八 武を比べ妃を召し出す

 静寧宮へ帰りつくなり、徐恵は怒りもあらわに衝立ついたてを蹴り飛ばした。バーン、と音を立てて吹っ飛ぶ衝立。壁にぶつかった衝撃でバラバラになって床に散らばった。それは徐恵の武芸が内功ともども益々上達している証左であったが、今はそれどころではない。

「どうしてあんな規定が作られるの? いったい何のための武術大会なのよ。あれじゃあ流螢が皇太子妃になれないじゃないの!」

 プンスコと頬を膨らませ玉卓の前に荒々しく腰を落とす徐恵。流螢と楊怡もその正面に座る。


「徐恵、そんなに怒らないで。私は別に気にしていないから」

 流螢はなだめるつもりで言ったのだが、これが逆効果。徐恵はますます声を荒らげる。

「気にしてよ! 流螢、あなたは聖人のように無私無欲なわけではないでしょう? 意中の殿方を奪い合うのに、あなたは最初から除け者にされたのよ。これをどうして怒らずにいられるの?」


 この日、後宮の妃嬪たちの中でもとくに若い者たちが鳳露台ほうろだいへと呼び集められた。そこでは貴妃きひよう淑妃しゅくひいん徳妃とくひの正一品の夫人らと、皇帝御付きのおう太監が待っていた。そして告げられたのが、皇太子妃選抜武術大会「比武ひぶ召妃しょうひ」の開催と、後宮の妃嬪も大会への参加を許す旨の詔勅しょうちょくだったのである。


 後宮の妃嬪は一人残らず皇帝の妻だ。ゆえに、そこから皇太子妃を選ぶということは本来あり得ない。それがなぜ皇太子妃選抜大会に出場を許されるのか――それを問うた妃嬪に対し、韋貴妃は嘲笑もあらわに「その左腕の朱印に問え」と返した。

 鳳露台に集められた妃嬪はすべて純潔の証である守宮砂を腕に残していた。その意味するところは、皇帝に見向きもされなかったか、召し出されても肌を合わせるに至らなかった者たちということ。未だ純潔の身であるならば、皇太子に嫁いでも問題はあるまいという理屈だ。

 太監はこれを「皇帝の恩情」と説明した。皇帝はもはや若くはなく、自身の娘よりも幼い妃嬪に手を出すことはなくなっていた。しかし後宮に入った以上、彼女らは皇帝の寵愛を得るか、さもなくば年月とともに枯れゆく宿命さだめにある。それを憐れんでの恩情であると。


 流螢には理解できなかった。花鳥使を全国に放って手当たりしだいに娘たちを宮中に攫っておきながら、何を今さら恩情などと。それに韋貴妃の言い方も気に喰わない。お前たちは陛下に選ばれず妃嬪の務めも果たせない無能なのだと見下したようで、非常に腹が立った。その言葉の矛先には徐恵もいたからだ。


 ところが徐恵はむしろ、最後にまた別の妃嬪が問うた内容と、それに対する答えにこそ憤っていたのである。


「宮女は参加できないのですか? 彼女らは日々多くの仕事をこなし、腕っぷしに優れる者もおります。それに少し前は、武芸のできる宮女の噂も流れました。彼女らを参加者として認めれば、なにも私たち後宮の妃嬪を競わせる必要もないでしょうに」

 問いかけた妃嬪は正五品の才女さいじょであった。彼女はまさしく、徐恵や流螢が気にかけていたことをズバリと問うたのだ。これに韋貴妃は鼻で笑って返した。それだけで十分な答えだった。


 地団駄踏んで未だ怒り冷めやらぬ徐恵の肩を、流螢はそっと撫でる。

「ありがとう。私のためにそんなにもいきどおってくれて。でも私は大丈夫。元より目立つような真似はできないのだもの」

 宮女朱流螢には役目がある。皇太子の敵を探り出すという他の誰にもできない役目が。そのためには隠密に動かなければならない。魏徴はまだ策を知らせてきていない。それまで間違っても衆目を集めるような真似はできない。武術大会などもっての他だ。

 徐恵とてそれは理解している。それでもなお、なぜか知らないが流螢を参加させたくて仕方がないらしい。一人うんうんと唸って何やら考えていたが、とうとうダンと強く足を踏み鳴らし、立ち上がるや切歯扼腕のありさまで言い放った。


「こうなったら、私が出場する!」


 一瞬、流螢と楊怡は揃って聞き間違えたのかと顔を見合わせた。それに気づいているのかいないのか、徐恵は一人で勝手に頷いている。

「それがいい、これがいい! 私が勝ち上がって、優勝して、それから皇太子妃の位を流螢に譲る。そうでなくとも、私が東宮に入るならば流螢を連れて行ける。殿下と流螢を引き合わせることができるわ」


 これは予想外の展開である。流螢と楊怡は慌てて止めにかかる。

「ダメよ! 私のためにそこまでする必要はない!」

「そうです。それに比武ということは多少なり怪我をすることもあります。婕妤が危険な目に遭うのを黙って見過ごせはしません」

 しかし徐恵は頭を振って二人を制した。

「もう決めた。それに、まるきり流螢のためというわけでもない。比武召妃に出場すればそれだけでも参加しなかった妃嬪より目立つことができる。よしんば優勝を逃したとして、陛下の関心を惹くことができればそれでいい。それに私には流螢がいるもの。怪我の心配なんて不要よ」


 流螢に武芸を教えるよう迫ったときのように、徐恵は妙に頑固なところがある。これだけの固い意志を見せたからには前言を翻すなどまずありえない。徐恵が婕妤に封じられてからずっと一緒だった楊怡には、この決意を翻す術はないのだとはっきり理解できたようだった。


「婕妤がそう心に決められたなら、私どもにもはや異論はありません。――お茶を淹れましょう。流螢、手伝って」

 いつもの楊怡は茶に関して他人からの一切の干渉を嫌っている。もともと茶は楊怡の趣味だ。徐恵がその茶の腕を気に入って近侍に迎えたことで清寧宮では茶の多飲が習慣付き、各地の茶葉を収集するようにもなった。今や厨房には数十種もの茶葉が貯蔵されるほどである。

 だからここで茶を淹れるのを手伝えと言うのはただの口実だ。厨房に入るなり楊怡は困った様子で頭を抱える。


夕殿せきでん珠簾しゅれんを下ろし、流螢りゅうけい飛んでむ――婕妤があなたを流螢と名付けたときから、そこはかとない不安に囚われていた。それがとうとう現実になってしまったのね」

「楊怡はその詩を知っていたの?」

 口にしてすぐ、流螢は失言を悟った。己が知識のなさを露呈させる発言だ。もっとも、今さら楊怡に隠すことでもないが。

「これは詩人の小謝しょうしゃ――しゃちょうの『玉階怨ぎょくかいえん』よ。日暮れになったのですだれを降ろしたところ、目の前を蛍が飛び去った……これの意味が解る?」

 流螢は正直に頭を振った。

「これは妃嬪の心情を詠んだものよ。それも、悲哀の心を詠んだものなのよ。日暮れになっても一人で蛍の飛び行く光景を眺めているのはなぜ? それは皇帝から夜伽に呼ばれなくなったため、寵愛を失ってしまったため。婕妤はあのとき少しの迷いもなくこの一節を持ち出した。それはなぜ? いつもいつもそこに詠まれた妃嬪とご自身とを重ねて我が身を憐れんでいたからよ」


 ふと流螢はあることを思い出した。徐恵は時おり文机に向かっては筆を執り、なにやら懸命に書をしたためていた。山のように積み上がった紙束を捨てるように命じられて幾度か運んだことがある。流螢に文字はわからない。だがいずれにも同じ文句が綴られていたことはわかる。あるいはもしや、あれが『玉階怨』だったのか。


「例の事件があった夜、陛下は久々に婕妤を甘露殿へお召しになった。そのときの婕妤の喜びようが想像できる? 文字通り天に舞い上がるかのように喜んで、もっとも美しくもっともあでやかな装いを準備する姿が想像できる? あなたとの約束を反故ほごにしてしまうけれど、それは明日謝ろう。今宵は陛下と何をお話ししようかと仰って。……それが、あんなことになるなんて」


 その先は流螢にも想像できる。にわかに外が騒がしくなり、寝殿に太監が駆け込んで事件の発生を報告する。皇帝との甘美なひと時は一瞬で消え去り、恋焦がれた相手は去ってゆく。それこそちらりと光っては儚く消える蛍のように。

「徐恵は徐恵で、陛下に恋焦がれているのね。会いたいと思うのに会えなくて。だけどもその気持ちを押し込めておくこともできなくて」


 唐突に理解できた。徐恵が流螢と皇太子の仲を取り持とうと躍起になる理由が。

 流螢は徐恵の依り代なのだ。決して届くはずのない想いを胸に抱く、自らの分身のように捉えているのだ。流螢はまさしく眼前を飛ぶ蛍、ほんの一瞬見る光。徐恵はその中に夢を見ている。


「それだけならまだ良かった。ただ思い焦がれるだけならば。でもまさか、ここで武芸だなんて」

 楊怡は頭痛耐え難いと言わんばかりである。

「妃嬪が武芸を練習するなんて、私は以前から好ましくないことだと思っていた。それでも婕妤が精気を養い健康になるならと黙認してきたのに――どうして後宮の妃嬪までもが比武召妃の対象に?」

「それは、その……ごめんなさい」

 徐恵に武芸を教えたことを非難しているのだと受け取った流螢は、ただただ平謝りするばかり。だが楊怡の意図は少し違った。


「人が誰を懸想し、何を好むか――それは他人にはどうしようもないこと。あなたを責めるつもりはない。でも、婕妤に武芸を始めさせた責任はある。比武召妃で活躍する姿を見せれば陛下からの寵愛が戻るかも知れない、その可能性は確かにある。だけれど婕妤は勝つことだけを考えて、負けた場合のことを何も考えていない。それこそ無様な敗北を見せれば、陛下の寵愛を得るどころか宮中の笑い者になってしまう。それだけは絶対に避けなければ。婕妤の命運はあなたの双肩にかかっているのよ。それを重々承知して」

 そこまでの予見は流螢にはなかった。言われてはじめて、比武召妃に妃嬪が出場することの重大さを理解した。勝者がいれば敗者がおり、笑う者がいれば笑われる者がいる。決して、徐恵を笑われる側にしてはいけない。そのためには徐恵の武芸を他の参加者の誰も及ばない高みへと持っていく必要がある。


(でも、そんなことが私にできるの? 自分の身さえ自分では守れないような未熟な私に? ああ、流螢よ流螢、お前はそれだけの大任を果たすことができるの?)


***


 ひと月後、再び後宮の妃嬪たちは鳳露台に集まった。満を持して比武召妃の出場者が発表されるのだ。いったい誰が出場するのかと、出場資格を持たない妃嬪や宮女たちまでもが集まり、鳳露台はぎゅうぎゅう詰めだ。

 檀上に勅旨を捧げ持った王太監が現れると、最前列の三夫人を始め全員がその場に跪く。


「皇帝陛下より、比武召妃の出場者を次の通り宣言する。名を呼ばれた者は前へ進み出て出場者の証となる玉璧ぎょくへきを賜るべし。これを失えば出場者の資格を失うと心得よ」

 ちらりと頭を上げてのぞき見れば、王太監の背後には玉璧を積み重ねた盆を持つ太監が控えている。ざっと見たところ数はおよそ二十か。


朝明宮ちょうめいきゅうがく修儀しゅうぎがくさん

はい

 一人目の名前が読み上げられるなり、妃嬪らの間でどよめきが走る。修儀は正二品、夫人位に続く高位の妃嬪だ。それがまさか皇太子妃選抜に出場するなど誰が予想しただろう。前方で伏していた妃嬪が立ち上がり、檀上へ上がる。武芸とはおよそ無縁と思える繊細な顔立ちが遠目からも見て取れた。


紫雲閣しうんかく石婕妤、せきえん

「静寧宮徐婕妤、徐恵」


 正三品の婕妤からは徐恵を含めて二名が読み上げられた。これにも先と変わらぬどよめきが走る。徐恵はちらりと流螢に目配せし、檀上へ玉璧を受け取りに行く。呼び出された妃嬪らが玉璧を賜る間にも王太監の読み上げは続く。さらに四名の美人位を読み上げ、続いて正五品の才人位へと移る。


才人宮さいじんきゅう武才人、しょう

 ここまでくればもう、誰が読み上げられようが大したことではない。にもかかわらず、この名が読み上げられた瞬間にはまた先とは違ったどよめきが走る。

「あれよ、宮女も参加させるべきだなんて妄言を吐いた才人というのは」

 すぐ近くにいた妃嬪の誰かがそう囁き合うのを聞いた。流螢はまたこっそり顔を上げて檀上へ上がった妃嬪の横顔をのぞき見る。凛としたたたずまい、意志の強さを感じさせる切れ長の目。檀上の他の妃嬪と比べてもひと際飛びぬけて美しい女性だ。


 その視線が、不意に振り向いた。ぴたりと真正面から流螢の視線と重なった。まるで自身に向けられる好奇の眼差しを感じ取ったかのようである。流螢はぎょっとして顔を伏せた。まるで射竦められたように心臓の拍動が乱れている。


(この距離で気づかれた? いやでも、ただの偶然かも……)


 流螢が混乱している間に、王太監の読み上げは正七品の御女ごじょから正八品の采女さいじょに移っていた。采女は妃嬪の中で最下の位である。必然、参加資格を持つ者は多く、十名近くが読み上げられた。

 ここでふと、王太監の言葉が途切れた。眉間にしわを寄せ、怪訝な表情を浮かべている。背後の太監と目くばせして何やら議論するように言葉を交わす。やがて何事かと妃嬪らも疑問に思い始めたころ、王太監は最後の名前を読み上げた。


「静寧宮近侍、朱流螢――以上二十二名を、後宮からの比武召妃出場者と定める」

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