七 うわの空

 同じ宮女とはいえ、針職人と近侍では何もかも勝手が違う。


 まず仕事の範囲が驚くほど増えた。以前の作業場ではただ渡された針仕事に従事していればそれで良かった。ところが近侍は宮内の清掃から嗜好品やらの調達、食事の配膳や片付け、そして何より妃嬪の世話をしなければならない。それもただやればよいというものではなく、一つ一つの出来栄えに細かな作法が求められる。


 本来近侍というのはそれなりの教養を持つ、良家の出身者が務めるような役柄なのだ。庶民の出である流螢に務まるわけがない。初日にさっそく壺を一つ割り、二日目には湯を沸かすつもりがちょっとしたボヤ騒ぎを起こした。三日目にはとうとう徐恵が書に使う高価な墨を火種と間違えてかまどに投げ込む始末である。銀子十数両に値する火はそれはそれは燃えなかった。


(麗雲よ麗雲……じゃなかった、流螢よ流螢、もっとしっかりしなさいな。私には皇太子の敵を見つけ出し、その身をお守りするという使命がある。それがもうひと月は経とうというのに、宮女としての働きも満足にできないでどうするの?)

「……螢、流螢」

(これまではまだ清寧宮の中だけで済んだけれど、こんな調子では外にも出られない。人前で粗相をしようものなら私はともかく徐恵にまで恥をかかせてしまう)

「ねえ、聞いている? 流螢ってば」

(外に出られなければ宮女たちや他の妃嬪たちにも近づけない。その間にも殿下の身には危険が迫る。早く一人前の近侍になって、殿下のお側にも仕えられるようにならなければ。殿下は私を身を挺して護ってくださった。今度は私がお護りしなければ――)

「流螢! 手元をよく見て!」


 徐恵の大声にはっと我に返る。玉石の円卓に並んで座った徐恵の顔が焦りに満ちている。その手は流螢の手元を指さしていた。いったい何事かと視線を落としてみれば、円卓が水浸しになっているではないか。ただの水ではない。黄緑色の――これは茶だ。茶が茶杯を一杯に満たし溢れ出ているのだ。すでに卓の縁からも零れ落ちて流螢の膝にまで滴っている。その茶を注ぎ入れる茶壷きゅうすの取っ手を握るのは、誰あろう流螢である。


「え、わっ、あちゃちゃあちゃあちゃおちゃちゃちゃちゃぁぁぁぁぁー!?」


 淹れたばかりの茶は熱湯だ。突如知覚した太ももの熱さに流螢は驚きのあまり立ち上がる。と同時に、茶壷を空中に放り投げてしまった。ガシャンと音を立てて卓上に落ちる。茶壷は鉄製なので割れはしなかったが、落下の衝撃で中身が盛大に噴き上がる。あろうことか飛び退こうと円座から立ち上がった徐恵の胸から下までをぐっしょりと濡らした。沙羅の衣装が身体にぴたりと張り付き、肌の色が透けて見える。

「わーっ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! すぐに拭くから全部脱いで!」


 混乱のあまりに徐恵の襟に手を掛ける流螢。近ごろは胸元や肩周りを大きく露出させる造りが流行している。流螢の指は必然、徐恵の豊満で柔らかい部分に触れる。徐恵はたちまち真っ赤になって悲鳴を上げた。そこへ騒ぎを聞きつけた楊怡が飛び込んできたが、眼前の光景にたちまち目の色を白黒させた。

「流螢、あなた血迷ったの!?」

 楊怡が誤解するのも仕方ない。従者が主人の服を剥ごうとしており、しかも両者とも下半身がぐっしょりと濡れている。楊怡は両手で顔を覆い、しかし指の合間からしっかりと凝視する。


「はしたない、なんてはしたない! 破廉恥ハレンチだわ!」

「楊怡も変な勘違いをしないで!? いいから流螢は落ち着きなさい!」

 徐恵が腕を振り払うと、ようやく流螢も自身の奇行を察した。あわあわとしながらびしょ濡れの円卓に駆け寄る。

「ご、ごめんなさい。すぐに片づけを」

「待って。そこの後始末は楊怡に任せるわ。流螢はこっちへ」


 手招く徐恵。これはどう見ても叱られる流れだ。流螢はちらりと楊怡を見たが、楊怡はただ肩を竦めるばかり、助けてくれようはずもない。流螢は恐る恐る徐恵の前に立った。

「最近の流螢、どうにも変よ」

 徐恵はため息混じりだ。


「何をするにしてもうわの空で、やることなすこと中途半端だわ。このままでは楊怡が過労死してしまう」

「それは、その」

「まだ近侍の仕事に慣れない? 確かに今までとは勝手が違うでしょうけれど、それが原因じゃない。だって武芸の鍛錬でさえもそんな調子なんだもの。ずっと何かを考えて、私のことなんか見てやしない」


 流螢が清寧宮に入ってからも徐恵との武芸鍛錬は続いていた。わざわざ承慶殿まで行かずとも昼夜を問わず中庭で好きなだけ稽古ができる。そう徐恵は喜んでいたのだが。

 流螢は知らず手首を押さえる。その袖の下には包帯が巻かれている。昨日、剣術の稽古中に徐恵の一撃を回避できずしたたかに打たれたために、痣ができているのだ。原因は明らかに流螢の油断だった。徐恵の動きがまったく目に入っていなかった。


 気づけば流螢はごしごしと肩に右頬を擦りつけている。

「それは、その……ごめんなさい。私自身もどうして物事に集中できなくなってしまったのかわからなくて」

「それは困ったわね。いったいいつからこうなっちゃったのかしら?」

 徐恵の視線がちらりと円卓を掃除している楊怡に向く。すると楊怡は示し合わせてあったように口を開いた。


「先日、東宮とうぐうにご挨拶へ伺ってからかと」

 びく、と流螢の肩が震えた。そうね、と徐恵も頷く。


 重傷の皇太子が昏睡から目を醒ましたと聞いた数日後、流螢と楊怡は清寧宮からの見舞い品を届けるという名目で東宮を訪れていた。皇太子に命を救われた流螢から直接感謝と謝罪の言葉を届ける機会を徐恵が作ってくれたのだ。

 宮女飛麗雲は公には死罪となっている。流螢は人払いされた客間で皇太子に謁見した。


「壮健そうでなによりだ」


 楊怡の見様見真似でひれ伏す流螢に、皇太子はそう言葉をかけた。たったそれだけの事なのに、流螢はたちまち頭の中で準備していた言葉のすべてを忘れてしまった。近侍といえどただの宮女、皇太子にしてみれば取るに足らない官奴婢の一人に過ぎない。もしかすると一生の後遺症を負った原因である流螢を厳しく叱責してくるのではと覚悟していた。だが実際にはその真逆、それは卑しい宮女が賜るにはあまりにも釣り合わぬ、その身を案じる言葉であったのだ。

 何も言えなくなった流螢に代わり、その場のやり取りはすべて楊怡がとりなした。宮官は高貴の人を直視してはならない――その規律に流螢は救われた。さもなければ流螢は滂沱の涙でぐちゃぐちゃになったその顔を皇太子に見せることになっていただろう。ただ漏れ出る嗚咽だけは聞かれてしまっただろうが。


 円卓を拭きあげながら楊怡の声が弾む。

「あれ以来、ちょっと気を抜けば東宮の方角をぼうっと見つめるようになってしまって。いくら称心しょうしんさまが美系だったからって……」

 ほわわ、と頬を染めて俯く楊怡。称心とは皇太子の信頼厚い側近であり、あの事件があった夜に流螢に剣を向けた皮鎧の兵士だ。二人が皇太子に謁見した際にもその場に唯一立ち会い、帰路に就く二人を門前まで送ってくれた。楊怡が言う通り目鼻立ちの整った顔つきで、武人というよりは役者に向いているような印象だった。


 流螢はあわあわと両手を振る。

「ち、違う! 私は称心さまではなく」

 そこまで口にして、流螢は自分が何を口走ろうとしたか気づいてはっと続く言葉を飲み込む。が、すでに遅い。徐恵の顔にニヤァと悪戯な笑みが浮かぶ。

「なるほど、そういうことだったのね。なんとも畏れ多く、なんとも素敵な話だわ。後宮の侍女が皇太子に恋慕を寄せるなんて! それならまた折を見て遣いに出してあげようかしら」

「そんな、やめて! 私は別にそういうつもりじゃ」

「ではどんなつもり? もう二度と殿下にお会いできなくても構わないのね?」


 それは、と口ごもる。それは、困る。しかしなぜ困るのか、流螢はそれを言葉にできなかった。またごしごしと頬を右肩に擦り付ける。

「私は……私はこれまで殿方を心に留めたことなどない。だから、これがそれに類するような感情であるのかもわからない。ただ、ただ……」

「もう一度お会いしたい、そう願っているのね? 流螢、それは恋よ。それこそが、人を恋い慕うということなのよ。私も陛下を――」

 そこで徐恵は言葉を区切り、こほんと咳払いを一つ。


「ともあれ。そういうことなら、私も主として、そして義妹として、協力しないわけにいかないわね。流螢がなんとか殿下と会えるように取り計らってあげなくちゃ」

 勝手に話が進んでいく。流螢は口を開きかけて、やめた。流螢の胸にあるこの感情が何であれ、それが皇太子に届くことなどありはしないのだ。


(間もなく皇太子妃を選ぶ武術大会が開かれる。きっと私なんかよりもずっと相応しい女性が選ばれる。ならばせめて、それまでの間だけでもこの気持ちを大事にしよう)

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