらに研鑽に励め。いずれ下手人を追い詰めたとき、その武功はきっと必要になる。どのように動くべきかは徐婕妤が示してくれる。だが最後に敵を仕留めるのは、朱流螢、お前の役目だ」
流螢ははっとしてその場に伏した。先ほどまで魏徴は流螢のことを歯牙にもかけず、ただ皇太子を害した犯人を嗅ぎ分ける犬のようにしか考えていなかった。ところが先の一件で考えを改め、流螢が十分な戦力に足ると判じたのだ。
「朱流螢、全力でこの役目を務めさせていただきます!」
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