後宮武侠物語

古月

一章 比武召妃

一 破れた帷帽

 白粉おしろいの香り、それに混じるほのかな甘み。唇紅と額に押された花鈿かでんの赤色は嫌が応にも視線を誘う。作業台を挟んだ向こうに座った少女の仕草はムダがなく、同性ながら麗雲れいうんはしばし言葉を忘れた。


「見て。このの一部を引っ掛けて破いてしまったの。これを急ぎ修理してもらえないかしら? あいにくと私の侍女は針仕事が苦手で」


 少女が身を乗り出すと、むにゅ、と作業台の上に柔らかな膨らみがこれ見よがしに乗った。麗雲は努めてその膨らみの合間を見ないようにしつつ、差し出されたそれを受け取る。少女は麗雲よりも小柄だ。ぐっと背中を丸めて相手よりも頭を低くした。


 それは帷帽いぼうと呼ばれる、幅広のひさしからすだれのように薄紗うすぎぬを垂らした被り物だった。その左耳の位置、薄い布地が無残に裂けてしまっている。


 麗雲は少し考えて、それから少しずつ言葉を選んだ。

「紗の生地はとても薄くて、私の腕では破れ目を見えないようにつくろうことはできません。紗そのものを取り換えるのであれば可能です。いつまでにお直しすれば良いのですか?」

「それが、どうしても今日の外出までに直してもらいたいの。これが一番のお気に入りなのよ。どうにかならないかしら?」


 麗雲は心中密かに毒吐いた。無茶を言ってくれる。紗を取り換えるには帷帽との縫い目を一度解き、それをまた元の通りに縫い直さなければならない。いくら麗雲が針仕事に慣れていると言っても、神仙でもあるまいに、無理なことだ。

 ところが困ったことに、それをそのまま告げることはできない。麗雲は今一度ちらりと顔を上げ、少女の全身を観察した。


 胸までの丈がある薄青の長裙スカートに空色の帯。同じ薄青の大袖だいしゅう紗羅さらを羽織ってはいるものの、紗の生地は薄いため白い肩が露わだ。この手の裙の下には肌着を着けないものであり、絞られた胸元にはくっきりと柔らかそうな二つの膨らみとその間隙がある。世の男性は肉付きの良いふくよかな女性を好むと聞くが、彼女はまさにその条件を満たしていた。

 次に容貌を見る。こちらを見つめ返す目はぱっちりと大きく、額の判を押したような紅の花鈿かでんと口紅が鮮やかに目を引く。肌はきめ細かく、白粉のせいもあってか雪と見まがう。長い髪を頭の上で結い上げ、その毛並みは小川のように艶やかに光を反射しつつ緩やかなうねりを有しており、銀のかんざしが五色の玉を連ねて揺れていた。


 仮に麗雲が内廷の衣服を司る部局に属していなかったとしても、この装いを見れば少女の身分がとても高貴なものであるのは一目瞭然だった。


 彼女は自らを清寧宮せいねいきゅうの主、じょ婕妤しょうよことじょけいであると名乗った。婕妤とは後宮に暮らす皇帝の側室たち――妃嬪ひひんの封号の一つである。全体的にまだ幼い雰囲気を有しておりきっと麗雲よりも年下だろう。それでも身分の上下は年功序列を容易に覆す。


(麗雲よ麗雲、どうしてお前はこんな日に、たった一人でお勤めをこなそうなどと考えたの? ここで返答を誤ればこれまでの苦労も水の泡、余生を陵園はかばのお世話をして過ごすことにもなりかねない)

 誰かに助けを求めようにも、あいにくとこの場には麗雲と少女徐恵のほか、彼女が連れてきた侍女が一人しかいない。本来ならば百人近い宮女が従事する広大な作業場の中で、今日の裁縫の職務に従事する宮女は麗雲だけだ。


 今日は三月三日、上巳じょうしの日。風は暖かく水もぬるむこの時期、皇城に勤務する三万人近い宮官ぐうかんにとってこの日は一年の中でも特別だった。普段は外界から完全に切り離されて生活している彼らが、唯一肉親との再会を許された日なのである。こんな日にまでわざわざ仕事場に出てくる人間はかなり奇特と言える。

 そんな奇特な一人である麗雲がいつも通りに仕事場に出たところ、やってきたのがこの徐恵だ。いつもならば上官の太監たいかんが応対に出るところ、麗雲が直接顔を合わせるはめになった。


 麗雲は右頬を肩に擦りつけて考えることしばし、仕事道具を入れた箱から引き出しを一つ開けた。中から取り出したのは布製の小さな花だ。

「これは私が端切れを使って作ったものです。これを被せるようにして縫い付ければ、誰もその下に破れ目があるなどとは思いません。大きいものでもありませんし、ほんの少し目は惹いても悪目立ちはしないかと」

 徐恵はぐいっと麗雲の手元に顔を寄せると、ぱっと顔を輝かせた。もとが整った顔立ちであるだけに、それだけで麗雲は目の前が明るくなったように錯覚した。

「まあ、かわいいお花! いいわ、やって頂戴! お邪魔でなければ終わるまで待たせてもらうわね」


 ダメ元で提案してみるものだ。破れ目の補修、それも飾りで誤魔化して良いとなれば実に簡単なものだ。麗雲は早速、紗と同じ色合いの糸を選び出し、針に通した。


 麗雲が補修に取り掛かると、徐恵とその侍女は隣の空いている作業台の前に座ってくつろぎ始めた。侍女は持っていた手提げ箱を開いて数点の菓子を作業台に並べる。まるで自身の宮殿にいるかのような振る舞いである。侍女はさらに手提げ箱から鉄瓶を取り出し、小さな杯に中身を注いで徐恵に差し出した。どうやら茶であるようだ。


「ただ黙って待っているのも退屈ね。よう、何かおもしろい話はないかしら?」

 徐恵が問うと、楊怡と呼ばれた侍女はしばし考え込む。

「そうですね……ときに婕妤しょうよは皇后娘々さまのことをご存知ですか?」


 聞き耳を立てずとも二人の会話は耳に入ってくる。麗雲は気にせず手元の作業を続けた。


「もちろん知っているわ。文徳ぶんとく皇后のことなら後宮で知らぬ者なしよ。私が入宮したのは皇后さまが亡くなった直後で、実際にご尊顔を拝したことはなかったけれど、皇后さまが記した『女則じょそく』は何度も目を通したもの」

「皇后さまは賢夫人でした。皇上が建国の大業に関わっておられた頃から支え続けてきたのですから。夭折されてしまったことは本当に惜しいことです。陛下が次の皇后位を立てられないのは、皇后さまに勝る女性を見出せないからと誰もが知っております」

「それと興味深い話とは、どんな関係があるの?」


 ふうっと茶杯に息を吹きながら徐恵が問うと、楊怡は微笑を浮かべ、指を立てて唇に添えた。

「どうやらこのところ、皇后さまが唯一この世に残された未練を果たそうとの動きが出てきたようなのです」

「皇后の未練? それはなに?」

「皇太子妃を選ぶことです」

 楊怡の言葉に、徐恵はやや困ったような表情で「あー」と息を漏らした。


 皇太子妃が現在空位となっていることは皇城の誰もが知っている。本当は皇太子立位の際にはすでに妃がいたのだが、皇太子はこの妃とどうにも性分が合わなかったらしく、長く持たずに廃位――すなわち離縁してしまった。それ以来、皇太子は妃を選ぼうとはせず、生母たる文徳皇后もすでに亡くなっているため、他の側室らが次の妃を娶るよう諭してもまったく聴き入れないという話だ。


「皇后さまは病で亡くなられる直前に、このように述べたのだそうです。曰く――皇太子の妃には強い女子がふさわしい、と。その意はきっと、病に伏してしまわれた皇后さまが御身をかえりみられ、体が丈夫で健康な女性を妃とするべき、との意味に違いありません。ただ、この御言葉を聴いた太監がどうにもそのままの意味で受け取ってしまったようで……」

 ここで楊怡はやれやれと頭を振った。肩を落とし、心底呆れたと体で示しながら。


「このたび、皇太子妃を選出する武術大会を開催しようとしているのです!」

「武術大会!」


 麗雲の針を刺す手が止まった。

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