第2話


 物凄く怒られた。当たり前か。電車で寝過ごして灰街まで行った翌朝、当然姉ちゃんはカンカンだった。由美子、幼稚園の先生、姉ちゃん、最近の自分は怒られ続けだった。しかしまぁ、至らないところの多い人間であるのは事実であるが、皆叱ってくれるということはまだ人間を諦められてはいないわけで、人はゴキブリ相手に本気で怒ったりはしないわけで、自分は何とか今日も生きながらえた。

 姉ちゃんの家に迎えに行った時、誠一郎は朝の子供向け番組を観ていて、呼ぶと、何やら興味無さそうに自分のことを見た。

「遅くなって悪かった」

「うん」

「寂しくなかったか?」

「ぜんぜん」

 そう言って誠一郎はさっさと靴を履いて玄関を出て行ってしまった。後で姉ちゃんに聞いた話では、昨晩寂しくなりちょっとたけ泣いたらしい。そういう嘘はちょっと辛かった。

 それから二、三日、何か身体がだるいなーと思っていたら、体調はどんどん悪化してきて、鼻は出るわ咳も出るわで完全に風邪をひいてしまったようだった。こんな季節にあんな吹き曝しの公園で寝たことが原因なのは明白だった。

 しかし、だからと言って生活は止まってくれるはずもなく、自分は毎日誠一郎を送り迎えし、洗濯、掃除をやりつつ飯を作った。飯は相変わらず肉じゃがと特撮カレーの二択ローテーションだった。これについてはさすがの誠一郎も嫌気がさしてきたようで、自分もそろそろもう一パターン増やさんとなぁ、と思っていた。が、何にせよ身体がだるい。幸いにして熱は無さそうだが、料理の研究をする気は起きなかった。

 それはそうとして、自分には一つ気になることがあった。それはこの前相良の奴と飲んだ時に言われた仕事のこと。つか金のことだ。家賃だとか生活費だとか、その辺りのこと。

 冷静に考えてみたら、離婚する、しないは別にして、この状況で由美子が自分に次月分の金を与えてくれる保障は無い。家を追い出されるのは辛い。酒が飲めない飯が食えないというのも辛い。かと言って誠一郎の幼稚園を辞めさせるわけにもいかないし、そうなると選択肢はただ一つ、自分が働く他になかった。仕方がない。

 それにしても「仕方がない」という感情はこれは意外と侮れないエネルギー源で、仕方がない=選択肢がない=やるしかない、となると悩みも無用で、だってやるしかないんだから、やらないとどうにもならないんだから、と、自分はメディシンボールのように重だるい身体を引きずって履歴書を購入しに出掛けた。

 その翌日、自分はあらかじめ面接のアポイントを取っていた時間ちょうどに店舗に入った。駅前のコンビニ。自分の住む街は大阪だが京都との県境に近く、新大阪駅にも京都駅にも適度な時間で出られる便利な街なこともあり、駅前はそれなりに栄えていた。調べてみるとコンビニのバイトでもそれなりに時給が良かった。

 自分が店内に入るとおそらくセンサーで入店する人を感知しているのだろうが、ピコピコピーンと電子音がして、それに続いて「いらっしゃいませぇ」と女性の声が店の奥から聞こえた。レジには誰もいなかった。

 自分は店の奥まで行き、かがみ込んでパックのジュースを補充している店員さんを見つけた。小太りのおばちゃん。と、言っても自分と十歳も違わないか。声をかけると店員さんは「はいっ」と元気がよく、先程の「いらっしゃいませぇ」は多分この人だったのだろうなぁ、と思った。

「あの、バイトの面接に来たんですけど」

「あぁ、そうなんですか。じゃ、こちらにどうぞ」

 と、バックヤードに通された。バックヤードには男が一人いて、何やら不機嫌そうな顔つきでパソコンをいじっていた。

「野々山君、店長は?」

「ちょっと今外してますよ。あ、その人、もしかして面接の人?」

「そうそう。何か聞いてる?」

「ええ。後は僕がやっとくので、業務に戻ってもらって大丈夫ですよ」

 それでおばちゃんは自分に会釈して店内に戻って行った。

 で、まぁ、細かい話なのだが、今彼が、野々山君と呼ばれていた彼が「やっとく」と言ったのは話の流れからしておそらく自分の面接のことになると思うのだけど、あまり人の面接のことをやっとく、とか業務的な感じで、しかも本人の目の前で言うのはいかがなものかなぁ、と思った。だいたいにしてこの野々山という人物、見た感じ自分よりかなり若そうだが、何となく太々しい態度で初見から印象は最悪だった。

「ちょっと店長が急に席外しちゃって、戻ってくるまで僕が話聞いておくように言われてるんで。あのー、野々村です」

「あ、壇之です。よろしくお願いします」

 自分はちょっと咳込む。

「風邪引いてるんですか?」

「ちょっとですけど。すいません」

「まぁ、できればマスクを付けてきてほしかったなぁ。買って帰ってくださいよ。壇之さんは、えーと、今三十二歳?」

「すいません。買って帰ります。そうです。今年三十三になります」

「で、何、無職なの?」

「そうです。今は」

「それでその歳からバイト? また何で?」

「まぁ、ちょっと働かないといけない事情ができまして」

「じゃ、正社員でどっかの会社に就職すればいいじゃないですか」

「や、それはちょっと、子供の幼稚園の送り迎えがあるので」

「え、壇之さん子供いるの? 無職だったのに?」

「ええ。まぁ、一応」

「奥さんは何してんの?」

「妻は、えー、あの、まぁ今ちょっと体調を崩してまして。それでそのー、僕が働かないといけなくなっちゃったんですよね」

 自分は咄嗟に誤魔化した。

「へぇー。そうなんだ」

 そう言った野々山の目は、自分の話を信じているのかいないのか判断が付かなかったが、明らかに自分を見下したような目つきだった。つうか、バイトの面接って自分はかなり久しぶりなのだが、こんなにいろいろなことを聞かれるのか? ぐいぐい来すぎだろ。家庭のことなんて放っておいてくれよ。

「で、週にどれくらいシフト入れそうなんですか?」

「基本的には毎日入れますよ」

「あ、そっか無職だもんね」

 そう言って野々山は口元を押さえて笑った。自分は特別プライドの高い人間ではないと思っている。しかし、人並みに失礼な態度にはイラっとするし、嫌だなぁと思う。自分は確かにクソだが、何の迷惑もかけていない初対面の人からそんなにぞんざいに扱われる謂れはない。

「まぁ、最終は店長が決めることですけど、多分採用になるんじゃないですか。今人手不足で、壇之さんみたいな人でもほしいくらいだったし」

 もうこいつを殴って帰ろうかと思った。酒が入っていたら本当にやってしまっていたかもしれない。今日は一応面接だということで朝からまだ一滴も飲んでいなかった。だから自分は何とか堪えていたが、もうそろそろ限界だった。

 その時、バックヤードの扉が開いて男が入ってきた。自分と同い年くらいの男だった。「あ、店長」と野々山が言うからおそらくこの男が店長なのだろう。しかし自分はもう野々山の態度に腹が立ち過ぎて面接などどうでもよくなっていた。他を当たろう、縁がなかった、と帰ろうとしたところで店長と目が合った。

「え、あなた」

 と店長は自分の顔を見て驚いた様子だった。自分はその男の顔に見覚えはなかったが、店長は「え、マジ」とか言って野々山から履歴書をひったくって何度も自分と履歴書を見比べていた。

「壇之さん?」

「ええ、はい。壇之ですけど」

「あの雀林の壇之龍太郎さん?」

「え、あぁ。そうですね。はい」

「うわー。マジだー。すげぇ」

 と、店長は年甲斐もなく興奮していた。

 後で聞いたのだが、店長、佐伯さんと言うのだが、彼は自分の一つ下の学年で、同時期に大阪府内でバレーボールに勤しんでいた男だった。佐伯さん自身も府内ベスト8まで駒を進めた男だったのだが、何を隠そう彼は生粋の雀林ファンだったようで、自分等の全ての試合に足を運び、インタビューやら特集記事やらも収集したりしていたらしく、それで自分の顔と名前もよく知っており、興奮に至ったのだった。

 このようなことは今までもまぁ、たまにあった。しかし自分はドロップアウトした身で、フーテンだったので、基本は「人違いです」なんて言ってその場を凌いでいたのだが、この時ばかりは履歴書にしっかりと本名も出身校も書いてあったので正直に答えるほかなかった。

 まぁ、今回は結局それが功を奏した。野々山は不思議そうな顔をしていたが、自分は無事働き先が決まったのだった。



 めでたくバイトの採用が決まった数日後、件の姉ちゃんの顔合わせがあった。

 言われた時間に待ち合わせの駅へ行くと、もう既に親父、母さん、姉ちゃんと家族三人揃っていた。

「あれ、時間間違えた?」

「合ってるよ。俺等がちょっと早かったんだ。お前が時間通りに来るとは思わなかったけどな」

 と、親父。まったく酷い言い草だ。相変わらず家庭内での信頼はゼロだった。これからの顔合わせも気が重い。唯一の救いは風邪が治ったことか。それでもマイナスがゼロになったというだけなんだけどね。

「誠一郎君は今日はどうしたの?」

 と、姉ちゃん。

「今日は家にいるよ。相良の奴が様子を見てる」

 相良には職場からありったけのアニメDVDを持ってきてもらった。まぁ、何とか凌げるだろう。

「また適当なことをして」

「ねぇ、龍太郎、茂美から聞いたけど、由美子さんのご実家は大丈夫なのかい?」

 母さんが不安そうな顔で自分に聞いた。茂美というのは姉ちゃんの名前で、前に姉ちゃんに誠一郎を預けた時に由美子はお義父さんの具合が悪くて実家に帰ったと嘘をついたからそのことを気にしているのだ。

「まぁ、あんまり良くはないけど、大丈夫は大丈夫らしいよ。まだこっちには戻れなさそうだけど」

 自分はまた嘘をついた。でもそうするしかないじゃないか。由美子は自分に嫌気をさして出て行ったなんて正直に言ったら更に面倒くさい事態になる。極力大事にはしたくない。

 それにうちの両親にしても親父の定年後、早々に二人の故郷である九州に引っ込んでしまい日頃は近くにいない。何の協力も得られないのだ。それならいっそややこしいことは何も言いたくない。

「心配ねぇ」

「お母さん、由美子さんの実家より龍太郎の生活スタイルの方がずっと心配よ。いい歳してずっと無職なんだから」

 と、姉ちゃんがいらんことを挟む。親父は自分等の話を聞いているのか聞いていないのか分からないが、一貫して我関せずという感じだった。多分自分みたいな落第者とは会話をすることも嫌なのだろう。

「そうよねぇ。龍太郎、いい加減何とかならないのかい?」

「いやいや、実は数日前な……」

 と、言いかけた時に電車が来た。車内は混んでいたので皆バラバラに座り、何となく自分はバイトが決まったことを話しそびれてしまった。

 電車を降り、どことなくお香の香りの漂う通りを抜けて、祇園。へぇー、ここが祇園かぁ。名前は聞いたことがあったが来るのはこれが初めてだった。何やら格式高そうな店が並ぶ。自分は少し緊張して「こんなとこで飯を食うの?」と姉ちゃんに聞くと、姉ちゃんは何故そんなことを聞くのか、という感じで「そうだけど」と短く言った。

「そうだ、龍太郎。お前間違っても無職だなんて言うなよ」

 店へ向かう途中、親父が自分に厳しめに言った。

 何もこんな格式高い場所でそんなことを言わなくてもいいじゃないか。観光客に笑われる。と思って赤面したが、よく考えてみれば自分はもう無職じゃない。先程は言いそびれたが、バイトの採用が決まったのだ。

「いや、親父、あのな……」

 と言いかけた時、どうも目的の店に着いたらしく、しかも先方さんはもう店の前で待っていて、またしても自分の話は中断された。

「お待たせしてしまい申し訳ございません」

 と、親父と母さんが慌てて先方さんへ頭を下げる。「いえ」と、おそらくお母さんらしき方がすっと頭を下げられた。品位に満ち溢れていた。

 通された個室は気持ち悪いくらいに暖房が効いていた。古風な料亭。長机に両家が並び、合コンスタイルで向かい合う。

「えー、本日はお忙しい中誠にありがとうございます。何でしょうね。とりあえず自己紹介から始めましょうか」

 と、親父。自分は「あ、そこも合コンスタイルなんだなぁ」と少し大学時代のことを思い出した。姉と二人きりの姉弟なのでこのような顔合わせは初めてなのだが、まぁ、考えてみれば初めて会う者同士が顔を合わせる会なので、言ってみれば合コンと変わらない。幹事がいて、メンバーがいて、同じじゃないか。

 自己紹介は先方さんからだった。まずお父さん。大病院の院長みてぇだなぁ、なんて思っていたら本当にそうだったから笑いそうになった。身に纏うオーラが半端ねぇな。そしてお母さん。先程のお父さんに見合う、品位のある女性だった。若い頃はさぞかし美しかったんだろうなぁ、という感じ。で、姉ちゃんの旦那さんになる方。お聞きしていた通りお医者さんのようで、シュッとしている。映画やドラマなんかだと腕利の天才ドクター的な役で出てきそうなイケメンだった。何故にこんな立派な方が姉ちゃんなんかを嫁にもらったのか甚だ疑問だ。そして最後に弟。「あのー、僕はフーテンなんですけどね」って言ってくれれば自分も肩の荷が下りたのだが、やっぱりこいつも医者だった。そりゃそうだよな。そう聞いてたもん。お兄さん同様のイケメンだった。

 そして次はうちの番だった。正直もうやめたかった。やめた方がいいと思った。うちの中でも最下層に位置する自分が言うのもアレなんだけど、先方さんの輝かしい自己紹介の後に聞いていただく話などうちにあるはずが無い。どうする親父? どう乗り切る? 何て思っていたら、親父はさらっと自らの経歴と姉ちゃんのことだけをかいつまんで話し、後は名前だけの紹介だった。自分についても「弟の龍太郎です」の一言で終わった。正解。

 で、酒と料理が運ばれてきた。酒は地ビールで、何だか深みのある味だった。料理は、こういうのは懐石料理と言うのだろうか、よく分からんが美しくて、自分が作る肉じゃがとは大違いで何だか感心してしまい、もはや美味いのかどうか判断がつかなかった。

 会話は終始歯の浮くような話だった。こういう場では普通そういうものなのだろうか。いや、もちろん皆、普通の世間話をしているのだが、何だかんだいつも最後は「まぁっ、それはすごいですねぇ、ご立派ですねぇ」なんて結論に至り、結局互いに褒め合っているだけなのだ。中にはそれほどすごかないことだってあった。まったく、皆歯が浮いて飛んでいっちまうぜ、なんて自分は歯に挟まった魚の小骨をこっそり取ろうとしていたら正面に座っていた弟さんと目が合った。わっ、恥ずかしと思った時、不意に旦那さんが「龍太郎さんは何でもバレーですごい選手だったようで」とおそらく先立って仕入れていたのだろう事前情報を基に話を振ってきた。自分は急に話を振られて戸惑いつつも「あ、まぁ、昔の話ですよぉ」と本当に昔の話なので謙遜しつつそう言った。「でも全国三連覇なんてすごいじゃないですか」「ははっ。まぁ、ラッキーでした」と返しつつ家族を見ると、三人とも余計なことを言うな、という目で自分を見ていた。「ラッキーでした」ともう一度繰り返したところで天婦羅が運ばれてきて、何となく会話は終わった。

 しかしこの旦那さん、今日初めてお会いしたのだが、本当に気配りができて良い人だった。皆に気を遣って満遍なく話をふり、お酒が減っていたら「どうされますか?」と優しく聞く。合コンに行ったら絶対モテるだろう。なんつうか大人っていうか、歳自体は自分の三つ上らしいのだけど、自分が三年後にこの方みたいになっているとは到底思えなかった。

 やっぱりまぁ、仕事をすることから来る自信もあるんだろうなぁ。そりゃ医者だもんな。想像がつかないけど、やっぱり他人の病気を治したりしたら、「俺、やってんなぁ」って気持ちになるのだろうなぁ。世間の役に立ってるなぁ、的な。片や自分はコンビニのバイト。それも採用されたばかりでまだ何もできない。何なのだろう、この差は、彼にも自分にも平等に時間は与えられていたはずなのに、何なのだこの差は。何なのだって、まぁ、簡単だ。要はサボっていたのだ、自分は。彼が勉強を、仕事をしている時、自分は合コンをしていた。酒を飲んで野良ついていた。その差が今、目の前で大河のように自分等を分断しているのだ。

 そんなことを考えていたら締めの鯛飯が出てきた。出汁が効いていて非常に美味かった。何故か急に由美子に悪いなぁと思った。自分もこんな料理を家族に振る舞い、ちゃんと顔合わせをするべきだった。考えてみれば自分はそもそも両家の顔合わせすらしていない。その頃にはもう由美子のお腹には誠一郎がいたし、何だかんだで有耶無耶にしてしまっていた。でも結婚するのだから、本当はそういう家同士のこともちゃんとやらなければならなかったなぁ。今更だけどそう思った。

 バイトが決まったことはその日は結局家族に言えなかった。



 コンビニの仕事は鳥山さんから教わった。

 鳥山さんというのは自分が面接に行った時に声をかけたおばちゃんのことだ。鳥山さんは今四十歳で、中二と小五の息子さんがいる。面倒見が良く、いつも気さくに話しかけてくれるので、自分は大いに助かった。

「壇之君、バレーめちゃくちゃ上手かったらしいじゃない。全国三連覇なんてすごいわー。店長から聞いたわよ」

 何て屈託の無い笑顔で話す。他の人に言われると今が今だから恥ずかしくなるのだが、鳥山さんに言われると不思議と嫌な気がしなかった。

 話をしている中で分かったのだが、鳥山さんも野々山のことをあまり良く思っていないらしかった。

「あの人、高校生の頃からずっと働いてるのよ。だから何だかんだ長いから仕事できるし店長も信頼してて、発注も任せたりしてるんだけど、他のバイトからしたらちょっとねぇ。あの態度はないわよ」

「面接の日、初対面なのに人手が少ないから壇之さんみたいな人でも受かると思うなんて言われましたよ」

「そういうところよねー」

 人の悪口を言うのは楽しかった。

 仕事内容はレジ打ちと商品陳列が主で、とりあえずの基本動作はすぐに覚えたが、突き詰めるといろいろと細かいルールやテクニックがあり苦戦した。正直言ってコンビニのバイトなんて楽なものだと舐めてかかっていたところもある。甘かった。この世に楽な仕事なんて無い。だからお金がもらえるのだ。

 特に苦戦したのは宅急便の取り扱いで、重量だとかサイズだとか、それをレジに反映させるだとか、何度説明されても上手くできなかった。しかし周りを見回すと女子高生のバイトの子達も普通に宅急便を処理していて、自分は少なからず悔しかった。野々山はなかなかできない自分を小馬鹿にし、鳥山さんは根気よく何度も教えてくれた。自分は何としてもこれをマスターしたいと日々頑張った。



 幼稚園から電話がかかってきた。自分はまた怒られるのだろうかと少し身を固くしたがそういうわけではなく、話は誠一郎のことたった。

 聞くと今日誠一郎が園で喧嘩をして、相手の子を泣かしてしまったらしい。

「へぇ、あいつそんなこと一言も言わなかったのに」

 誠一郎は既に帰ってきており、今は黙々とブロックで何かを作っていた。

「幸いにしてお互い怪我はなかったんですけど」

「それなら良かったです」

「相手は年長さんの男の子なんですけど」

「え、歳上の子と喧嘩したんですか」

「そうです。何か遊具の順番でモメたらしくて」

「歳上の子と喧嘩だなんて、あいつ意外と根性あるなぁ」

 幼稚園児の一歳差なんてそれなりに体格差があるだろうに。

「お父さん、感心してる場合じゃないですよ。喧嘩は喧嘩。いけないことなんですからね」

「まぁ、そりゃそうかもしれないですけど、幼稚園児の喧嘩なんてよくある話じゃないんですか?」

「よくあることですけど、一つずつ解決していかないと。誠一郎君、お父さんには何も言わないかもしれませんけど、いろいろ考えてるかもしれませんよ」

「そうですかねぇ」

「とにかく、一度誠一郎君の話を聞いてあげてくださいね。よろしくお願いします」

 それで電話が切れた。

 話を聞く、か。まぁそういうのも大事だよな。

「誠一郎、今日幼稚園で喧嘩したのかぁ?」

 聞くと、誠一郎は少しドキっとしたのかブロックで遊ぶ手を止めた。

「したよ。お兄ちゃんと」

「あぁ、聞いたよ。年長だろ。すげぇじゃん。相手の方がでかかったろうに」

 自分は、いやいや、そうじゃないだろ、と頭を振った。

「何で喧嘩したんだ?」

「だってお兄ちゃんがブランコの順番代わってくれなかったから」

「まぁ順番はな、ちゃんと代わらないとダメだよな」

 誠一郎が頷く。

「あのー、でもな順番は代わらないといけないんだけどな。それは絶対的にそうなんだけど、やっぱその、喧嘩したり暴力振るったりするのはダメなんだよ。例え相手が悪くてもな。暴力は怖いからな。怪我したら痛いし怪我で済まない場合だってあるから。その、殴るとかそういうのがしたいならさ、ボクサーかなんかになった方がいいよ。その、もししたいならの話だけどな。だからそのー、つまりはアレだよ。喧嘩は良くない」

 慣れないことを言うから後半はしどろもどろになっていた。

「先生からも叩いたらダメだって言われた」

「うん。それは先生が正しい」

「ボクサーって何?」

「え、ボクサーってのはボクシングをする人だよ。あー、ボクシングっていうのはつまりはあの、パンチで戦う人だよ。スポーツだぞ。あくまで。スポーツ」

「そうなんだ」

「そうそう。それで、あのー、もう喧嘩はしない?」

「うん。しない」

「そうか。それなら良いけど。てか、そうだ、喧嘩した相手にはちゃんとごめんなさいしたか?」

「うん、謝った。仲直りした」

「そうか。うん、まぁ、それなら偉いぞ」

 自分はそう言って咳払いをした。何となく気まずくなって冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲んだ。

 あれで良かったのだろうか?

 思えば誠一郎が生まれてから父親らしいことを言ったのは今日が初めてだった。えー、良かったのかな? 冷静に考えたら途中のボクサーの話とかまったくいらなかったよな。まぁでも喧嘩はしないって言ってたしとりあえずこれで良かったのではなかろうか。

 しかし教育というものは難しいな。順番を代わらないのも悪いけど、殴ったりするのも悪いって、まぁ自分は大人だからそれはそうだよと思うけど、子供はそんな微妙なニュアンスまだ分からないしな。それに何が良くて何が悪いかなんて人の感覚によるところもあるし。結局、いろんな人がいろんなことを言うのを聞いて矛盾の中から自分の考え方を見つけ出すしかないんだよなぁ。

 そういえば自分は誠一郎には喧嘩はやめろとか、ちゃんと謝ったのかとか偉そうに言ったが、そういう自分だって由美子と度々喧嘩する。誠一郎にとってはこれも一つの矛盾だろう。それに自分は由美子に謝ってすらいない。

 教育。自分は半月ほど前のスーパーでの出来事を思い出した。

 その日は珍しく家族三人で買い物に来ていた。誠一郎は何やら目当てのお菓子があったようで、お菓子コーナーにそれを買いに行った。が、いくら探してみても誠一郎の言うお菓子は見当たらない。やがてそのお菓子の名前の書いてある値札だけが見つかった。値札のみで製品が無い。どうも売り切れているようだった。

「残念だったな」

 自分はそう言って早々にお菓子コーナーを立ち去ろうとしたのだが、誠一郎は納得がいっていないようでコーナーを離れようとしない。「絶対これを買うって決めてたの」と泣き出した。誠一郎がそんなことを言うのは珍しかった。そのお菓子を相当楽しみにしていたようだった。

「売り切れなんだからしょうがないだろ」

「やだ」

「嫌だって言っても無いものは無いんだよ」

 自分は早く煙草を吸いたかったこともあり少し苛ついた声で言った。でも誠一郎は泣くばかりで一向にそこを動こうとしない。するとそれまで黙っていた由美子が「自分でお店の人に聞いてみな」と言った。

「お店の人に聞いて、本当に無いか確認してみな。それでも無いかもしれないけど、もしかして運が良ければあるかもしれないんだから」

 由美子に言われて誠一郎は近くにいた店員さんにお菓子のことを聞いた。結果的には無かった。陳列してあるものが全てとのことだった。誠一郎はうなだれてはいたものの、先程よりは冷静さを取り戻したようだった。

「本当に無いんだってさ。どうする? 別のにする? それともまた違う日に一緒に探す?」

 由美子はしゃがみ込み、誠一郎の目を見て言った。

「違う日に一緒に探す」

 誠一郎は悔しそうではありながらもそう言った。

 その時、自分の頭の中には「教育」の二文字が浮かんでいた。無理矢理力で押し付けるような言い方をしても子供は分かってくれない。自分と由美子の言っていること自体は同じなのだが、伝え方、教えてあげ方で子供の反応は大きく違ってくる。となると自分も自分の話す言葉に気をつけなければいけないなぁ、なんて、そんなことを思っていた。

 空になった缶ビールをゴミ箱に捨てて欠伸をした。



 風向きが変わる、ということが本当にある。

 いや、自分もそんな都合の良いことが本当にあるとは思わなかった。でも変わった。それは不意にやってきた。

 定時になりタイムカードを押していたら、店長に「ちょっと話したいことがあるんですけど、時間あります?」と声をかけられた。「はぁ」と、本当は誠一郎の迎えもあるからなるべく早く帰りたかったのだが、店長だし、言うなれば上司だし了承した。バックヤードで話をするのかと思っていたのだが、コンビニを出て近所の喫茶店に入った。

「すいませんねぇ。お忙しいのに」

 テーブルの上にはホットコーヒーが二つ並ぶ。店長の奢りだった。

「それはいいですけど、そのー、いい加減敬語やめてくださいよ。鳥山さんとかにはタメ口なのに気まずいじゃないですか」

「あー、いや、はは。なかなかねぇ。なんせあの雀林の壇之さんですからねぇ」

 何て言ってへらへらと笑ってる。この感じではおそらくこれからも敬語をやめることはないだろうなぁ、と思った。

「で、どうしたんですか?」

 自分に何の話があるのかまったく想像がつかない。

「実はですね、折り入ってご相談があってですね。すいません。お時間をいただいた次第なんですけどね。でもなぁ、いや、失礼なお願いなんですけどね。本当、壇之さん怒っちゃうかもしれないんですけど。マジで」

 店長はそんなことを一人で呟きながらモジモジしていた。よく分からない。自分は正直言ってあまり時間も無かったので早めに切り上げたかった。

「別に何だろうと怒らないですよ。早く言っちゃってください」

「あ、はい。あのですね、私実は結婚しておりまして、あのー、妻が一人いるんですけど」

 結婚しているなら妻が一人いるのは当たり前だろう。面倒くさいなぁーと思った。

「その妻がですね、僕より歳はちょっと上なんですけど、これがねぇ、バレーをやっておりまして、昔からやっていたんですけどね、まぁ今はいわゆるママさんバレーを仲間内でやってるんですよ」

 なかなか話が見えない。自分は「ええ、ええ」と早送りみたいな相槌を打った。

「そのママさんバレーのチームがですね、頑張ってはいるみたいなんですけど、なかなか上手くならないんですよねぇ。年に二回地元で社会人バレーの大会があるんですけど、それもあんまり良い成果が残せてなくてですね」

「はい、はい。で、それがどうしたんですか」

「ええ、まぁ、旦那としてはね、妻も頑張ってるんでね、あのー、何とか勝たせてやりたいわけなんですよ」

「まぁ、そりゃそうでしょうけど」

「それでね、一つお願いなんですけど、もうここまできたらストレートに言いますけどね、壇之さん、うちの妻のチームのコーチになっていただけないでしょうか」

「えっ」

 自分は驚いた。

「壇之さんみたいな優秀な選手にチームをみてもらえればきっと強くなると思うんです」

「ちょっと待ってくださいよ。優秀な選手って、それはもう十年以上も前の話ですよ」

「えっ、でも雀林の壇之さんでしょ?」

「いや、そりゃ確かに雀林の壇之ですけど。もちろんそれはそうなんですけど」

「じゃあ大丈夫ですって」

「あのね、店長もご存知だと思いますけど、自分は怪我してバレーを辞めたんですよ。さっきも言いましたけど、もう十年以上も前の話ですよ。んで、それから一回もボールを触ってないんですよ」

「でも壇之さんでしょ?」

「いや、それは壇之ですけど」

 話の分からない男だなと思った。

「あ、そうか、壇之さん、そうかそうか。すいません。そりゃ壇之さんレベルの人だとタダでコーチなんてできませんよね。すいません。そうだ、その話をしてなかった」

「いや、店長そういう問題じゃなくて」

「チームで相談して、皆から少しずつお金を集めることにしたんですよ。コーチ費用ってことで。まぁ、壇之さんからしたら失礼な額なんですけどね。一応月額これくらいの金額でいかがでしょうか?」

 そう言って提示されたA4サイズの資料。表が書かれていて、一人一人名前が書かれた横に金額が書いてある。で、下の方に太字で書かれた合計金額に自分は驚いた。

「え、あの、これですか」

 まぁまぁな額だった。

「すいません。これくらいしか集まらなくて」

「いやいや、あのそういう意味じゃなくて。え、あの、チームって今何人くらいいるんですか?」

「あー、だいたい十五、六くらいですかね。この表のメンバーで全員です」

「ああ、そうか。表に書いてあるんですね」

 自分は明らかに動揺していた。

 その人数でカンパし合ったらこんな金額になるのか。少なくとも家賃は十分に払える金額だった。正直言って、かなり魅力的だった。

 しかし今の自分はコーチなど受けられる人間じゃない。チームを強くする自信なんて少しもない。自分はとっくの昔にバレーを捨てた人間だ。それを今更なんだ。無理である。不可能である。インポッシブルである。

「やらしてください」

 自分がそう言うと店長は力強くガッツポーズをした。



 家に帰り夕飯の用意をする。まぁこれは最近では日常的なことなのだが、今日のメニューは炒飯で、これは最近覚えた自分の新メニューなのだが、どうも料理に身が入らない。レタスと間違えてキャベツを切るわ、必要無いのに納豆のパックを開けるわ、卵を割るのを失敗するわでダメダメだった。理由はただ一つ、店長から引き受けたコーチのことだ。

「やらしてください」ってまったくどの口が言ったのか。いや、それはこの、他でもない自分の口なのだが、信じられない。今となっては最早声帯が勝手に喋り出したとしか思えない。できることに対して「やらしてください」なら分かる。やればいい。しかしできないことを「やらしてください」は明らかにおかしい。間違っている。矛盾している。

 どうすんだよー、マジでよー、と炒飯に塩こしょうを振りかけながら頭を捻る。案の定かけすぎた。あー、もうダメだ、どうでもいい、とできあがった出鱈目な炒飯を誠一郎に食わせ、自分は換気扇の下で煙草に火をつけ芋焼酎をロックでやった。

 断わろう。それが一番正しい選択肢だ。と、まずはそう思った。だがそう考えるとそれはそれで惜しい気持ちになる。と、言うのは金。店長から提示されたあの金額は本当に魅力的だった。

 家計のやり繰りは近頃自分の悩みの種だった。気付けば由美子が家を出てから早一月が経ち、先日初めての月末を迎えた。恐れていたことだったが、由美子はやはり家賃、生活費をくれなかった。唯一、幼稚園の学費だけは振り込んでくれたようだが、その他は無し。自分は一応コンビニバイトで稼いだ金があったが、家賃を差し引いた後、どう計算しても月末まで生活費が保ちそうになかった。家計を管理してみて初めて分かったのだが、電気代やら水道代やらいろいろなことに何かと金がかかる。何も考えずに野良ついていた日々が懐かしい。とりあえず今月は姉ちゃんに適当なことを言って金を借りられたからぎりぎり何とかなりそうではあるが、来月は同じ手は確実に使えない。そこに来てあのコーチ費は本当にでかかった。

 やっぱり受けようかなぁ。や、しかしもし引き受けた結果全然ダメだったら、後になって支払ったコーチ費を返せなんて話になるかもしれない。それはそれで困る。おそらくその頃にはもう金なんて残っていない。

 煙草を灰皿に押しつけて、「とうちゃんさぁ、コーチになろうかなぁって思ってるんだよ」と誠一郎に言ってみる。

「コーチって何?」

 誠一郎はもぐもぐと炒飯を食べながら言った。

「まぁ、先生みたいなもんかな。ちょっと違うか?」

「すげぇ。とうちゃん、先生になるんだ」

「いや、まぁ別にそんなすごかないけどさぁ。まだ決まったわけでもないし」

「先生かぁ。頑張ってな」

「あぁ、うん。まぁ。あ、その炒飯ちょっと味濃くないか?」

「ううん。別に」

「そうか。それなら良かったけど」

 誠一郎は軽く頷き続きを食べだす。

 自分はもう一本煙草に火をつけた。窓の外、遠くの空を飛行機がゆっくりと下降しているのが見えた。もう二月だった。

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