流星のアスクアクト

柳 真佐域

第1話『流星が降った日』

「助けて」

 真っ暗な闇の中で涙を流しながら、助けを求める少女の姿がある。その寂しそうな姿は、見ているこっちの方が心細くなる。その涙を拭おうと手を伸ばす。でもその手は、人間の手の形はしていなかった。それでも人差し指を伸ばして涙を掬い取る。太く白い怪物の手で。彼女はその手に縋り付き笑った。

 そこで目が覚めた。

「お兄ちゃん、いつまで寝てんの~? 入るよ~」

 妹のサエが部屋に入ってくる。

「お兄ちゃん? なんだ、起きてる……って何、泣いてんの」

「え?」

 言われて気が付く。自分の目から涙が一筋流れていた。

「大丈夫? 変な夢でも見たの?」

 サエは心配そうに顔を覗き込んできた。慌てて涙を拭った。

「大丈夫、なんでもないから。すぐ着替えて降りるよ。パン、トースターに入れといて」

「2枚?」

「1枚でいいや」

「わかった。ついでにコーヒーも淹れてあげるから顔も洗ってきなね」

「はいはい」

 しっしと手で追い払うと、サエはブーとむくれて部屋から出て行った。上げていた右手を見る。特に何の変哲もない高校生の手だ。変な夢だったな。時計を見る。あまりゆっくりもしていられない時間だった。急いで着替えを済ませて、階段横の洗面台で顔を洗う。その頃には少女の顔も忘れてしまっていた。


「父さん、おはよ」

「今日はずいぶんゆっくりしたご起床だな」

「なんか変な夢見てたような気がするんだけど」

「お兄ちゃん、朝から泣いてたんだよ」

 サエが自分の食べた食器を洗いながら意地悪そうに言った。

「アクトもまだまだ思春期だな」

「もう17なのに恥ずかしいよね~」

「うるさいな、たまにはそういうことがあってもいいだろ」

 トーストに齧り付きながら顔をしかめる。

「母さんは?」

「昨日も会社に泊まり込んで仕事だ。締め切りが近いからな」

「うちは父さんがちゃんと稼いでるんだから無理に働くことないのに」

「そう言うな。好きでやってることだ。家の中に閉じこもっている性格でもないしな」

 父さんは胸ポケットの煙草を弄った。

「お父さん、タバコは外で」

「はいはい。それよりお前たちこんなにのんびりとしていていいのか?」

「やば。ごめん、父さん。食器洗ってもらえるかな」

 慌ててトーストの残りと、出されていたサラダをかき込んだ。

「お兄ちゃん、行儀悪い。先行くよー」

 サエは足早に玄関へと向かった。

「今日は帰り遅いんだろ?」

「うん、今日だからね。流星群」

「多少の夜遊びは構わんが、あんまり遅くならないうちに帰って来いよ」

「わかった。行ってきます」

 足早にスニーカーをつっかけると学校へと急いだ。


 急いで家を出ると、玄関先でサエが野良猫と戯れていた。

「お前、こんなとこで遊んでていいのか?」

「むー、せっかく待っててあげたのに」

「ありがと。でも駅まで全力疾走だぞ」

「よーし、サエちゃんの本気を見せてあげよう」

 サエは通っている中学の陸上部のエースだ。こないだも大会があって入賞していた。

「お前の専行、短距離だろ? 途中でばてるなよ」

「帰宅部のお兄ちゃんには負ける理由がないかな。ねぇ、今日流星群見るんでしょ? どこで見るの?」

「秘密。俺がせっかく見つけた穴場なんだから。ツケるなよ。お前は門限あるんだから」

「うちはお兄ちゃんには甘いよね」

「お前は女の子なんだから厳しくて当たり前。夜遊びするような不良にはなるなよ」

「自分の事棚に上げて。高校生になったらバイトとかしようかな? そうすれば少しは門限伸びるよね」

「小遣いで我慢しろよ。若いうちから働かなくたって、そのうち嫌でも働くことになるんだから」

「そんなこと言って、お兄ちゃんが隠れてアルバイトしてるの知ってるんだからね」

「もうしてない」

「今してないからいいってことじゃないでしょ?」

「あ、やば。電車来るぞ。急げ」

「ちょっとまだ話は終わってない!」

 急いで改札を抜けて階段を駆け上りは降りる。その頃にはサエに抜き去られていた。ホームに足が着地する頃には電車は速度を緩め、既定の停車位置へと向かっていた。

「アクト、遅いぞ!」

 視線の先でタクヤが手を振っていた。タクヤは同じ高校に通う旧友だ。切れた息を整える暇もなく走り出した。


 何とか電車に滑り込んで、閉まったドアに凭れていると、トレインニュースが目に入った。『今夜はペルセウス座流星群! 新月で月明かりに遮れない流星鑑賞は今日が見ごろ。北東の空に流れる星々にあなたは何を願いますか』

 そう、今日はペルセウス座流星群の見ごろのピーク。一時間あたりに40個以上の星が流れる。この日の為にバイトの給料を貯めて買った天体望遠鏡があった。今日はそれで流星を見る。星を見るのが好きだった。星を見ていると、ここじゃないどこかに行ける気がした。尊敬できる父、顔を合わせることは少ないが、たゆまぬ愛情を注いでくれる母、おせっかいで世話焼きの妹。今自分は何不自由ない普通の暮らしが出来ている。だが、どこか違うような違和感をこのところ感じている。その違和感は大人になったら消えていく感情なのだろうか。帰り道で仲間と食べるハンバーガーや好きなアーティストの新曲を聞いても、それはむしろ強くなるばかりなような気がする。自分が本当はもっとやれる奴なんじゃないか、なんてのはただのモラトリアムと変わりがない。そんなくだらない感情がなくなっていくように日々を消化するように過ごしている。でも本当はそっちの方がずっとくだらないことなのかもしれない。


「流星群、見に行くのか?」

 放課後になってタクヤが声をかけてきた。

「行くよ、行かなきゃ損する気がする。それに穴場も見つけたんだ」

 教科書をカバンに詰めながら言った。

「穴場ってもしかして青姦山じゃないよな? あそこは最近幽霊出るって言われてて危ないぞ」

「なんだよ、幽霊って。子供じゃあるまいし今更怖い訳ないだろ」

「だからってなぁ……」

 タクヤが顔をしかめていると、

「タクヤ君、帰ろう」

 と、タクヤの彼女のマドカが教室の後ろのドアから顔を出した。

「なんだ、デートかよ」

「野郎と二人で星を眺める趣味はねぇよ」

 タクヤが席を立つ。

「志鷹」

「はい。げ、カネ先」

 担任の香苗が教室の正面出口で睨んでいた。

「ちょっと職員室来い」

(おい、もうバレたのか?)

(誰かがチクったのかな?)

「忙しいんだ、早くしろ」

 香苗は苛立った声を残して先に行ってしまった。

「とりあえず行ってみる。何にもなければそれでいいし何か言われてもしらばっくれてやる」

「頑張れよ、俺は帰るからな」

 タクヤも肩にカバンをかけた。

「なんだ、待っててくれないのか?」

「来年には受験だぞ。帰って大人しく勉強するよ」

「薄情なやつだ。まぁいい、じゃぁな」

「明日何で絞られたか聞かせてくれ」

 タクヤはそう言うとマドカの肩を抱いて手を振った。

 それを眺めながら職員室へ向かった。


「失礼します」

 中に入ると、窓際の席で香苗が書類をまとめていた。

「先生、なんですか?」

「なんですか、じゃねぇ。お前だけだぞ、進路希望出してないの」

 そう言って香苗は名前だけが書かれた真っ白の進路希望調査表を出した。

「進学校なんだからそう迷うこともないだろ。お前は成績だって悪くないんだし」

「大学に行ってまで勉強するってのがあまりピンと来なくて」

「ピンと来なくても時は進むんだ。大学に行けばその間にその先を決める猶予がもらえる。今悩んで将来何をやるのか分からないなら、肩書だけでもまともなところに入ってもう四年そこで考えろ」

「先生はあんまり僕たちの事真剣に考えてくれないんですね」

「可哀相ぶるな。俺はただお前らが卒業するまでトラブルなく過ごせればそれでいいんだよ」

「それよりカネ先、大学の準教授だったのってマジ?」

「マジだろうが、そうでなかろうがお前には関係のないことだ」

「何専行してたの?」

「社会歴史学」

「面白かった?」

「勉強するのは楽しかったけど、それだけじゃダメだったからここにいる。大人は色々大変なんだ。分かったらもう行け。明日までに第三希望まで書いて提出。それとタメ口も直せ。社会に出たら通用しないぞ」

「はーい」

 突っ返された自分の進路希望調査表を持って職員室を出た。夜まで時間がある。書店で漫画を立ち読みして、手ごろなファストフードで腹ごしらえをして、考えるのはそれからでも遅くない。昇降口を出て自転車の鍵を外し、街へと繰り出した。


 夜になって、天体観測の準備を整えて、山へと入った。ライトの明かりを頼りに、自転車を押しながら山道を抜ける。展望台ではない、なぜかそこだけ少し開けていて遮蔽物の無い絶好のスポットへ着いた。

 早速天体望遠鏡をセットする。時間はまだ早い。買っておいた缶コーヒーを飲みながら待つことにした。進路希望のことも考えた。大学に入れば、勉強はもちろんサークル活動にいそしむ者もいれば、途中で辞めていくやつもいるだろう。勉強を続けていけば院に行ったり、研究職に就くのかもしれない。人付き合いが上手いなら、人脈が築けていい仕事を紹介してもらえる足がかりが作れるかもしれない。辞めたとしてもその先の人生がそこで終わるわけではない。今何かを決めることで、自分の可能性が潰れて狭まっていくのが理不尽に思えた。子供の頃はあんなに自由だったのに。いっそ正義の味方とでも書いて提出してしまおうか、などと考えていると、一つの星が空に流れた。

 始まった。天体望遠鏡にかじりつき、次の星が流れるのを待った。また流れた。今日は雲一つなく広い空を隈なく見ることが出来た。こい、こいと待っていると、一つの大きな星が流れた。それはゆっくりとどんどん大きくなって迫ってくるようだった。凄い、こんなにはっきりと見れるなんて。流れる星の美しさをこんなにも間近で見ることが感動だった。しかし、流星の様子がおかしい。本当にこっちに迫ってくるようだった。天体望遠鏡から目を離し、肉眼でも見てみる。流星は尾を伸ばして確実にこちらに向かっていた。そしてあっという間に地表へ、眼下の街へと流星が落ちてきた。

 爆風のような物凄い衝撃波が生まれ、山の上のここにまで押し寄せてくる。この世のものとは思えない光景が広がる中、

「え?」

きらりと光る何かが胸を貫いた。後ろに吹っ飛ばされて激痛の中、意識を失った。


「お兄ちゃん!お兄ちゃん!しっかりして」

サエの声がストレッチャーに横たわるアクトに向けて掛けられる。ストレッチャーはそのまま手術室へと入り、サエの侵入を遮った。青から赤に変わった手術中のライト。紗枝は泣きながら待合室の椅子で必死に兄の無事を祈った。


 目が覚めるとそこは病室だった。窓から見える外はちょうど朝日が昇ってきたところのようだった。ベッドの横の簡易ベッドで眠るサエがいた。物音で気が付き、サエが目を覚ました。

「お兄ちゃん!良かった。生きてたんだね」

「俺は……」

「街に流星が落ちてきたんだよ。覚えてない?」

「天体観測をしていて、何かに貫かれた」

「そう、流星の破片が飛んできて、お兄ちゃんは倒れてたんだよ。見つけてくれた人がいて、その人が応急処置をしてくれたからよかったけど。ベッドが空いてて良かった。今、病院は流星の被害ででた怪我人で一杯だから。すぐ先生呼んでくるね」

 そう言ってサエは病室を出た。患者着を捲って胸を見る。胸には何かが当たって出来た傷があった。確かに心臓を貫かれたはずだ。その割に傷は大したことの無いように見えた。医者の先生が病室に入ってきた。

「目を覚ましたね。傷は深かったけど一命をとりとめることが出来た。眼を見るよ。まっすぐ前を見ていて。次に口。開いて。よし。胸の音を聞かせてくれ。……問題ないようだね。痛むところはないかい?」

「いえ、特には」

「あれだけの傷があって実に不思議だね。明日検査をするが、動いても問題がないならその様子じゃ二~三日で退院できるかもしれない。君の家は外科のクリニックだったね。問題がないならそちらで経過を見てもいいかもしれない。怪我人に悪いが、ここもベッドを使いたい人で溢れている。じゃ、あとのことは看護婦に」

「ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 医師は早足で病室を出た。

「お兄ちゃん、ほんとに何でもないの?」

「……あぁ」

「なんか、怖いね。でも、そうも言ってられないか。家に連絡してみる。お父さんもお母さんも忙しいとは思うけど」

 そう言ってサエもまた病室を出た。ここからの景色では流星が落ちた場所の様子は分からなかった。あの時見たのが本当の事だったのか。まだ半信半疑な自分がいた。


 二~三日して本当に退院することが出来た。痛み止めや抗生剤なんかも貰ったが、特に症状はなく必要ないようにも思えた。家に帰ると、父がソファで仮眠をしていた。二人が帰ってきた様子に気が付いて、体を起こした。

「アクト。本当に体は大丈夫なのか?」

 夜も休みなく怪我人の治療をしていたのだろう。目の下には色濃いクマがあった。

「なんともないから帰された。精密検査もしてもらったし大丈夫だと思うよ」

「そうか。ならよかった」

「俺もサエも静かにしてるからもう少し寝ててよ。起きるころには飯作っとくからさ」

「あぁ、頼む」

 サエと共に二階へ上がった。病室を出れるようになって、病院の屋上から流星の落ちた跡を見ることが出来た。放射状に建物がひしゃげ、そこだけが綺麗に丸く破壊されていた。その中心は霧がかかっていてよく見えない。病室のテレビでニュースを見たが、霧の中がどうなっているかはわからないようだった。霧の中は電子機器が使えなくなるらしい。隕石の調査より、まずは被災場所の怪我人の救助が優先だった。インフラの復旧や復興はその後の事だろう。通っている学校も跡形もなくなくなってしまった。臨時の校舎が出来るまでは自宅待機ということになった。一夜にしてそれまでの日常が非日常へと変化してしまった。

「お兄ちゃん、入るよ」

「あぁ」

 サエが今にも泣きそうな顔をして部屋に入ってきた。

「どうした?」

「学校の友達のリカがさっき息を引き取ったって連絡があった」

「そうか。一度は助かったのに残念だったな」

「もう一体何なんだろう、あの流星。テレビではいつもと変わらない流星群だって言ってたのに」

「こんな事態になったのが予測できなかったのかって防衛省の政治家が責められていたな」

「普通じゃないよ、こんなの。病院で待ってるとき、お兄ちゃんまで死んじゃったらどうしようかと思った」

「心配かけて悪かったな。もう大丈夫だ」

「お父さんにもお母さんにも連絡がつかなくて。ほんと、一人でどうしたらいいのか分からなかった」

「これからは俺がいる。どこにもいかないから安心しろ」

「うん」

「父さんに飯を作るって言ったけど食材はあるのか?」

「お味噌汁とご飯とお漬物くらいなら出せると思うけど」

「食材も炊き出しとかで手に入らなくなるかもしれないから、今のうちに買いに行っておこう」

「わかった。一緒に行ってもいい?」

「そうだな、二人の方が荷物を持てるしな」

 サエはまたブーと膨れてそれでも笑顔に戻った。

 買い出しをするスーパーまでの道、救急車やパトカーのサイレンが響いていて物々しい雰囲気があった。流星の被害はこの街にはないが少なからず影響は出ている。浮かないサエの表情を見て、思いつく話題を適当に見繕って話した。

 学校のこと、友達のこと、こないだ食べたサエの作った卵焼きが美味しかったこと。これと言って意味のない他愛のないことだった。

「お母さんも今頃大忙しだろうね」

「しばらく帰れないかもな。医者だって手が足りないだろうし、父さんが倒れないように俺たちでしっかり支えないとな」

「うん。ねぇお兄ちゃんはお医者さんになるつもりはないの?」

「ん~考えたことはあるけど、なりたいと思ったことはないな。目指して勉強もしてないし。人を救うことは立派なことだと思うけどな。母さんのこと見てると人は好き勝手生きてる方が幸せなのかなとも思う」

「じゃぁ、何か好きなことないの? 漫画とか本は昔から読んでるじゃん」

「仕事にしたいほど熱をもって見てないよ。ただの息抜き。娯楽の一つだ。お前こそ何かやりたいことはないのか?」

「私は、お父さんの手伝いが出来たらなって思うよ。女医は難しいかもだけど、看護婦くらいだったらなれると思う」

「じゃぁ親孝行はサエに任せた。俺は普通にそこそこの会社に入って、一人暮らしでもして、貯金を貯めながら彼女でも作るよ」

「家出たいの?」

「継ぐわけでもないのに、いつまでも家にいるわけにもいかないだろ。それに何の意外性もない普通のことだよ」

「そっか」

 スーパーに着いた。思っていた通り食料品から消耗品まで商品が目に見えてなくなっていた。普段、メニューを考えて食材を選ぶなんてあたりまえのことが、とても贅沢なことなんだと思った。仕方がないから余りものを籠に入れてレジを済ませる。

 店を出てサエがいつの間にか籠に入れていたチュッパチャップスを、二人で一つずつ舐めながら帰路に着いた。

「なに…あれ」

 サエが怯えた声で言った。視線の先には路地から染み出た血だまりがあった。

「嘘。血だよね? あれ。何か事故でもあったのかな」

「なんだろう。回り道するか?」

「大丈夫、なるべく見ないようにするから」

 帰り道はここを真っすぐ行くしかない。恐る恐る血のある方へ近づく。警察や野次馬の一人でもいてもいいはずなのに、通りは静かなものだった。すると、ムッと血の匂いが濃くなった。路地の先には血だまりの他に、人の手や足、ぶちまけられた臓物があった。

「キャーーーーーーー!!」

 サエが悲鳴を上げた。ネットで見るようなグロテスクな動画の何十倍も気持ちの悪さがこみ上げる。思わず目を背けるが、脳裏には既にその光景が鮮明に焼き付いていた。まるで肉食獣に食い散らかされたような凄惨さがある。人の残骸と血だまりは、道の先まで転々と続いている。サエを一刻も早くこの場から遠ざけないとと思った。サエの手を引っ張って反対の道へと走った。サエはショックで涙がこぼれていて、それを拭いながらついてきた。あんなものただの事件や事故では済まされない。震えるほどに得体も知れない恐怖がこみ上げてきたが、一人ではないとこで、なんとか平静が保てた。

 しかし、それはいた。逃げた方向は、そいつが来ていない道ではなく、通り過ぎた後だったのだ。女の人であったものが、悲痛の表情を浮かべて道に転がっている。その先に、女の人の残りの体を貪る怪物がいた。ウナギのような艶のある黒い肌と、サメのような牙、それに鋭い爪。内臓を喰らっては、カニの足でも食べるかのように、人の手足をもいで食べている。声を上げたくなるような衝動が襲ったが、何とか堪えて同じように声を上げそうになっていたサエの口を塞いだ。そいつはまだこっちには気が付いていない。ゆっくり摺り足で後ろに下がる。ゆっくりと、ゆっくりとそいつから離れる。すると、サエが後ろ足で空き缶を蹴っ飛ばしてしまった。カランカランという音と共に、そいつの目が開いた。目は顔の横に六つも着いていた。

「走れ!」

 声を張ってサエを叱りつけ、無我夢中で逃げた。道すがら建材や放置されたゴミなんかを横倒しにして障害を作ったが、そいつは何の苦にもせずに迫ってきた。サエの息が切れ、恐怖で足をもつれさせる。このままじゃ追い付かれる。道の脇に解体作業中の建物が見えた。手を引いてサエを立たせて先に行くように押す。

「お兄ちゃん!?」

「お前だけでも逃げろ!」

「でも!」

「いいから行け!」

 サエが言うことを聞いたかは分からなかったが、持っていたスマホをそいつに投げつけて注意を逸らす。

「化け物、こっちだ!」

 解体中の建物に入っていくと、そいつは狙いをこっちに変えてくれてついてきた。サエが逃げるまで少しでも時間を稼ぐ。そのことだけを考えて、その先のことは考えないようにした。解体している建物はボウリング場だった。街の悪の吹き溜まりになっていたのか、いたるところにスプレーで描いた落書きがあった。開けているので隠れるところはない。こんなところで死ぬのかな。そんな思いが過った。そいつは舌なめずりして近づいてきた。投げ捨てられていたボウリングのピンをもって構えた。こんなものでどうこう出来るわけはないがないよりマシだ。そいつはまず鋭い爪で襲ってきた。必死の反応で横に飛び退くと、自分のいたところが抉られ、くっきりと爪の後を残した。こんなもの一発でも喰らってら致命傷になる。まともじゃない。流星が突如降ってきたことも、その時、胸を貫かれて死んだと思ったら、一週間もしないうちに元気に歩けるようになったことも、怪物が人を喰らっていることも、その怪物に非力な自分が抵抗していることも。ついこないだまで、自分の進路をどうしようかと悩んでいた、何の変哲もないただの高校生の人生を過ごしていたのに。まだやりたいことも見つけていないのに死にたくはなかった。

体の黒いそいつは、逃げ回る獲物に苛立ったっているようだった。精一杯イラつかせてやる。簡単にはやられねぇぞと意気込む。さっきまで恐怖で体がこわばっていたのに、嫌に軽く感じた。そいつはまた爪で襲ってくる。

「どこ狙ってんだよ、ノロマ!」

 なんならピンで頭をかち割れそうな気もした。しかし、そうはならなかった。

「え?」

 避けたはずの爪が形を変化させて胸に突き刺さっていた。自由に伸び縮みさせることが出来るのか。内腑から血がこみ上げる。痛みより息苦しさの方がつらかった。怪物に食べられ終わる人生。最後に誰かの為に死ねるなら、最悪な人生とは言わなくてもいいかもしれない。牙や爪でめちゃくちゃにされるのはとても嫌だったが。薄れゆく意識の中で最後に見たのは、自分を喰らう化け物の口だった。


 走りに走ったサエは、細い路地に身を隠しながら、兄の無事を必死に祈った。切れた息が整ってくると、自分だけが逃げおおせた罪悪感がこみ上げてくる。兄との思い出が昔から順に頭に思い浮かぶ。転んでけがをした時に、傷口についた砂利をきれいに洗ってくれたこと。キレイに半分に割れなかったおやつの、大きい方を譲ってくれたこと。苦手な数学の問題の解き方を、冗談交じりに先生の真似をして教えてくれたこと。一枚一枚美しい思い出が、あの血だまりの光景に染まっていく。転がっていた死体の顔が兄の者にすげ変わる。涙は堰を切って流れてくる。前にも同じことがあった。公園で砂遊びをしていると、意地悪な上級生の集団が場所を譲れと、乱暴にサエを突き飛ばした。膝をすりむいて、びっくりしたことと痛かったことで、泣き出してしまうと、声を聞いたアクトが駆けつけてくれた。アクトは自分よりも年上の上級生相手に立ち向かった。

「危ないから、サエは先に帰ってろ!」

 そう言って兄と上級生がつかみ合いになっていく様を、振り返りながらその場から離れた。しばらくすると、顔に青タンを作って兄が現れた。

「お兄ちゃん。ごめんなさい」

 紗枝は項垂れて謝ったが、お前が謝ることじゃないと兄は笑った。

 今度だって死ぬかもしれない無茶なことでも、きっと帰って来るはずだ。サエ、と笑って頭を撫でてくれる。物音がした。

「お兄ちゃん?」

 そこにいたのは兄ではなく、あの怪物だった。しかしさっき見たやつとは少しだけ形が違う。もしかして二匹いたのか。怪物はサエに気が付き威嚇をした。サエはまた立ち上がって逃げ出した。兄が命を張って守ってくれた命を、こんな化け物にくれてやるわけにはいかなかった。しかし、サエの足は、伸ばした怪物の手にか絡め捕られた。宙づりになって怪物の牙だらけの口にどんどん近づいていく。

「いや! 誰か……誰か助けて!」

 悲痛の叫びをあげるが、辺りは静かなものだった。泣きわめいて、叫んで、抗って。それでもおよそ現実と思えないこの現実は非情なものだった。怪物の粘液が纏わりついた舌がサエの足を絡めとった。嫌、気持ち悪い。怪物の舌の生温かさがより一層サエを恐怖させ、侵していった。ごちそうでも食べるかのように、ゆっくりと鋭い歯が、サエの太ももに食い込んだ。

 しかしその時、奇跡が起こった。黒い怪物の腹を怪物に似たそれでも違う白色の怪物の手が貫いていた。サエの拘束が緩み地面に落ちる。怪物は後ろから不意打ちしてきた白い怪物を見た。そして力を振り絞って爪を立てた。白い怪物はそれを難なく受け止め、黒い怪物の腕を根元から引っこ抜いた。紫の血が辺りに飛び散る。

「ギュァァァァァァァ!!」

 と、叫び声を上げる黒い怪物の口に、白い怪物は手を突っ込み、そのまま顎から引きはがすように下に振り下ろした。黒い怪物の悲鳴は止まり、醜い肉塊が一つできた。目の前の白い怪物は黒い怪物を確かに殺した。サエに助けられた安堵はあったが、だが自分の味方とは確認できない。依然恐怖で口が効けないでいると、白い怪物は踵を返して、生き物では到底出来るとは思えないほどに、一息で建物の屋根まで跳躍して去っていった。


 気が付くと裸の上にボロの布がかけられ倒れていた。一体何があったんだ。裸のこと以外、体に何一つ異常はなかった。後ろで物音がした。ハッと振り返るがそこには野良猫がいただけだった。黒い怪物はいなかった。生唾を飲み込んで辺りを見回す。そこは人気がない場所だったが、最後に意識を失くしたボウリング場ではなかった。死んだと思ったが心臓は確かに脈動していた。辺りはもう暗闇になっていて、外には夜の帳が下りていた。

 サエのことを思い出した。無事でいてくれていると良いんだが。それにしてもあの黒い怪物は一体なんなんだろう。人を食べるようだが、明らかに獣の類ではない。エイリアン。そう、映画で出て来るような空想の化け物。地球であんな姿の生き物はいない。すぐに流星のことが頭に浮かんだ。まさかあの流星にエイリアンが住み着いていたのか。もしそうだったらエイリアンは地球を侵略に来たのかもしれない。子供じみた馬鹿げている発想だったが、刻まれている恐怖が何よりの証拠だった。貫かれた胸に傷はない。あの痛みは現実のものではなかったのだろうか。一人で考えていても何も答えは出ない。とにかく家に帰ってサエが戻っていないか確認したかった。このままボロの布切れ一枚というわけにもいかない。一度家に帰ることにした。

 人目につかないようにするために、人気のない道を選んで家へ向かっていたので、随分と時間がかかってしまった。家には明かりがついていなかった。洗濯物も干したまま。サエは家に帰っていないのかもしれない。服を着替えて明かりをつける。すると、リビングでうずくまっているサエがいた。

「サエ! 良かった、無事だったんだな」

「お兄ちゃん……お兄ちゃん!」

 サエは泣きながら飛びついてきた。

「もう……会えないかと思った。あの化け物に殺されて……死んじゃったのかと」

 嗚咽を漏らしながらギュゥっと抱きしめる。もう絶対に離さないと言わんばかりに。怖い思いをさせた。妹の無事の姿を見てホッと安堵が漏れた。頭に手を置き撫でてやる。

「大丈夫だよ、どこにもいかないって言ったろ?」

 涙が服に染みを作る。帰ってきた。そういう実感がわいてきた。

「あんな無茶なこともう絶対にしないで」

 顔を上げたサエが涙を溜めながら言った。

「俺もあんなのは一度でこりごりだ。腹減ったな。遅くなっちゃったが飯、作るか」

「でも買い物袋、逃げるときに置いてきちゃった」

「そっか。今日はあるものでちゃちゃっと済ませるか」

「うん」

「……腕、解かないと台所行けないんだが?」

「あ、ごめん」

 サエは慌てて手を解き、バツが悪そうにした。

「私も手伝う」

 二人で台所に向かい、冷蔵庫を見るが、朝見た時と中身は変わらなかった。

「肉喰いたいな、肉」

「走ったからお腹空いたよね。でも他のものでお腹いっぱいにするしかないか」

 米櫃から精米をあるだけ出した。

「そんなに食べるの?」

 お腹が空いているのはサエも一緒だったが、その量には驚いていたようだ。

「このくらい軽く食えるような気がするんだよな。喰いきれなかったら冷凍しておけばいいし」

「そうだね。帰ってからずっと家に閉じこもってたけど、お父さん帰ってこなかった」

「どこか緊急で出かけたのかもな」

 米を洗いながら言った。サエは野菜の皮をむいている。

「お兄ちゃん。あの後、一人になってからあの化け物に襲われたんだ。少し形は違ってたからお兄ちゃんと見たやつとは別の奴だったかもしれないけど」

「本当か!? よく無事だったな」

「うん。必死で逃げたけど捕まえられてもうダメかと思ったら、また別の化け物が現れたんだ。黒くなくて白い奴。それに助けられた」

「白い奴か。敵対している奴でもいたのかな」

「正義の味方って感じでもなかったけど、黒い化け物をあっという間にやっつけちゃった。その時は怖かったけど、お兄ちゃんみたいにかっこよかったよ。お兄ちゃんはどうしてたの?」

「俺はサエと一緒に見た化け物を引き付けて、廃屋の中でなんとか時間を稼ごうとしてたんだけど……う~ん、思い出せない。気がついたら化け物はいなくなってた」

「なにそれ。お兄ちゃん、勇敢なのはいいけどそれで辛い思いする人だっているんだよ」

「ごめん、何とかしなくちゃって思ってたら勝手に体が動いてた」

「一人で待ってた時、どれだけ心細かったか。あ~だんだん腹立ってきた。もう、一体何だったんだろ。あ、ニュースつけてみよっか。ずっと怖くてテレビもつけてられなかった」

 サエは手を布巾で拭いてから、リモコンでテレビを点けた。すると、ちょうど報道番組がやっていた。ニュースの見出しは、突如現れた黒と白の怪物! 流星との因果関係はいかに!? だった。キャスターがニュースを読み上げる。

『今日未明に突如現れた人を襲う黒い怪物が街に出現しました。黒い怪物は街を行く人々を見境なく殺傷し、現在わかっているだけでも24人の犠牲者が出ているとのことです。黒い怪物はなんと、人をまるで肉食獣が草食獣を食べるように喰らうとの情報が入ってきています。現場の坂崎さん。現在の現場の状態を教えてください』

『ただいま、午後20:00時の現場の様子ですが、生々しい被害者の血液が地面や壁に滴り、物々しい雰囲気は依然として変わりがありません。事件の凄惨さをものがたるように警察や消防、報道カメラや関係各所が一斉に事件の調査をしています。一部報道規制が入るためこれ以上は現場には近づけませんが、その事件の一部の映像を入手することが出来ました』

『視聴者の皆さん。これより各社の上層部でも協議した一部グロテスクともいえる映像が流れます。大変刺激の強い映像ですので、お子さんや映像に耐えかねるという方はすぐにチャンネルを変えてください。ただしこれは現実に確かにあった真実の映像です。パニックが起きかねないものなので、視聴される方は冷静に行動してください』

 そう言ってキャスターは少しの間を設けた。テレビにカウントダウンが表示される。カウントダウンがゼロになって、映像が昼間の風景に変わった。逃げ惑う人々の波に逆らうように、カメラマンと現場のリポーターが実況をはさみつつ、奥の方へと向かっていった。そこにはあの黒い怪物が映し出された。現場にいた被害者だろうか赤くモザイクがかかった箇所化幾つもあった。カメラが黒い怪物にズームされる。サエと二人で見たやつとは違う形をしていた。あんなのがいくつも街に出て人を襲っていたのか。

 すると、母親とはぐれたのか幼い子供が泣きながら立ち尽くしていた。キャスターはその子供を助けるべくマイクを捨てて走っていた。キャスターの勇敢さは無謀にも思えた。黒い怪物がそれに気が付いて二人を威嚇する。カメラマンはキャスターに速く逃げるように罵声を上げていた。キャスターが子供を抱えたが、黒い化け物が迫っていた。カメラには勇気ある行動と、それによって尊い命が奪われる映像が映し出されようとしていた。化け物の爪がキャスターの背中に突き立てられるその瞬間、突如画面の外から現れた白い怪物が、黒い怪物の殺戮を止めた。

「あ!」

 とサエが白い怪物を指差した。

黒い怪物に衝突するようにぶつかった白い怪物は、およそ生き物の力ではないほどの力で、黒い怪物を建物に押し付けた。ガラスは割れ、鉄柱はひしゃげ、コンクリートにひびが入った。間一髪のところで助けられたキャスターと子供が、カメラの後ろへと逃げたが、カメラはそのまま、二匹の怪物の格闘を克明に映し出した。白い怪物が黒い怪物の腕をもぎ取ったところで、映像が切り替わった。

『ご覧いただけたでしょうか。ただいまお見せした映像は映画の撮影でも、バラエティ番組で見るような合成映像ではありません。我が社のカメラがとらえた現実の出来事です。カメラマンが決死の覚悟で撮った映像に、今この街に起きている真実が映し出されています。怪物はどちらも地球上では確認されていない生物のようです。先日あった隣町に落ちた流星と何らかの因果関係があると専門家の意見もあります。政府はただちに落ちた流星を調査し、場合によっては武力行使も辞さないという声明がありました。私たち報道は可能な限り情報を集め、視聴者にありのままをお伝えるべく努力していく方針が決まりました。怪物の正体は一体何なのか、果たして人類に敵対する存在なのか。以上、本来の番組を変更しての緊急報道でした。それではこの後は天文学の権威でもある大学教授でもある井倉智一教授と生物学の研究者でもある二子明義さんにお話を伺おうと思います……』

「私を助けてくれたのもあの白い奴だったよ」

「本当か?」

「うん、間違いない。仲間割れでもしてるのかな?」

 街に怪物が現れているのは間違いない。流星が落ちてきただけでも大変なのに、人を殺す怪物までも現れるなんて。化け物にあって、裸で倒れていて……。

「お兄ちゃん?」

 ジッと考えていると、サエが心配そうに顔を覗き込んだ。

「大丈夫? ショックだった?」

「いや、なんでもない。マジで日本もやばい感じだな。何かある前に避難することも考えておいた方が良いかも知れない」

「二人が帰ってきたら、ちゃんと話そ」

「あぁ」

 テレビではもう専門家たちが自分の立てた仮説をあーだこーだ話していた。台所に向き直り料理に戻る。この先のことを自分なりに想像巡らせていると、米を研ぐ力が嫌に入った気がした。

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流星のアスクアクト 柳 真佐域 @yanagimasaiki

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