二 承慶殿の亡霊

 徐恵じょけいは茶杯を干すや、タンと作業台に叩きつけて目を輝かせた。


「なんておもしろそうな話! それはどれくらい確実な話なの? 私も参加できるかしら?」

 あまりの食いつきぶりにようは思わずのけ反っている。

「婕妤は武芸がおできになるのですか?」

「そんな、できるわけないわ」

 何を当たり前のことを、と言わんばかりに答える徐恵。楊怡はこれをどう受け止めるべきやら苦笑いを浮かべる。


「私は先天の精気が不足しているから、よく食べよく運動して、後天の精気を人並み以上に養う必要があるといつも言っているのは楊怡でしょう? 身体を動かすことが肝要なら、武芸はまさにおあつらえ向き。そう思わない?」

 楊怡は渋面を浮かべて言葉を探した。

「確かにそうは申し上げましたし、武芸にはそのような側面もございます。ですがこれは皇太子の妃を選ぶのですから、参加できるのは東宮とうぐう妃嬪ひひんか、新たに集められた娘たちだけでしょう。後宮の妃嬪はすべて陛下の妃なのですから」

 むぅ、と徐恵は唇を曲げて黙り込む。

「ただ囲碁のお相手をするばかりでいまだに守宮砂しゅきゅうさを残す私が、陛下の妃だなんて言えるのかしら?」


 守宮砂というのは特殊な薬品による刺青いれずみのようなものだ。妃嬪は入宮の際にこれを左の内肘のあたりに押される。これは洗ってもこすっても落ちることはないが、体内で陰と陽との気が和合した場合に限りたちどころに消え去るという特性を持つ。陰陽の和合とは、すなわち性交だ。ゆえにこれは純潔の証であった。皇帝の側室が他の男性との関りを持っていないことを示す証だが、裏を返せば皇帝に見向きもされていないことの証でもある。妃嬪の務めは皇帝の血脈を守ること、つまりは子を成すことである。いつまでも守宮砂を残すようではただの穀潰しだ。


 これはどうやら虎の尾を踏んだらしい。楊怡はさっと顔色を変えて言いつくろった。

「婕妤の位に封じられたのはその聡明さと書の巧さを陛下が認められたからです。同時期に入宮した誰よりも寵愛を受けておられるのですから、きっとお情けを頂戴する日も近いでしょう」

「どうかしら。私、思うのだけど――陛下はもう衰えていらっしゃるのでは?」


 麗雲は危うく指先を針で突き刺すところだった。いったいこれはどんな話題になっているのだろう。こんなところで皇帝の夜の営みについて聞かされるとは。

(たしか陛下は御年四十そこらだったはず。世の男性というのはそのあたりから陽気が衰えるものなのかしら?)


 麗雲があらぬことを考えている横で、楊怡は目を白黒させて左右を見渡す。他にこの会話を聞いた人間はいないだろうかと警戒している。

「今の言葉が誰かに聞かれでもしたら大事です。良からぬ疑いなど口にしないでくださいませ」

 ちらり、とその視線が麗雲を見た。言わんとしていることは即座に理解できた。麗雲はさっと視線を手元に落として作業を続け、何も聞いていないていを装った。この内廷で長生きするコツは何を見聞きしても知らぬ存ぜぬでいることだ。


 ふん、と鼻を鳴らして肩を落とす徐恵。それからすぐににやりと笑みを浮かべた。

「いいわ。私は陛下のもので、武術大会には出られない。それなら楊怡、あなたが出場してみたら? うん、それがいい、これがいい!」

 これまたとんでもないことを言い出した。楊怡は目を真ん丸にしてぶんぶんと頭を振った。

「ご冗談を! 私に武芸なんてできるはずがありません。それに出自があまりにも卑しすぎます」

「出自がどうとか言い訳にするんじゃないの。出自なんて、徐家の養子にでもなれば適当にごまかせるわ。それにあなたは宮女ながら医学に精通している。人体について見識が深いということは、武芸にも有利なのではなくて?」

「そんな、私は、私は……」

 楊怡は動揺しきって返す言葉もない。徐恵はそれを見て大笑いし、やさしくその肩を撫でて慰めた。


「冗談よ、冗談。安心して。私はあなたに無理強いなんかしないから。それにしても、文徳皇后が亡くなられたのはもう五年も前のこと。それが今さらになってその遺言を果たそうだなんて、どんな風の吹き回しかしら?」

 安堵の息を吐いてから楊怡が答える。

「先日、文成ぶんせい公主こうしゅ吐蕃とばん降嫁こうかされました。我が国と吐蕃とが対立すれば世の大乱は必至、ですがこれでしばらくは安泰です。それでようやく陛下も身内の問題に目を向ける余裕ができた……というのが建前で」

 徐恵へまた注ぎ足した茶杯を運ぼうとした手が止まる。楊怡は口元に手を添えて、しかし声量はそのままに。


「このところ承慶殿しょうけいでんに亡霊が出るらしいのです」

「――あっ!」


 突然の声に徐恵はびくっとして茶杯の中身を手元にこぼしてしまった。楊怡が慌てて手巾で濡れた手首を拭くが、茶は袖に染みを作ってしまった。大声を上げたのは麗雲だ。その指先に赤い珠が膨らんでいる。針で刺したのだ。


「申し訳ありません。手元が狂ってしまって」

「針仕事に慣れていてもそんなことがあるのね。大事ない?」

 宮女の指先がどれだけ荒れ果てようと気にしないのが普通であるところ、徐恵は寛大にも麗雲を心配してくれた。

「私は大事ありません。それよりもお召し物が」

「これくらい大丈夫よ。外出にはまた別の衣装を着るつもりだったから」


 徐恵らは気づいていないようだ。麗雲は声を発してしまってから、わざと言い訳を作るために指を刺したのである。麗雲は平身低頭してまた作業に戻る。


「えーっと、それで、何だったかしら? 承慶殿に亡霊が出ると言ったの?」

「そうです。承慶殿は生前に文徳皇后さまが住まわれた宮殿、そこに夜な夜な女性が現れては『蘭陵王らんりょうおう』を舞っているのだとか」

 ふーん、と言いながら徐恵は顎に手を添えて考え込む。


「皇后さまは確かに『蘭陵王』の舞が得意だったと聞いたわ。あれは武人が戦場に立つ様を模した力強い動きだから芸妓でも習得している踊り手は少ない。今の後宮で満足に踊ることのできる人間は限られるでしょうね」

「なのでその亡霊は文徳皇后さまその人であり、お姿を現したのは遺言がいまだ果たされないことを恨んでのことではないかと、そのような話が上がったのです」


 なるほどね。徐恵は納得したように杯を口に運ぼうとして、そこでようやく先ほど中身をこぼしてしまったことを思い出した。その隣でちょきんと麗雲が糸を切る。

「お待たせいたしました。これでいかがでしょう?」


 麗雲は補修した帷帽を徐恵に差し出した。急ぎの仕事にしてはなかなかの出来だ。徐恵もこれには顔をほころばせて喜んだ。

「素敵だわ! ありがとう、これで曲江池きょくこうちの散策に行ける」

 宮官とは内廷に囚われた奴隷のようなもの。雑事はやらされて当たり前なのに、まさか妃嬪から礼を言われるとは思ってもいなかった。それにやっぱり、自身の腕前を褒められて悪い気はしない。麗雲の頬はほんのちょっぴり赤くなった。気づけば恥ずかしさで右頬を肩に擦り付けている。


 徐恵は足取りも軽やかに作業場を出ようとして、直前でふと振り返った。

「そういえばあなた、お名前は?」

「私は姓を、名を麗雲と申します」

「その名前は覚えておくわ。また機会があればよろしくね」


 麗雲はその場に伏して礼を述べ、徐恵らが退室するのを見送った。扉が閉まる音を聞いてからようやく顔を上げる。妃嬪の衣服を補修する、ひとまずはこの重責を果たすことができたし、名前も覚えてもらえた。今後何かしらの贔屓が期待できる。そうなれば少しはこの内廷での地位も上がるかもしれない――などと、通常は考えるところであるが。


「――承慶宮の亡霊、ね」


 麗雲の関心はむしろそちらにあった。

 それもそのはず、麗雲は確信していたのである。二人が話していた亡霊とやらの正体は、自分自身であると。

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