三 夜の秘密

 相部屋の宮女たちが全員寝静まった頃を見計らい、麗雲はそっと寝床を抜け出した。足音を忍ばせある庭園に向かう。そこは昼間徐恵らが話していた承慶殿しょうけいでん、その裏庭である。ここは現在無人の宮殿であるため、見回りの兵もわざわざ巡回しない。人目を忍ぶのには絶好の場所だった。今夜までは。


 承慶殿に亡霊が出る――その一言に麗雲が心臓が飛び出すほどに驚いた。誰あろう麗雲自身が、夜な夜な承慶殿に足を運んでいたからだ。


 服の裾をひょいと持ち上げる。宮女の衣装は役職や階級によって多少の違いはあれど、基本的には青衣せいいと呼ばれる緑がかった色合いの衣装だ。着飾る機会も必要もない宮女の衣服は毎年二回支給されるそれしかない。なのでこの夜の外出にも青衣を着回すしかなかったのだが、さすがに夜闇にこの明色の衣装は目立ったか。


(別の場所を探さなければいけないけれど、それまではもうしばらくここに通うしかない)

 この習慣は一日も欠かすことができない。麗雲はぐるりと周囲を見回し、誰もいないことを確認してから壁に足を掛けた。


 麗雲には入宮以降、誰にも話していない秘密があった。武芸ができるのだ。この夜の外出は武芸の鍛錬が目的だった。

 麗雲がまだ実家で暮らしていたころ、近くの草庵に一人の尼僧が住み着いていた。麗雲はあるときこの尼僧が武術鍛錬に勤しんでいるところを偶然に見かけ、興味を持って弟子入りを志願した。尼僧は「女子が武芸なんて」と始めは良い顔をしなかったものの、決して駄目とも言わず、結局は麗雲を弟子にしてくれた。それから身を売られるまでの数年間、麗雲は尼僧を師父と仰ぎ数々の技を学んだ。宮官となった今でも、毎日欠かさず鍛錬していたのだ。


 圧腿じゅうなんから始め、基本わざ套路かたへと段階を上げてゆく。師の教えを離れてより数年、形だけは日々繰り返しただけ洗練されている。

 庭の中央には小さなちんがある。ひととおりの鍛錬を終えた麗雲は温まった体を月光のよく当たるその亭の石段の上に置き、結跏趺坐けっかふざを組む。両手を膝の上に置き、背筋を伸ばして呼吸する。

 これは調息ちょうそく、体内の気を意識して行う気功法だ。武芸を行うに必要な力には物理的な筋力、いわゆる外功がいこうと、体内で練る気の力による内功ないこうとがある。一流の武芸はその両方を兼ね備える必要があり、この気功法は内功を修練するためのものだ。とくに夜間は陰気が増す。麗雲は一呼吸ごとに陰気を招き入れ、体内へと取り込んでいった。


 静かに呼吸を繰り返していると雑念が頭の中に浮かんでくる。まだまだ極地には程遠い麗雲であったから、これを振り払うのは容易ではない。それにやはり、昼間の出来事がどうしても脳裏にちらついた。

(誰にも知られずにやってきたつもりだったけれど、まさか姿を見られて噂にまでなっているだなんて)

 承慶殿は楊怡が話した通り、今は亡き皇后が生前に暮らしていた場所だ。皇帝はこの皇后を深く愛していたため、新たな皇后をいまだ立てないのだと言われている。この承慶殿が無人であるのもそのためだ。

(広さもあって人気もない、ちょうどよい場所だと思ったのに。これからどこへ行けば良いだろう?)


 内息が濁る。雑念が多すぎたのだ。体内の気の運行には注意が必要だ。傍から見ればただ座して呼吸を繰り返しているだけのように見えるが、その内側では針孔はりあなに糸を通すような集中力が求められる。感情を揺れ動かしたり、集中力を途切れさせたりしてはならない。もしも気の流れを制御できなくなればそれは河が氾濫するかの如く、全身の気脈を大きく損なう恐れがあった。

 幸いにして今日の陰気は十分に取り込んだ。あまり無理をしても仕方がない。麗雲はゆっくりと呼吸の間隔を平常時のものに戻し、そっと瞳を開いた。


 その開いた視線の先、こちらを覗き込む顔がある。


「あ、起きたのね?」

「――っ!?」


 麗雲は驚きのあまり声も出なかった。後にしてみれば騒ぎを起こさずに済んだので声が出なかったのは幸いだったのだが、この瞬間は心臓が止まるかと思った。まさか意識を内側へ向けている間に、何者かがこんなにも近くにまで歩み寄っていたなんて。

「あ、あ、あ、あ、あ、あなたは!」

 驚きのあまりに結跏趺坐を解き損ねた麗雲は後退りもままならない。上体をほんの少し仰け反らせただけの格好で、目の前にしゃがみこんだ相手の姿を凝視する。

 誰と問うまでもない。麗雲はこの人物を知っていた。昼間に会った清寧宮の徐婕妤、徐恵じょけいである。


「また会ったわね。名前は、そう、飛麗雲! あなたが承慶殿の亡霊、その正体だったのね」

「どどどどどうしてあなたがここに?」

「楊怡が話していたのを聞いたでしょう? 私は先天の精気が不足しているから人一倍に後天の精気を養う必要があると。そのために毎晩ちょっとだけ散歩に出ていたのだけど、今日は承慶殿の噂が気になって寄ってみたの。でもまさかあなたがいるとは思わなかった。ねえ、あれは『蘭陵王』じゃない、本物の武芸を練習していたのね?」

 ぎょっとして麗雲はちぎれんばかりに頭を振った。

「ちちちち違います! 私はあの噂の真偽が気になって見に来ただけで――」

「そうなの? ではどうしてあそこの壁に片脚をかけて、爪先と顎をくっつけようとしていたの?」


 それは一番始めにやったことだ。つまり、彼女は今夜の麗雲の鍛錬を最初から最後までずっと見ていたということになる。初めから言い逃れなどできなかったのだ。

 麗雲は迷った。師父に聞かされた話によると、本来武芸の鍛錬は余人に見せてはならないものであるという。武芸とは技の秘匿が何より重要であり、敵に自らの技を研鑽されることはすなわち敗北に直結するとの考えだ。ゆえに、鍛錬を無断で覗いた者は必ず始末しなければならない。麗雲もかつて師父の鍛錬風景を目撃したとき、殺すか生かすかを本気で測られたのだ。


(鍛錬を見られたからには、この子を殺す? でもここは宮中よ。死体をどこに隠して、私はどこへ隠れたら良いの? そもそも人を殺せるほどの武器が手元にないわ。――ああ、麗雲よ麗雲、そもそも誰かを殺すだなんて、お前はなんて恐ろしい事を考えているの!)


 一人で勝手に混乱する麗雲をよそに、徐恵はこくりと首を傾げてその目まぐるしく変化する表情を見つめ、それからクスリと笑みを漏らした。

「おもしろい顔をするのね、あなた。ねえ、さっきやっていた型をもう一度見せてくれない? その棒を使ってやっていたやつよ」

 そう言って麗雲の隣に立てかけられた棒を指さす。これは折れた箒の柄を拝借し、剣に見立てて使っている物だ。全部見ていたならもちろん剣の套路も見られていたわけだ。

 意図せず見られただけならまだしも、見せてくれと言われて見せて良いわけがない。麗雲はどうにか断ろうと言葉を探したが、果たしてどうしたものか。


 徐恵もそれを察したらしい。麗雲が言うことを聞いてくれないので、にいっと口角を吊り上げてあからさまに意地悪な表情を見せる。

「嫌ならいいわ。見せてくれないのなら、尚宮しょうぐう尚書しょうしょへ夜中に出歩いている宮女がいると報告しちゃうから!」

「そ、それだけはお許しを!」

 尚宮尚書とは宮官の長だ。麗雲の武術鍛錬は許可を得ずに勝手にやっていること、たとえ誰に迷惑をかけているわけでなくとも、夜間の無断外出を尚宮尚書が耳にすれば厳罰は免れない。


 しぶしぶ棒を手にした麗雲は剣の套路を軽く演じてみせた。最初に覗き見されていたのだから手を抜けばバレてしまう。そこで力はしっかり込めつつも、途中の動きを大きく省略して三分の一の長さに切り詰めた。思惑通り徐恵はそれに気づかず、小さく手を叩いて褒め称えた。

「すごいわね! とっても滑らかで綺麗で、それでいて力強い動きだわ。それにとても理にかなっている。途中にあった、上から振り下ろすと見せかけて、すぐに手首を返した動き――あれは上方を守らせて開いた腋を突く技ね? それに脚を狙って下がった頭を斬り上げる技もあったかしら」

「たった一目でそれがお判りに?」

 その何気ない一言に麗雲は驚いた。麗雲が演じた套路の中に確かにそのような動きは含まれている。だがそれを一見しただけで見抜くとは。


「言ったでしょう? あなたの動きがとても美しくて、だから相手の動きも私に見えたの。私は武芸を何も知らないけれど、あなたはきっと強い人なのね」

 これまで黙々と誰にも知られず鍛錬を続けてきた麗雲である。この夜、はじめて他人に腕前を褒められ嬉しくないはずがない。照れくさくなって右肩に頬を擦り付けた。麗雲が物事を誤魔化そうとする際に思わずやってしまう癖だ。


「――うん、うん。それがいい、これがいい」

 徐恵が何やら考え込んでから、そう呟いて顔を上げた。さっと麗雲の正面に立ち、その両手を強く握りしめる。


「決めたわ。あなた、私に武芸を教えなさい!」

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