五 薄桃色の侵入者
夏の湿気が漂う中、いつもの場所、いつもの時間、そしていつも通り先に承慶殿の裏庭に着いたのは麗雲だった。月はまだ新月を迎えたばかり、周囲の闇は深い。麗雲は周囲に人気がないことを確かめ、それから今夜は何を練習するか考え始めた。
徐恵の成長は早い。生まれながらの聡明さがあるのだろう、一度教えた内容は決して忘れない。それに本人の言う通り身体を動かすことにも慣れているようで、理解した内容を実際に体得するまでも非常に短時間でやってのけてしまう。麗雲としても教えがいのある相手に喜々として次々教えたものだから、本来年単位で教える内容をこの幾月かで教えてしまっていた。
(後宮に武芸は不要、徐恵は実用のためではなく、暇つぶしとして武芸を楽しんでいる。これまでは新しい型や
最近は針仕事をしている間にもそんなことを考えてしまう。徐恵は麗雲の武芸に興味を抱き、身分を超えて義姉妹になってくれたのだ。だがもしも、徐恵に新しい招法を教えてやれなくなったなら? 徐恵が武芸に対する興味を失ってしまったら? この関係は終わってしまうのではなかろうか。
ここしばらく、ずっとそんなことを考えている。
「……とりあえず、今日は剣かな」
あの日と同じく、麗雲は壊れた箒の柄を木剣代わりに持参していた。あとしばらくもしないうちに徐恵はやって来るだろう。その前に少し復習でもしておこう――。
ふと、首筋にふわりと空気の流れを感じた。はっとして振り返る。その視界の端で何かが動いた。
(誰かいる!?)
慌てて
「遅かったな。首尾はどうだ?」
亭の中で誰かが問いかける。男の声だ。麗雲のいる城壁のそばと亭の間には隔てるように小川が流れている。互いの発する物音はその水音にかき消され、そのために麗雲も亭内の男も夜間のこのような場所に他人がいると気づかなかったのだ。
男は笑声を上げ、満足そうに手を叩いた。
「ハハ、ハハハ! そうか、それは良い。これで奴の立場もいよいよ危ういな」
麗雲は大きく息を吐いた。すでに心臓は脈拍を早め、つられて呼吸も乱れそうになるのを深呼吸で落ち着ける。どうやら自分は厄介な現場に迷い込んでしまったらしい。
あの亭の上にいた何者かはまず間違いなく招かれざる客、皇城への侵入者に違いない。そして亭内の男は侵入者の主だろう。男の指示で侵入者は今夜、この皇城内で何かしらの役目を果たしたのだ。
皇城では数々の陰謀が渦巻いているという。一介の針職人でしかないとはいえ、いつ麗雲も権力争いに巻き込まれるか知れたものではない。皇城内において宮官の命など羽根のように軽い。妃嬪や皇族の身辺に仕える宦官侍女は時に主の罪をすべてなすりつけられ、生贄のように死罪を賜ると聞く。
皇城で日々を平穏無事に過ごすには、波風立てず厄災の渦に巻き込まれないよう過ごすことが肝要だ。ゆえにこの場において、麗雲が取るべき行動はじっと息を潜めるか、あるいは慎重にこの場を離れるかだ。亭内の男は政敵を追い落とすための何かを今夜仕掛けたのだ。それを余人に聞かれたとあっては決して生かしておいてはくれまい。
だというのに。麗雲はあろうことか、気づけば亭へ向けてそろそろと足音を潜めて近づいていた。
(ああ、麗雲よ麗雲! お前はなんて愚かなの? 悪人が他者を陥れる、いくらそれを許せないからって、その悪人が誰なのか突き止めようだなんて! 仮にいずれの大臣であったとして、それが誰なのかお前にわかって? たかが一介の針職人風情、誰がお前の言葉を信じて? それをわかっていながら、ああ! 事の真実を見届けなければ気が済まないだなんて!)
麗雲に政治はわからない。知ったところで意味がないから、大臣の名前すらも覚えていない。しかしそれでも、善と悪との区別はついた。
他者を害するのは悪だ。他者を救うのは善だ。麗雲は自身を善人と自惚れはしないが、悪ではありたくないと願う。なのにこのままこの場から逃げたのでは、悪に加担したことと何が違おうか。あの亭内の男が何者であるのか明らかにし、その策略を暴き、然るべきところへ報せる、それこそが善なる行動ではなかろうか。
小川を跨ぐ橋の下を裳裾を濡らしながら渡る。途中、できるだけ身を隠せるようにと手巾で鼻より下を覆った。植え込みの合間から亭を覗き込む。今夜は月明かりが足りない。明かりも灯さぬ亭内は真っ暗で、その衣装すらもはっきりとは見えなかった。ただ小さなホタルの光がふわりふわりと浮かぶのみ。
「……
仙女の姿をした人物が小声で何か話している。麗雲はわずかに顔を顰めた。その声が装いに反して妙に甲高く、耳に障る声色であったためだ。
「焦るな。心配せずとも必ず調達してやるさ。吾輩を誰だと思っておるか?」
「失礼いたしました、殿下」
「――こっちだ!」
不意に、城壁の向こうから声が聞こえた。次いで何人もの足音と金属が擦れ合う音。あれは鎧の音だ。夜警の兵士たちがこちらへ向かってきている。
ざっ、と亭内の二人は焦ったように動き出した。
「お前、後をつけられたな!」
男が叫んで背を向ける。思わず追いかけようと体を動かした瞬間、麗雲は注意を怠った。足元の石ころを爪先で蹴ってしまったのだ。カツン、と音が鳴るや、男と向き合っていた仙女衣装の侵入者はさっと振り返った。麗雲の青衣は闇の中ではぼうっと浮かび上がって見える。視線を向けられれば立ちどころに発見された。
「誰かいるぞ。吾輩の姿を見られた――殺せ!」
男は闇の向こう側へと走り去る。それと同時、侵入者は素早く地面を蹴った。普通に歩けば二十歩はある距離、それをただ一回の跳躍で詰める。
(
武芸に熟達すると体内の経絡、いわゆる気を制御できるようになり、体を極限まで身軽にできるようになる。それが軽功と呼ばれるものだ。この侵入者が軽功の跳躍を見せたということは、武芸の腕も相当に違いない。
飛び掛かった侵入者は未だ空中に身を置きながら腰に佩いた剣を抜く。そのキラリと剣身が月光を受けて煌めく。麗雲は慌ててその場を飛び退きつつ、手にした木剣もどきを掲げた。カッ、と剣刃が木剣の先端を斬り飛ばす。それでも剣の軌道は逸れ、麗雲は辛くも初撃から逃れた。
(落ち着け、麗雲。落ち着け! 今こそ日ごろの練習の成果を見せるとき!)
スゥッ、と息を吸い、木剣を右手に半身に構える。敵はまさか初撃を避けられるとは思っていなかったのだろう、やや動揺したように見えた。が、それも一瞬のこと。すぐさま剣を下段に構えて駆け寄る。下からの一閃。ひらめく袖がばさりと音を発する。麗雲は横に一歩引いてこれをやり過ごし、腰を狙って突きを放った。
敵は麗雲の反撃を予想していたように半歩下がる。先端を切り飛ばされた木剣はわずかに届かない。麗雲が腕を引こうとしたその瞬間、敵は振り上げた剣を今度は真下に振り下ろす。麗雲はさっと剣を掲げてこれを受けた。
ガッ、黒塗りの刃が木剣に食い込む。直後、その柄元がするりと木剣の下に潜り込んだ。力の方向が一瞬で切り替わり、さっと木剣を上方向に押し上げられる。麗雲があっと叫ぶ間もなく、がら空きになった上体に敵方の左拳が飛んできた。
麗雲の武芸は形を作るばかりで、用法や組み合わせ、実戦の駆け引きについてはまるで経験が足りていない。剣を交わしている最中にまさか拳が飛んでくるとは思ってもおらず、まともに右頬に喰らった麗雲はよろけた挙げ句に転倒する。木剣も手から転げ落ちてしまった。口の内側が切れ、たちまち口内に鮮血が満ちる。
――痛い。
殴られた事実が痛みとともに脳を冒し、瞬く間に全身に巡る。
「い、痛い痛い痛い痛い痛い! やめて、やめて! 私を殴らないで、
麗雲は腕を振り回し、声の限りに泣き叫んだ。それは命乞いと呼ぶにしてもあまりに幼稚な、さながら幼児が駄々を捏ねるかのような、恥も外聞もないといった無様な姿だった。襲撃者側としてもこれには面食らったらしい。とても初撃を受け流した相手とは思えない光景だ。しかも麗雲は、殴られた頬ではなく腹を抱えて喚いている。
いずれにせよ始末することに変わりはない――襲撃者が剣を掲げたそのとき、駆け寄る足音が一つ。
「見つけたぞ不届き者め! 逃げ切れると思うなよ!」
駆け寄ったその人物は生垣を飛び越え、右手を腰へ、左手は右肩越しに背中へと伸ばし、次の瞬間にはシュッと鋭い音を発して両手に剣を引き抜いている。そこから駆け寄った勢いのまま右剣で一閃。ガン、と鈍い音を立てて黒剣とぶつかり合う。間髪入れずに左剣が腰を薙ぐ。思わぬ相手の登場に襲撃者も退くしかなかった。
「そこの者、無事か?」
駆け付けた双剣の使い手は麗雲を背後に庇いながら問う。背面を護る大きな円形の鉄板が鏡のように麗雲の姿を反射している。
「わ、私は……」
「殿下! 殿下!」
「ここだ! すぐに来い! 妃嬪が一人襲われている!」
さらに数名、鎧の擦れ合う音とともに足音が近づくや、明光鎧の男は剣を振りかぶって襲撃者へと躍りかかる。たちまち数合が交わされ、襲撃者はあおりを喰ったようによろけた。明光鎧側の武功が襲撃者をわずかに上回っているようだ。
ガァン、と剣が交わり大音響を発する。双剣が襲撃者側の剣を弾き、その体勢を大きく傾がせる。そこへ迅速猛烈な突き! 右剣が襲撃者の顔面を狙う。
直後、麗雲の頬に生暖かいものが飛んだ。麗雲は眼前の光景に息を呑み、またぞっとして血の気が引いた。襲撃者の剣が明光鎧の男の左脚、膝の位置にざっくりと喰い込み、鮮血を噴出させていた。麗雲の頬を濡らしたのも彼の血だ。
襲撃者は剣を引き抜きながら大きく後退する。その左手には甲から前腕部まで伸びる長い切創が刻まれていた。腕を犠牲にして刺突を回避しつつ、その攻撃の隙を突いてあの斬撃を放ったのだ。肉を切らせて骨を断つとはまさにこれだ。
うおぉっ、と膝を斬られた男が叫び、襲撃者はそれをちらりと横目で見ながら走り去る。援軍が駆けつけると知り、撤退を優先したようだ。軽功を駆使したその後ろ姿はたちまち闇の中に消えていった。
「殿下!」
ほんのわずかに遅れて、十人足らずの兵士たちが駆け付けた。その先頭にいた皮鎧の男がその光景を目にするやぎょっとして叫ぶ。
「殿下、その脚は! ――おのれ、貴様この方を皇太子と知っての狼藉か! 今すぐその首を刎ねてやるぞ!」
瞬間、皮鎧の男は鋭い眼光で麗雲を睨みつけた。怒りなど通り越した、殺気を含んだ視線だ。その手が腰の剣に伸び、麗雲は再び身体を強張らせる。弁明の言葉など呼吸を忘れた喉から出てくるはずがない。しかも、皇太子だと? 殿下と呼ばれているからにはこの明光鎧の人物は皇族に違いないと察してはいたが、まさか皇太子であったとは。
シャッ、と剣を抜き放ち歩み寄ろうとする皮鎧を倒れ伏すその皇太子が呼び止める。
「よせ、
皇太子は身体を起こそうとして、しかし力尽きてその場にどっと倒れ伏した。皮鎧の男をはじめ、他の兵士たちも一斉にざわめく。やれ止血しろ、やれ医者を呼べだの怒号が飛び交う。
その様子を麗雲は黙って見ていた。その場から動けるはずがなかった。
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