第3話


 自分はゆっくりと体育館に足を踏み入れた。

 何年振りだろうか。怪我をしたあの日以来か。懐かしかった。体育館特有の匂い。冷んやりとして澄み切ったこの季節の感じ。すべて昔のままだった。

「本物の壇之さんだぁ」

 いつの間にか店長が自分の隣に立っていた。

「昨日もコンビニで会ったじゃないですか」

「いや、体育館で見る壇之さんは全然違いますよ。やっぱり雰囲気あるなぁ」

 マジでやめてほしい。自分はそんなことを言われる度に心臓がきゅっとなり気持ちが淀んだ。あまりプレッシャーをかけないでほしい。

 結局自分はコーチの依頼を引き受けた。

 しかしまぁ、少しやってみて全然ダメだったらこちらから身を引こうというくらいの気持ちだった。正直言ってあまりにブランクがあり過ぎて自分としてもどうなるのかよく分からないのだ。

 体育館に入るともう既にママさん達は輪になってストレッチを始めていた。十人ちょっとはいる。それで自分に気がつくとキャプテンらしき人が集合の号令をかけて皆自分の元に集まった。一瞬戸惑ったが、そういえばこんな感じだったなぁ、と思った。

「皆さん、今日からコーチに就いてくださることになった壇之さんです。あの壇之さんですよ! 皆さん。雀林の壇之さん!」

 と、店長は興奮気味で話す。だからやめろっつうの。で、この状況、自分も黙って突っ立っているわけにはいかないので一応「今日からコーチをやらせていただくことになった壇之です」と挨拶した。自分としてはそれだけで終わりたかったのだが、皆さんの目は「それで? それで?」的な感じになっており、仕方がないので自分は自分のバレー経歴について話した。

「えーと、ですね、自分はまず小学校二年の時にバレーを始めました。これは姉の影響で、姉は三つ上で、その練習に付き添って行っているうちにいつしか自分もチームに入って本格的な選手となっていました。姉はバレーは小学校でやめて、中学からはギターマンドリン部でした。自分はというと中学になっても続けていて、その頃には割と上達しており、結局中学時代は三回全国大会に進み、うち一回は優秀しました。高校は府内の強豪校と呼ばれるほとんどの学校から推薦がきました。で、結局先ほど店長が、あ、佐伯さんがおっしゃったように雀林高校という府内だけでなく全国でも名を馳せた高校へ進学しました。自分はそこでも一年からレギュラーに入っていて、結果全国三連覇を達成しました。えー、まぁラッキーではありました。それでその後は大学に進学したのですが、この時点でプロ入りしていればよかったのになぁ、と今でも思っているのですが、まぁそれはそれとして、大学でもバレーを続けて、一回生の時は全国大会で、結局ベスト8でした。しかしながら自分としてはまだまだ伸びしろはあるなぁ、とは思える感じではあったのですが、何だかんだその翌年に怪我をしてしまって選手生命を絶たれてしまいました。あのー、選手生命を絶たれたというとすごい、あのー、この人大丈夫かな? と、思われると思うのですが、日常生活は特に支障なく暮らしています。リハビリも頑張ったんで、軽くですが、飛んだり跳ねたりもできます。けどまぁ、プロとしてとかは無理な感じで、それでバレーはやめました。それがだいたい十年くらい前の話です。あのー、そんな感じです」

 自分が話終わると皆満面の笑みで拍手をした。

 何か、いらんことを、自分のハードルを無駄に上げるようなことを言ったかな? 通じて嘘はついていないのだが。自分はこんなふうに注目を浴びながら話すのが苦手で、いつも余計なことまでべらべらと話してしまう。

「じゃ、早速練習を始めましょうか」

 と、店長が言い、この人はチーム内でいったいどういう役回りなのだろうと不思議に思っているうちにパス練が始まった。自分も手持ち無沙汰になって、ボールかごからボールを取り出して壁打ちをしてみた。久々の壁打ちだったが身体はその基本動作を覚えていて、ミートも悪くなかった。

 ズバンズバンとしばらく打っていると、気付いたら皆自分を見ていた。え、何? 何かやった? と、止まったら皆またそそくさとそれぞれの練習に戻っていく。ふぁっ、何てアホ面をしていると、店長は向こうの方から携帯で自分のことを撮っていた。まったく、何だというのだ。

 それで練習は進んでいき、チーム練に入った。

 悪いチームじゃないな、と練習を見ていて自分は思った。だが何かが足りていない。何か、こういまいち決定力に欠けるのだ。些細なミスが多く、それが上手くリカバリーしきれず、結果的に得点に繋がらない。もったいないな、と自分は思った。

 が、しかし、だからと言って自分はチームに対して「ここをこうしてこうしたら良くなる」とか具体的なことは何一つ言えない。コーチつうのは普通そういうチームの悪いところを紐解いて指導していくものなのに。少なくとも自分の関わってきたコーチ達はそうだった。

 それからも練習を「もう一つなぁ」と思って眺めていたのだが、ふと、コーチで呼ばれている自分が何も喋らない、指導しないのはまずいんじゃないかということに気付いた。言うまでもなく間違いなくマズい。だって何もしないならコーチなんて必要ないじゃん。危ねえ、初日から返金になるところだった。

「あのー」と、自分は練習を止めた。皆が一斉にこちらを見る。

「えと、今スパイクを打ったあなた」

「私ですか?」

 と、スパイクを打った少し背の高い女性は緊張気味に言った。だが、緊張しているのはこちらも同じ。何だかすべてがぎこちない雰囲気になった。

「ええ。あなた、えーと、あなたって何かおかしいな。すいません。お名前は?」

「斎藤ですけど」

「斎藤さん。あのー、斎藤さんは高さがあるんで、少し前飛び気味なくらいでスパイクに体重を乗せた方がいいと思うんですよ。その方が打球が重くなるんで」

「体重をですか」

「そう。えーと、まぁ、極端な話、ネットにダイブするような感覚で飛んだ方がいいと思うんです」

「ダイブ……ですか?」

 全然ピンときていない感じだった。

「えーと、ですねぇ。あ、じゃちょっと一回やってみるんで、見ててもらってもいいですか?」

「あ、はい」

 まぁ、女子ネットで軽くジャンプするくらいなら大丈夫だろうと思いコートに入った。自分はセッターの人にトスを上げてもらい話に出していたダイブ気味のスパイクをコートに打ち込んだ。歓声が上がる。照れ臭かった。

「こんな感じです。分かります? 前に飛ぶ勢いをスパイクに乗せるって感じですかね」

「何となく分かりました。うーん、やってみます」

 斎藤さんはそれから自分が教えたスパイクを実践した。最初の方はネットにかけたり思いっきりふかしたりと合っていなかったが、慣れてきたのかそのうち噛み合いだして斎藤さんのスパイクはズバンズバン決まるようになった。

 その変化は本人も実感していたし、周りも感じていた。それでチーム全体が何となく「コーチのアドバイスは的確だった」というような空気になっており、それはそれでまた困る。別に何の気なしに思ったことを言っただけなのだ。たまたまなのだ。過度な期待をかけないでほしい。


 練習終わり、キャプテンの人、それは先程の練習でセッターをやっていた人なのだが、呼び止められた。

「壇之さん、今日はありがとうございました」

「あ、こちらこそ」

 童顔で、見た感じ自分より二、三歳若そうな女性だった。長い髪をポニーテールにしていた。

「あの、私、佐伯です」

「あ、じゃああなたが店長の奥さん?」

「そうです。すいません。うちの人、強引だったでしょ?」

「まぁ、多少は」

 と、自分は苦笑いを浮かべた。強引というか話が通じなかった。

「壇之さん、私、今度の大会こそは優勝したいんです」

「今度の大会というと?」

「三月の頭にまた社会人バレーの大会があるんですよ」

「あぁ」

 そう言えば店長も大会がどうのとか言ってたな。

「壇之さん、本当によろしくお願いしますね。ビシビシしごいてください。精一杯頑張るので、私達を勝てるチームにしてください」

 そう言って佐伯さんは自分の手を固く握った。熱を持った熱い手だった。

「こちらこそ頑張ります」

 なんて言ったがヤバい。期待大じゃーん。



 二月の中頃、もの凄い雨が降った。風も強く、季節外れの台風のようだった。

 しかし警報は出ていないようで、そんな日でも幼稚園は休園にならなかった。仕方がないので自分は誠一郎をおんぶし、傘をさして土砂降りの中をバス乗り場まで歩いた。雨は横殴りで、自分も誠一郎もびしょ濡れだった。

「はぁ、ひっでー雨」

 バス乗り場の屋根の下、自分は首に巻いていたタオルで誠一郎の服を拭いてやった。雨に焦って早く出過ぎた。バスが来るまでまだ少し時間がある。

「とうちゃんもびしょ濡れ」

「うん。まいったな」

「拭いたげるよ」

 そう言って誠一郎はタオルで自分の肩を拭いてくれた。

「ありがとう」

 しばらくして同じバス乗り場のお母さんと兄弟が車で来た。

「まさか歩いてきたんですか?」

 と、びしょ濡れの自分等を見て驚いた。

「ええ、うち車ないんで」

「言ってくれれば拾ったのに」

「はは、ありがとうございます」

 もう一組の兄弟も車で来た。ちゃんとした大人は皆、車の一台くらい持っているのだ。やがてバスが来る。

「服、濡れてるから幼稚園に着いたら体操服に着替えさせてもらえよ」

「うん」

 走り出すバスの中、誠一郎は手を振っていた。自分も手を振り返した。

 帰りは車で送ってもらった。自分はいつの間にか、この暮らしに慣れつつあった。



 テッテレーとレベルの上がる音がして、自分は宅急便の取り扱いをマスターした。捌く、捌く。この前までは宅急便らしき荷物を持って来ている客が怖くて仕方がなかったのだが、今はむしろウェルカムで、皆どんどん自分に宅急便を持ってきてくれ。という感じだった。

 宅急便だけじゃない。働き始めて早一か月。ほぼ毎日シフトに入っていることもあり、仕事にも人間関係にもだいぶ慣れた。鳥山さんは相変わらずフレンドリーだし、店長は相変わらず敬語だが、何だかんだバレーも合わせるとほぼ毎日会っている計算になる。夕方から入る高校生の子達とも何となく世間話をできるレベルにまではなった。野々山だけは相変わらずいけすかないが、別に表立って喧嘩をしたりはない。

 あ、しかしそう言えばこの前の話。

「このポップ、壇之さんが作ったんすか?」

 一緒にシフトに入っていた野々山が自分の作った新商品のポップを見て言った。

「そうですよ」

「へぇ、そうなんだぁ」

 なんてぼんやりしたことを言うからまた何か嫌味を言ってくるのかと思い先手を打って、「何かマズいとこありました?」と聞いてみると意外や意外、「いや、何か、いい感じっすね」と褒められた。

「えっ、あっ、そうすか」

 と、自分は思わぬ返答に不意を突かれてしどろもどろになっていた。

「壇之さん、意外と絵上手いんすね」

「そんなこと初めて言われましたよ」

「そうですか? 何かこの熊とか、いい感じじゃないですか。好感度持てるっていうか」

 と、野々山は自分の書いた熊のイラストを指差していう。自分は何故だか恥ずかしくて、「そうですかねぇ」なんて言ってモジモジしていた。

 例え普段あまり良く思っていない人からでも褒められたら嬉しい。や、普段あまり良く思っていない人から褒められる方がもしかしたら嬉しいものかもしれない。

 バレーの方も好調だった。しかしこれは自分のコーチングのおかげだとは一概に言い切れない。皆元々ポテンシャルのある人達なのだ。自分は練習中、思ったことをその都度伝えているにすぎない。チームとかそんなんじゃなくて、個人の話だ。自分がコーチに入ったことで個人の力スキルは確かに向上した気がする。チーム自体は元々できていたのだ。

 それで先日の練習試合ではずっと勝利できていなかった隣街のチームに勝った。

「佐伯さん、やりましたね」

 自分は試合が終わった後、ストレッチをしている佐伯さんに声をかけた。

「壇之さんのコーチのおかげですよ。本当に、ずっと勝てなかった相手なんですよ」

 そう言ってタオルで汗を拭いている佐伯さんは本当に若く見えた。大学生だと言われても信じる。でも佐伯さんは自分より四つも歳上で、もう小四になる息子さんがいるのだ。

「大会まであと少しですし、チームの勢いもついて良かったです」

 正直言ってこんなに上手くいくとは思っていなかった。あ、それは自分のコーチングの話じゃなくて今日の試合の話。まぁ、自分のコーチングもこんなに上手くいくとは思っていなかったが。今日の試合の相手、最初に練習している様子を見ている時は勝てないなと思った。実際、序盤は負けていた。一セット目は取られた。しかしそこで皆折れずにボールを繋いでいたところ、二セット目中盤から斎藤さんのスパイクが決まりだし、そこからチーム全体が勢いに乗った。佐伯さんのサーブも良かった。二、三セットを連取し、最終的にはそれなりの差をつけての逆転勝ちだった。

 気がつけば大会はもう来週に迫っていた。試合終わりの体育館の前、自分はコーチらしく皆を集め、今日の良かったところ悪かったところを簡単に話し、来週もこの調子でいきましょうと激励した。皆「はいっ」何て声を合わせて言って、これじゃあもう、熱血部活じゃねぇか、と少し苦笑いしたが、チームは非常に良い状態で、これは大会もひょっとするとひょっとするかもしれないと思った。

 皆と別れて自転車で家路を急ぐ。スーパーに寄って食材を買い、帰ったらすぐに誠一郎の夕飯を作らなければならなかった。

 素早くスーパーを後にし、前かごに買い物袋を入れる。そういえば先日、初めてのコーチ料を受け取った。事前に店長から聞いていた通りの額だった。それで生活に余裕ができたわけではないのだが、幼稚園の学費は由美子が振り込んでくれるのであれば何とかやりくりできるくらいにはなった。

 自転車を漕ぎ、坂を登る。マンションまではもう少しだった。肩越しの風。振り返ると、薄暗がり。街灯りがポツポツと灯り出して、空と地の間は燃えるように紅かった。夕暮れ時。何とも言えず美しかった。

 不意に自分はもう野良野良のフーテンじゃないんだなぁ、と思った。少し誇らしい気持ちになった。

 由美子。

 なぁ、由美子。今の自分の姿を君に見せたい。



 夜、受話器からはプルルルルと電子音。どこかは分からないが、おそらくこの電子音の先ではバイブレーションが小刻みに震えているのだろう。

 由美子は四回目のコールで電話に出た。

「何?」

 二か月ぶりの由美子の声はやはりどこか不機嫌だった。

「何って言われると困るんだけど」

「じゃ切るよー」

「待て、待て、ちょっと。あのー、あ、そうだ、誠一郎はさっき寝た」

「ふぅん」

「ご飯も、割とたくさん食べた。肉じゃがなんだけどね。まぁ、でも、だから野菜もそれなりに取ってる」

「カレー肉じゃが炒飯だけじゃ誠一郎も飽きるよ」

「え、お前、何でそのレパートリーを知ってんの?」

「うるさいなぁ。何なのよ。用がないならもう切るよ」

「あ、だからちょっと待てというのに。用事があるからかけたんだよ。当たり前だろ」

「知らんけど。で、何?」

「いや、あの、何つうか、そのー、悪かった」

「は?」

「いや、は? じゃなくてさぁ」

「何が悪かったのよ」

「何って、いろいろ。働かなかったこととか、子育てしなかったこととか、家のこと何もしなかったこととか。いろいろ」

「他には?」

「他? えー、いやまぁ、考えればまだいろいろあるんだろうけど、今ぱっと思い浮かばない」

「酷いこと言ったんだよ」

「あ、あの日。ごめんな」

「ごめんなって、何言ったか覚えてんの?」

「覚えてるよ」

 嘘だ。まったく覚えていない。

「絶対覚えてない。懸けてもいいよ。覚えてない。本当のことを言ってみ?」

「ごめん。覚えてない」

 さすがに自分のことをよく分かっている。いつもいつも、嘘をついても由美子にはすぐにバレるのだ。

「ダメ人間」

「分かってるよ。でも愛してる」

「はっ」

 電話の向こうで由美子が呆れるように笑った。

「限界なんだ。帰ってきてくれ」

「よく言うよ」

「別にだからと言って何というわけじゃないけど、由美子がいない間に仕事を始めた。バイトだけどな。コンビニの。でも、駅前だから割と時給はいい」

「ふぅん」

「あと、その関係でバレーのコーチをすることになった。つか、してる。これもまぁ、それなりのお金をもらえてる。ありがたいことに。だからそのー、幼稚園の学費以外はとりあえず何とかなりそうだ」

「へぇ」

「料理もな、三つだけ覚えた。いや、カレーはレトルトか。レパートリーにいれたらダメか。じゃ二つだ。あと、幼稚園の送り迎えもやった。誠一郎の友達のお母さん達とも何となく交流ができた」

「ふぅん」

「お前さぁ、さっかからふぅん、とか、へぇとかばっかじゃねぇか」

「だからそれで何よ。何が言いたいのよ」

「つまりな、あぁ、もうお前が途中で挟むから何が言いたいのか分からなくなってきた。えーと、あ、そうだ、つまりな、自分は由美子がいないこの二か月でいろいろできるようになって、誠一郎と二人で何とか暮らしてたんだけど、ダメなんだよ。何か足りないんだよ。何と言うかな、つまり家庭、つか家族か、と言うのは何かをする『役割』の集合体じゃなくて、その人と人の集まりなんだよ。だからさぁ、自分がどんなに何かをできるようになっても、例えば姉ちゃんの旦那みたいに医者ですげぇ金稼げるようになっても、あ、姉ちゃんの旦那医者なんだよ、言ってなかったけど、大事なのはそこじゃなくて、んで、料理、料理も懐石料理とか、あのー、例えば天婦羅とか鯛飯とか作れるようになったとしてもそうじゃなくてさ、って何かこんがらがってきた。だからつまりさ、何がどうなろうと、どんな素晴らしい人間になろうと一人じゃダメで、自分がいて、由美子がいて、誠一郎がいて、じゃないとダメなんだよ。家族というものはそこがスタートなんだよ」

 また話しているうちによく分からなくなっていた。自分の言葉を聞いた由美子は電話の向こうで黙っていた。

「何か言ってくれよー」

 だんだん恥ずかしくなってきた。自分はグラスに焼酎を注ぎ、氷も入れずに飲み干した。

「やだ、何も言わないよ」

 由美子はそう言って少し笑った。

「言えっての」

「日曜十七時に新大阪着の新幹線」

「え」

「だから今度の日曜の十七時に新大阪着の新幹線で帰るって言ったの」

「あ、そうか。ありがとう」

 新大阪って、じゃ、やっぱり倉敷に帰ってたのか。

「迎えに来なさいよ。荷物多いんだから。一秒でも遅刻したらまたそのままどっか行くよ」

「分かった」

 それで電話が切れた。周りを見渡すと、またいつもの誠一郎と二人きりの夜だった。



 快調なお通じ出たぜ、ワーイ。

 はは。ジャーと派手に流すわ、スイッチ大。日曜日。体育館のトイレだった。

「あ、何だよ、お前こんなとこにいたのかよ」

 と、おそらく自分のことを探していたのだろう相良と誠一郎にトイレ前で鉢合わせた。

「もう試合始まるよ」

 そう言って誠一郎は自分の手を引いた。

「うん」

 今日はいよいよ社会人バレーの大会の日だった。もうすぐ第一試合が始まる。自分はこの大会については話に聞く限りでほとんど無知だったのだが、意外と大きな大会で、何と参加チームは全部で二十もいた。開会式の時、佐伯さんに「地域の大会じゃないんですか?」と聞いたら、「一応地域の大会って名目なんですけど、何だかんだいつも府内の社会人バレーのチームが集まるんですよ」と言われた。へぇー、そうなんだぁー。見た感じ強そうなオーラを放つチームもポツポツいる。開催される体育館も立派で、全国大会で使ってもまったく遜色のないと思えるような場所だった。大きな体育館はやり慣れてないと雰囲気にのまれてしまう場合がある。自分は皆大丈夫かなー、と心配していたのだが、心配はもう一つあって、由美子のこと。今日が帰ってくる日曜日なのだ。十七時に新大阪と言っていたが、試合に勝ち進むとおそらく際どい時間になる。一秒でも遅れたら帰らない的なこと言ってたなー。ヤバいなー。この二か月の感じ、由美子ならマジでやりかねない。また倉敷に帰ってしまうかもしれない。

 コートに降りると皆もう体育館の端でストレッチをしていた。相良に興奮気味な店長は無視しておいて、佐伯さんに話しかける。

「大丈夫ですか? 緊張してません?」

「まぁ、してないって言ったら嘘になりますね」

「ダメですよ。緊張はもったいないです」

「そんなこと言ったって」

 と、佐伯さんは少し笑う。

「あ、それですよ、大事なのは。いつも通り馬鹿話でもして笑っていれば気が晴れますよ。相良なんていつも試合直前までへらへらしててよく怒られてました」

「そうですか」

 佐伯さんはさっきより笑った。ちょっとでも緊張が解けたのならば良かった。

 が、始まった第一試合はいきなり劣勢で、やはり皆緊張が解けてないのか上手く噛み合わない。あっと言う間に一セット目を取られてしまった。

「一旦、深呼吸しましょう。練習でやってきたことをやれば一セット目みたいにはならないはずですよ」

 しかし皆の目を見ると暗く、おそらく自分の言葉は頭まで入っていってないなぁ、と思った。何か流れを変えないと。それで自分は考えた。

「佐伯さん」

「はい」

「ローテーションを少しずらして佐伯さんのサーブからスタートしましょう」

「え、でもそれじゃ斎藤さんが後衛スタートになりますよ」

「いいです。最初にサーブで点差を広げて、良い状態で斎藤さんを前衛に回しましょう。相手はスパイクが強い。まともなスパイクを打たせないようにとにかくサーブで崩してください」

「私にできるかしら?」

「このチームで一番サーブが良いのは佐伯さんです。佐伯さんができないならおそらく勝ちはないですよ」

「プレッシャーかけないでくださいよ」

 佐伯さんが少し笑った。

「プレッシャーに打ち勝たないと優勝はないですよ。ほら、深呼吸、深呼吸」

 佐伯さんは大きく息を吸って吐いた。少しだけ落ち着いたように見える。店長が頑張れ、頑張れ、と佐伯さんの手を握った。

 それで振り切れた佐伯さんは試合開始からサービスエースを二本連取。ブロックポイントも決まり、4-0と良い点差で序盤戦の主導権を握った。序盤の四点差は中盤の四点差よりずっと堪える。自分も経験的にそれを知っていた。思惑通り相手が浮き足立ってくれ、良い状態で前衛に上がった斎藤さんのスパイクは一セット目が嘘のように決まった。結局そのままの勢いで二、三セットを連取し、一時はどうなることかと思ったが無事に第一試合を通過した。

「思ったよりちゃんとコーチやってんじゃん」

 試合の合間、喫煙所で相良に言われた。

「いや、たまたまだよ。何となく思ったことを言ってるだけなんだから」

「まぁ、コーチって結局そんなもんじゃねぇの。つか、思い返せばお前、昔から作戦立てるの上手かったよなぁ」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

 相良は煙を吐いて言った。

「つかさぁ、今日もし決勝まで進んだら最後の試合のコーチ代わってもらうことできないかなぁ?」

「はぁ? 何言ってんだよ?」

 相良は驚いて言った。

「いや、その実はな、ちょっと約束があってな、今日」

「約束? お前なぁ、今日の大会はコーチとして大事な試合じゃないのかよ。短いながらも今日のために頑張ってきたんだろ?」

「まぁ、そりゃそうなんだけどね」

「何の約束?」

「いや、由美子が帰ってくるんだよ」

「え、離婚したんじゃなかったの」

「誰もそんなこと言ってないだろ」

「マジかー。今日?」

「うん。十七時に新大阪に着くから必ず時間通りに迎えに来いって」

「うわぁ。それは絶対に行かないと」

「な、そうだろ」

「でもコーチが決勝にいないと締まらないぞ」

「やっぱそうだよなぁ」

「そりゃそうだよ。言っておくけど俺はお前みたいに上手いこと作戦なんて考えられないからな。つかいきなり出てきてコーチなんて皆納得しないって」

「参ったなぁ」

「十七時だろ? 決勝まで行ったらキツいなぁ。仕方ない。家庭のことを考えるなら途中で負けるよう願うしかないって。大会はまた次もあるんだろ?」

 自分は頭をかいて煙草を灰皿に押し付けた。

 相良の言うことも一理ある。大会はまた次もあるのだ。今日たとえ優勝できなくても次また頑張ればいい。それはそうなのだ。そうなのだが、自分はどうしてもそうは思えなかった。頑張っているメンバーを前に負けるよう願うなんてできるわけがないじゃないか。だって自分はこのチームのコーチなのだから。

 そんな思いが通じたのか通じていないのか分からないが、二回戦はまったく危なげなく通過した。次は準決勝だった。時刻は既に十三時半。どうなのだ? 終わるのか? 分からない。際どい時間だった。

「壇之さん、次準決勝ですよぉ」

 他のブロックの二回戦を誠一郎と二人観覧席から観ていたら、興奮した店長が隣に座って言った。

「ですね」

「壇之さん、準決勝に勝ったら決勝。決勝ですよ決勝」

「ですね」

「ここまでの試合も良い内容ですし、これは本当に優勝もあり得ますね!」

「ですね」

 なんて曖昧な反応をしていたら、店長は向こうの方から歩いてきた相良に「相良さぁん」なんて言って駈けて行った。

「とうちゃん、あんまり嬉しくないの?」

「えっ」

 誠一郎が急にそんなことを言うものだからドキっとした。

「いや、嬉しいよ。そりゃ。勝ってんだから」

「そう? あまり嬉しくなさそう」

「まぁ、時間がね」

「時間?」

「あ、今日お母さんが帰ってくるんだよ」

「そうなんだ!」

「うん。で、とうちゃん迎えに行かないといけないんだけど、間に合うかなーって思ってて」

「そっかぁ」

 誠一郎はそう言って笑っていた。由美子が帰ってくるから嬉しいのだろう。考えてみれば誠一郎にも寂しい思いをさせたなぁ。うん、家庭優先。当たり前じゃん。何としても新大阪に十七時に行こう。

 しかしチームは無事準決勝に勝利。しかもフルセットでしっかり時間を使って。その時点で十四時半。皆と一緒にハイタッチをしつつ、自分は背中にしっかり冷や汗をかいていた。



 たかが社会人バレーの地域大会。や、たかが何て言っちゃダメなんだけどね。それでもやっぱ決勝ともなると身が引き締まるなぁ。

 二十もいたチームも今や残るはたった二チーム。コートにいるのは自分のチームともう一チームのみ。残りのチームは皆観覧席から自分等を観ていた。

 自分はちらちらと時計を見る。十五時。当たり前だが時計は見るたびに少しずつ進んでいた。

「壇之さん、まだ公式練習始まったばかりだから大丈夫ですよ。まだ時間ありますよ」

 そう言って斎藤さんが笑う。自分が公式練習の終了時間を気にしているのだと思ったのだ。

「あ、そうですね」

 と自分が苦笑いで答えていると後ろから相良に背中を叩かれた。

「ここまで来たんだから覚悟を決めろ」

「やべぇよ。このままじゃ間に合わねぇよ」

「そんなん決勝に進んだ段階でだいたい分かってたことだろ」

「いや、瞬殺できたらもしかしたら間に合うかなって」

「さっきの対戦相手の公式練習見た?」

「見た」

 簡単に勝てる相手ではなさそうだった。格上と言ってもいいくらいだろう。冷静に考えてみれば二十チームもいた中から決勝に進むようなチームなのだ。そんな弱いチームなわけがない。

「頼むぜ、コーチ」

 相良にそう言われてとりあえず覚悟を決めた。

「今回もまた佐伯さんのサーブからいきましょう。相手、スパイク強いからブロックでコースをふさいで、レシーバーもポジショニング注意してください。声出し、忘れないで、空気にのまれたら負けですよ」

 なんて皆を集めてすげぇコーチっぽいことを言った。半ばキレていた。しかしこの作戦がまた当たる。つか、まぁ佐伯さんのサーブが普通に良かった。序盤から相手を崩し、思うようにスパイクを打たせなかった。このパターンに入るとこのチームは強い。ノる。ノったところでエース斎藤さんが前衛に回る。更にノる。結果的に一セット目を25-16で取った。これはかなり良いペースだった。

 時間を見ると十五時半過ぎ。いける。このペースだったらいける。相良を見ると、奴もそう思っていたようで、自分の目を見て頷いた。

「勝てるよ。佐伯さん!」

 と、自分は柄にもなく大きな声で言った。

 しかしそこはやはり決勝。そんなに上手くいかない。と、いうのも一セット目はこちらのサーブからスタートだったのだが、そうなると二セット目は向こうのサーブからスタートで、どうも相手もこちらと同じようなタイプのチームのようで、サーブの良い奴を最初にもってきていた。今度はこちらがやられる側だった。サーブで崩され攻撃に回れない。後半に斎藤さんのスパイクで少し盛り返したが25-20でセットを取られた。試合はフルセットにもつれ込んだ。

 最終セット前、皆明らかに疲弊していた。何でもそうだが、追い抜くより追い越される方がダメージが大きい。この状況、明らかに相手の方が有利だった。

 息苦しかった。

 自分はそれが何から来る息苦しさなのか分からなかった。ギリギリの勝利を追う試合展開からか、それとも由美子との時間が迫っていることからか。時計を見ると十六時過ぎ。今すぐに出ればまだ間に合う。

「壇之」

 相良が不安そうな目で自分を見た。傍らには誠一郎もいる。緊迫した大人たちの雰囲気にのまれ、少し緊張しているようだった。

 ごめんな。誠一郎。

「切り替えです。切り替え。これでやっとイーブンですよ。何も負けたわけじゃありません」

 皆が自分を見た。

「ここからですよ。取られたら取り返したらいいんです。ミスったら決めたらいいし、上手くいかなさそうだったら作戦を変えればいい。ただの同点です」

 話しながら自分は何が言いたいんだ、と思った。つかこれは皆に言っているのか? バレーの話か? それとも自分自身に言っているのか、だんだん分からなくなってきた。

「攻撃を緩めないようにしましょう。たとえ崩されても積極的に打っていく。その結果アウトになっても仕方ないです。チャンスで返して切り返されるのと結果は同じですから」

 自分の言葉に皆が「はいっ」と声を合わせる。まったく、まるでコーチにでもなった気分だ。

「それと斎藤さん、序盤に一本バックアタックを打ってください。つか決めてください」

「バックアタックですか」

「そうそう。練習してましたよね」

「試合で打ったことはないんですけど」

 と、斎藤さんは苦笑いを浮かべた。

「まぁ、練習見てる感じ大丈夫ですよ。一本、最初の一本決めてください。これもある、と相手に思わせたらそれでオーケーです」

「頑張ります」

 と、斎藤さんが力強く言ったので。「うぇい」と自分は昔のノリでハイタッチをした。

 最終セット。サーブ権はこちらからスタート。が、しかしサーブが好調だった佐伯さんがここで痛恨のサーブミス。一セット目のようにスタートダッシュをかけることはできなかった。「切り替え、切り替え」と皆が暗くなる前に自分は声を張った。すると、誠一郎も真似して「切り替え!」と叫んでいた。

 自分の指示通り、斎藤さんは序盤にバックアタックを打った。が、これは惜しくもアウトだった。でも良い。誰も触れられずにギリギリアウトだっただけだ。決まっていてもおかしくなかった。今の一打で間違いなく相手の頭にはバックアタックもあると刻まれたはずだ。

 それで迷いが生まれたブロックの一瞬の隙をつきレフト、速攻と振り二点連取した。上手い。自分は改めて佐伯さんは良いセッターだと思った。しかし相手も折れなかった。すぐに点差を詰め、そこからはシーソーゲームになった。こうなるともう根性戦だ。気持ちを切らさずいつものプレーをした方が勝つ。

「声出して! 一本集中!」

 と叫んだ時「楽しい」と思った。コーチという自分の役割、仕事を楽しいと思った。仕事をしてそんなことを感じるのは初めてだった。勝ってほしいと心から思った。

 試合は均衡しデュースまでもつれ込んだ。外から見ていても皆かなり体力を削られているのが分かった。

「とうちゃん、勝てるかな?」

 誠一郎は固く拳を握っていた。

「勝てるさ」

 自分がそう言った時、斎藤さんのバックアタックが土壇場で今日初めて決まった。どよめく会場。湧く自軍のベンチ。これでマッチポイントだった。

「あと一本!」

 相良も叫ぶ。

 相手のサーブカットは綺麗にセッターへ返り、エースにトスが上がる。

「ブロック! エース一本!」

 が、速攻を気にしたセンターのブロックが一瞬遅れる。まずい。自分はそう思ったが、相手エースのスパイクは浮き足だったのか若干上ずりそのまライン外へ。

 笛が鳴り、歓声!

 長かった試合が終わった。

「優勝だぁ!」

 なぜか相良が一番嬉しそうだった。コートの中の当の本人達はまだ実感が湧かないようだった。自分も何だか実感が湧かなかった。優勝したのだ。本当に。

「よくやった。よくやった」と店長は泣いていた。それで皆もやっと実感が湧いたのか、わぁっとなり、誰からともなくパチパチと拍手をした。

「壇之さん」

 と、佐伯さんに握手を求められた。「やりましたね」と自分はその手を固く握る。

「最後は相手のミスで締まらなかったですけどね」

「いや、実力のうちです。良い試合でした」

 本当に良い試合だったのだ。

「おい、壇之」

 と、相良が自分をつつく。それで思い出して時計を見ると、もう十六時半を過ぎていた。

「ヤバい。行かなきゃ」

「え、行くってどこへ?」

 何も知らない佐伯さんは不思議そうな表情を浮かべた。

「佐伯さん、また次も優勝しましょう」

「ええ、もちろん」

「では、また体育館で!」

 と、自分が早々に帰ろうとするので歓喜のうちにいた皆もポカンとした。

「壇之、誠一郎は俺が家まで送っとく」

「サンキュー。助かる」

「あの、とうちゃん」

「誠一郎、ちゃんと相良の言うことを聞くんだぞ」

「うん。あのさ、とうちゃん」

「すまん。時間がないからとうちゃんはもう行く!」

 そう言って自分は体育館を後にした。風のように自転車を飛ばし駅まで向かう。自分でも信じられない速度が出た。これがいわゆる愛の力つうやつですか、なんて。あっという間に駅に着いた。本当はいけないことだが適当な場所に自転車を路駐し改札をくぐる。電車が来るまであと五分後あった。どう計算しても十七時に間に合う見込みはなかった。

 そこで自分は由美子に電話をかけた。が、誰かと話しているのか話し中だった。電車が来るまでの時間が焦ったい。自分は何度も時計を見た。ちくしょう。体育館ではあんなに時間が過ぎるのが早かったのに、今はちっとも進まない。もう一度電話をかける。今度は出ない。あぁ、もう、何て思っていたら電車が来た。

 自分は車窓から外の景色を眺めた。いつもは座って寝てたりするのだが今日は落ち着かず、座ることすら嫌で、ドアのところに立っていた。山が見える、マンションが見える、ショッピングモールが見える。流れていく。しかし自分はそれらの景色、人々の生活、その全てがどうでもよかった。というかもう由美子。今はもうそれしか考えられなかった。由美子以外の全てのものがどうでもよかった。ただ由美子の顔を見たかった。可能であれば抱きしめたかった。こんな気持ちはいつぶりだろうか。高校生ぶりくらいだろうか。高校生。思春期の頃。自分にもそんな可愛い時があったのだ。好きだったなぁ、由美子のこと。付き合ってくれた時は世界は自分のものになった、ってくらいの心地だったし、柄にもなく須東先輩に嫉妬したりもした。今思えば由美子にしたらいい迷惑だよなぁ。由美子。愛しい人、失いたくない人。

 新大阪に着き、ダッシュで階段を駆け上がった。新幹線の改札にたどり着くも、由美子はいなかった。時計を見ると十七時十五分。あの時間に体育館を出たことから考えるとかなり早い。が、しかし肝心の由美子がいないのであればそんなことに何の意味もなかった。

 いねぇ。が、そう言えば新幹線の改札はここだけじゃなかったな、と思い出し他の改札へも回ってみようと思った。

 一度在来線の改札から外に出る。観光客、サラリーマン、人であふれていた。そして暖かい。新大阪は、春。圧倒的に春。今更それに気付いた。


 結局、どの改札にも由美子はいなかった。

 自分は激しく落胆した。

 こういう時、ドラマなんかだと大声で名前を読んだりするよなぁ。んで、「ちょっとー、大きな声出さないでよ」なんて探し人がひょっこり出てくるのだ。「お土産を見ていたのよ。あなたへのお土産」だなんて。はは。まぁー、一応やってみようか。もしかしたら出てくるかもしれないしな、と思い「由美子ぉー」と割と大きな声で呼んでみたのだが、誰も出てこない。行き交う何人かに変な目で見られただけだった。ダメだった。いろいろ頑張ったが結局由美子は帰って来なかった。

 自分は失意のうちに駅構内にある居酒屋に入って酒を飲んだ。そうする他なかったのだ。素面では到底いられなかった。溜息をつき、お通しをアテにビールを三杯と芋のお湯割を一杯飲んだ。

 このままもう朝まで飲んでやろうか、と久々にフーテンの思考が過ったのだが、思えばもうじき夜で、由美子が帰らないのであればまた自分が誠一郎の夕飯を作らなければならないな、と思った。

 それでしゃーねぇ、切り上げるかぁ、とレジ係に伝票をわたしたのだが、提示された金額は想像していたよりもはるかに高かった。「え」と自分は咄嗟に声が出てしまったのだが、こんな主要都市の駅構内で堂々とぼったくり居酒屋をやっているとも考え辛く、よく見ていなかったのだが、場所も場所だしおそらくそもそもの値段設定が高かったのだろう、と納得し、大人しく金を払った。こんなに金を取られるのであれば何もこんなところで飲まなかったのに。無性にやりきれない気持ちになった。自分はやはりダメなやつだ、と思った。

 改札をくぐり、来た道を引き返す。今度はすぐに電車がやってきた。さっき来いよ、さっきよぉ、何て自分の間の悪さを呪いながら電車に乗る。またも座る気にはなれずドアのところに立ち、外を見ると遠くの空が暮れかけていた。また夜が来る。

 由美子、会いたかった。自分に何が足りなかったのだろう。仕事、金、父としての自覚? やー、まぁそれもそうなのだが、今になって思うのだけど、自分に一番足りていなかったのは「思いやり」ではないだろうか。

 思いやり、それは優しさ。

 そして優しさは想像することから生まれる。

 相手の気持ちを想像する。今この人は自分に何を求めているのか、どうしたいのか、そんなことを想像し、その結果が優しさに繋がる。正解を探すなんて言うと、それもまぁそうなのだが、その言い方はちょっといやらしくて、あまり気持ちよくないよなぁ。想像するのだ。想像。可愛い言葉じゃないか。

 自分は由美子の求めていることが分からなかったのではない。想像することをサボってしまっていたのだ。だから酔っていたとはいえ酷いことを言ってしまったのだ。

 もう何度も思ったが、やはり自分は馬鹿だ。今になっていろいろなことを後悔している。由美子が今、この世界のどこかで何を考えているのかを想像しなから。



 マンションの手前の曲がり角、辺りはもう真っ暗だってのに誠一郎が一人で立っていた。

「おい。危ないから夜に一人で出歩くなよ」

「かあちゃん帰ってきたよ」

「は?」

 自分は足を止めた。

「とうちゃんに内緒でたまにかあちゃんと電話してたんだ」

「何の話だよ」

「とうちゃんが今日お迎え間に合わないことも相良のおじちゃんの電話で先にかあちゃんに言ったんだよ。とうちゃんが走ってったあと」

「お前、またそんな嘘を」

 そう言いながら自分は泣いていた。ぽろぽろと涙を流していた。はは。息子の前で、馬鹿みてぇ。でも涙は止まらなかった。誠一郎はそんな自分を見て笑ってる。

「帰るぞ」

 そう言って自分は誠一郎をおぶった。

 誠一郎の言っていることが嘘なのか本当なのか、判断がつかなかった。あいつはいつの間にか上手に嘘をつくようになった。まぁ、いい。それも大人になるためには必要やスキルだ。

 嘘でも本当でもどちらでもいい、とはもちろん言わない。当たり前だが本当であってほしい。が、どちらにしてもこれが、今日、今この瞬間が新しい家族のスタートである。始まりである。

 自分は誠一郎の重みを背中に感じながら黒と灰が混ざり合って光るアスファルトを踏みしめ、歩きなれた家路を一歩一歩と埋めていった。

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愛の休日 @hitsuji

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