四 最大限の譲歩

 ――ブゲイヲオシエナサイ。


 何を言われたのかすぐには理解できなかった。オシエル……教える? 誰が、誰に?

「私が、あなたに、武芸を教える?」

「それ以外の意味に聞こえたの? それとも、私には無理だと言いたいの?」


 言いながら徐恵は腕を引き、拳を握って突き出した。麗雲は反射的に掌をかざしてそれを受ける。ぺちん、と気の抜けた音。こんな突きでは按摩あんまにすらならない。

「変ね? 確かこんな風に動いていたように見えたのだけど」

 繰り出した側もまったく威力が乗っていないことは理解できているらしく、首を傾げてはもう一度拳を繰り出す。ぺちん、ぺち。何度繰り返しても結果は変わらない。


 麗雲はとうとう呆れ果て、徐恵の手首を取った。背後に回り、抱き込むように腰に手を添える。

「突きは腕や肩の力だけで打ってはいけません。しっかり足を――もうちょっと開いて、そう、その距離。この状態から地面を蹴って、それから腰を回す。もっと回して……そうです。すると下半身の力が上に登って来るので、それを拳に乗せて打ち出すのです。こんなふうに」


 徐恵の腕と腰を掴み、何度か「弓歩中推きゅうほちゅうすい」の動きをさせてみる。基本的な突きの動作とはいえ体の上から下までを連動させる必要があるため実際には奥が深いのだが、見せかけだけを真似させることはできる。

 何度かやらせてみると徐恵はすぐにコツを飲み込んだ。最初に見せたちぐはぐな動きからは随分と差がある。麗雲は内心で驚嘆していた。どうやら彼女には武芸の才能があるようだ。試しにまた掌を打たせてみたところ、今度はパァンと弾ける音が響く。その音の大きさに拳を打ち出した本人までもが思わず肩を驚かせたほどだ。


「すごいわ、すごい! たったあれだけの指導でこんなにも変わるだなんて! やっぱりあなたは高手つかいてなのね? 宮中にこんな人が隠れていただなんて」

 普段が褒められ慣れていない麗雲である。「いやいや、そんなことは」と言いつつも右肩に頬を擦り付け、口元が緩んでしまっている。これを見た徐恵は、うふ、と笑って麗雲の手を引っ張り、先ほど調息の鍛錬をしていた石段に並んで座らせる。


「ほんの少しだけ私の話を聴いて? あなたも昼間に聞いたと思うけれど、私はあまり身体が強くない。でも本当は昔から体を動かすことそのものは好きだったの。なのに、お母さまから女の子は慎ましく淑やかでなくちゃいけないと、書画や詩歌ばかりさせられていたわ。宮中に入ってからもそれは同じ。ほんの数日前だって、同輩の妃嬪から一緒に遊びましょうと誘われて行ってみたら、ただ銅銭を投げて裏表を当てるだけ。去年の秋は禁苑きんえんまで出た挙句、やったことが蟋蟀こおろぎを捕まえただけよ。こんな退屈な生活、私はもう耐えられない!」


 日々を職務をこなすことで過ごす麗雲にしてみれば、そんな生活の何が不満なのかとしか思えない。ところが徐恵の話す表情は本当に悲痛に満ちていて、嘘を言っているようには見えない。

 麗雲は考えた。麗雲のように手芸に秀でるわけでもなく、さりとて掃除洗濯も満足にできない不器用な宮女は、たとえば門扉の見張りをさせられたり、庭の雑草をむしるだけの職務を与えられる。それも一生涯の間やらされるのだ。そんなつまらないことに費やされる人生とは何なのだろう。――徐恵の嘆きはそれと大差ないように思えた。


「その気持ちは、なんとなくわかる。今のお勤めに不満はありませんが、たまにふと思うのです。私はいつまでこの仕事を続けているのだろうか、これが私の人生なのだろうか、と」

 ぽつりと呟けば、徐恵はばっと麗雲の両手を掴んだ。

楊怡よういに言っても呆れるばかりで共感してくれなかったのに、あなたはわかってくれるのね! ますますあなたが気に入ったわ。ねえ、どう? 静寧宮の近侍きんじになって、私と一緒に住むというのは? 他の仕事はしなくていいから、私に武芸を教えてよ」

 麗雲は驚きのあまりに徐恵の手を振り払ってしまった。


 近侍とは特定の妃嬪に仕える、昼間会った楊怡のような上級宮女のことだ。主の身の回りの世話が主務となるため、ある程度の教養が求められる。麗雲のような自分の名前すら書けるかどうか怪しい人間に務まる役目ではない。いくら徐恵が他の仕事をしなくていいといっても、だからと言って気軽に受けられる提案ではない。


 麗雲が止まったまま動かないので、徐恵も首を傾げて訝り始める。

「どうしたの? 私の近侍になるのは嫌?」

 それは悲しむというより、自身の意に沿わない人間がいることに疑問を呈するような、そんな語調を含んでいる。当然のことだ。妃嬪と宮女ではその身分に雲泥の差がある。宮女ごときが妃嬪の言に逆らうなど通常あり得ないことなのだ。


 何とか言い繕わなければ――麗雲は必死で頭を巡らせ、言葉を探した。


「わ、私の武芸もまだまだ修行中の身、腕は未熟です。未熟者が教えたら、教えられる側はもっと未熟な腕になってしまう。それは婕妤にとっても嫌ではないかと」

「そうなの? まあ、確かに芸事は良師を得ることが肝要よね。でも私は戦場に赴こうだとか、誰かと喧嘩をしようだとか、そんなつもりはないの。後天の精気を養うのにちょうど良さそうだからやるの。どうせ皇太子妃を選ぶ武術大会とやらには出られないし、ただの暇つぶしみたいなもの。ほんのちょっとの手習いで構わないわ」


「たまに腕をぶつけ合ったりするし、拳が当たったりして痛いかも」

「武芸なんだからそれは当たり前だし、手加減してくれるでしょう?」

「汗をかくから臭うかも」

「お湯ならいくらでも用意するわ」

「めちゃくちゃ疲れます」

「体を動かすんだから当然よ」

「痩せて胸が小さくなります」

「これ邪魔なのよね、むしろ好都合!」

「……羨ましい」

「え?」


 思わず関係のない本音が漏れてしまった。麗雲は慌てて頭を振ってまた考える。欠点を述べても仕方がない。ここは何か制度上できないのだと主張するしかない。

「私に武芸を教わるということは、私の弟子になるということ。妃嬪が宮女の弟子になるなど、あべこべではありませんか?」


 妃嬪と宮女の身分差を逆手に取った発言だ。妃嬪が格下の相手と師弟関係を結ぶわけがない、そう考えてのことだ。しかしこれは裏目に出てしまった。徐恵の表情が途端に険しくなる。

「弟子になるだなんて私は一言も言っていないわ。私に武芸を教えなさいと、そう言ったのを忘れたの? 勘違いしているようだけれど、これはお願いなんかじゃないの」


 ぞくっ、と背筋に冷たいものを感じる。麗雲は喉が詰まったように何も言えなくなってしまった。完全に打つ手を間違えた。

(ああ、麗雲よ麗雲! お前はなんて愚かなの? これでは明日から陵園りょうえんに仕えることになっても文句は言えない。人生最大の悪手を打ってしまった!)

 陵園とは皇族の陵墓はかであり、そこでは生者に仕えるかの如く死者に仕えなければならなかった。一度陵園に送られれば自らが墓に入るまで出ることはできないと言われている。宮官が門番や草むしりよりも配属を恐れる役職だ。


 麗雲が青褪めて何も言えないでいると、徐恵はやれやれと頭を振って息を吐いた。その吐息の音に麗雲はびくりと肩を震わせる。

「私に仕えるつもりがないなら正直にそう言えばいいのよ。私だってわからずやじゃないし、他人に無理強いすることは嫌いなの。だから、こうしましょう? 私たちは義姉妹になるのよ。義姉妹なら武芸を教え合っても構わないし、上下の別も気にしなくていい」


 果たしてそうだろうか? ただ両者の関係をどう呼ぶかが変わっただけで、武芸の伝授となると何も変わらないように見える。いや、実際何も変わらない。上下の別はないと言っているが、実際はそうもいかないはずだ。

 一方で麗雲も学はないがバカではない。これが徐恵にとって最大限の譲歩なのだと理解していた。この提案まで突っぱねてしまえばいよいよ明日の我が身がどうなるか知れたものではない。


 それに――麗雲はこうも考えた。練習仲間がいれば今までできなかった対人戦を想定した招法ぎじゅつの研鑽ができる。以前には立木を人に見立てて試したこともあるが、満足のいく結果は得られなかった。状況に応じて動いてくれる生きた人間でなければ、変化の多い招法の試し掛けには不十分なのだ。加えて徐恵には武才がある。招法を磨くにはまさに打ってつけの相手と言えた。


 であれば、拒む理由などない。


「わかりました。私たち、義姉妹になりましょう!」

 麗雲が承諾すると徐恵は飛び上がって喜んだ。名前と干支を確かめ合ったところ、やはり徐恵が一つ年下の十六歳だ。二人並んで地面に跪き、月を見上げて誓いを立てる。

「私、徐恵は隣の飛麗雲と義姉妹の契りを結び、生涯に渡って義姐ねえさまと仰ぎ、幸福も苦難も等しく分かち合うことを天に誓います。もしもたがうようなことがあれば、どうかこの身を業火にて焼き尽くしますように」

「私、飛麗雲は……えっと、隣の徐恵を義妹として可愛がり……あれ? 幸せは喜び合い、苦しいときは共に耐え忍んで、ええっと……同年同月同日に生まれずとも、同年同月同日に死ぬことを欲します!」


 学問の素養が足りない麗雲の口からは徐恵のような畏まった言葉など出てくるはずもなく、咄嗟に昔どこぞの講談で聞いた文句を一息に発した。それが可憐な乙女の絆を結ぶには不釣り合いな、乱世の豪傑たちが交わした桃園の誓いとは理解できていない。

 徐恵が思わず噴き出してしまったので、麗雲は何やら自身の口上が奇妙であったのだろうとは察しつつも、あからさまには恥ずかしくて問えるわけがない。そのまま拝礼まで済ませ、そうして二人は義姉妹となった。


 思えば生まれてこのかた、麗雲には友人と呼べる人間がいなかった。実家ではいつも父母の手伝いをさせられて誰とも遊びに出ることはなかったし、宮中に入ってからも毎日仕事に明け暮れるばかりで親しくなった者はいない。今こうして生涯の友を得たのだと思うと、ぐっと胸が熱くなった。武芸は何の役にも立たない特技だと思っていたが、まさかこんな縁を結んでくれるとは。


 それから毎晩、二人は夜中に会っては武芸の鍛錬に励んだ。徐恵は見込み通りめきめきと腕を上げ、短時間で基本功までを習得してしまった。麗雲としても招法への理解が躍進し、互いに良い傾向を見せ始めていた。


 そうやって数か月が経過したころ、事件は起きた。

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