愛の休日

@hitsuji

第1話


 賀状。あけましておめでとう。わーい、年が明けた、明けた。めでたいなぁ。だ、なんて一日中酒を煽っていた正月の翌一月二日の朝、由美子が家から忽然と消えていた。

 ボウリング玉のように重たい頭を抱えて台所、氷を入れた水道水を飲む。煙草に火をつける。そういえば昨夜、よくは覚えていないが何だか由美子と言い争いになったような気がする。勢いに任せて出て行け的なことを言ってしまった気がする。記憶がはっきりとしないのだが。いやいや、どうにもなぁ、と、曖昧な記憶を整理しようと思い唸ってみるも、ポケットで絡まったイヤホン状態で、これを紐解くなど不可能だと思い、自分は早々にサジを投げた。

「ちょっと飲み過ぎたかなぁ」

 と、誰もいないリビングで言ってみる。冷え切った部屋、大阪府内のボロマンション。乾いた声だった。それとほぼ同時に起き抜けの誠一郎が寝室からもぞもぞと出てきた。

「かぁちゃんは?」

 目を擦る五歳児。正月休みですっかり寝坊癖がついたようだった。くるくるの天然パーマが寝癖で変な方向にはねている。

「いねぇんだよ」

「何で?」

「知らねぇ」

 と、自分が言うと誠一郎は何も言わず眠そうに炬燵に入って行った。

「ちょっと待て、誠一郎。とうちゃん、昨日の夜何か言ってたか?」

「何かってなに?」

「いや、お母さんに何か」

「何かすごい喧嘩してた」

「あ、やっぱりそうか」

「うんこ野郎ぶっ殺すぞって言ってた」

「馬鹿、嘘つけ」

 いくら泥酔した自分でも流石にそこまで幼稚なことは言わない。誠一郎は最近、幼稚園の友達の影響かしょうもない嘘をつく。

 と、まぁ、言っても夫婦喧嘩なんて日常茶飯事だったし、今日は一月二日だし、三箇日だし、どうせどこかに新年の挨拶にでもまわってるんだろうなぁ、何て炬燵に入りみかんを食いながら誠一郎とテレビゲームをしていたのだが、時刻は正午を過ぎ、十四時、十五時、一向に帰って来ない。それで自分も段々と不安になってきて電話をかけてみたのだが出ない。

「かぁちゃん、電話出ないの?」

「出ねぇ。まったく、何やってんだよあいつは。新年早々さぁ」

 と、ボヤきながら寝室のドアを開けて驚いた。朝起きた時は気がつかなかったのだが、箪笥が開け放たれ、由美子の衣類がごっそりなくなっていた。クローゼットの中を見ると、一番大きなスーツケースもなくなっている。

 やりやがった。

 焦って再度由美子に電話をかけるもやはり出ない。五回目の「ただ今電話に出ることができません」で電話に対してはとりあえず心が折れた。

「とうちゃん、お腹空いた」

 ハッとして見ると誠一郎が炬燵に横たわったまま自分を見ている。

「あ、え。うん」

 言われてみればもう夕方近い。自分も誠一郎も朝から何も食べていなかった。自分自身はまったく食欲が湧かないのだが、一応人の親ではあるので、息子を餓死させるわけにはいかない。それで何か食べるものを用意しようと、とりあえずキッチンに立ってみる。が、並べられた器具や道具を見ても、何をどうすればいいのか全く分からなかった。

 由美子は家事をしっかりやるタイプの女でその分拘りも強く、家財道具を所定された場所と違った場所に片付けてしまったりしたらえらい剣幕で怒る。だから自分は台所など様々なものがあってややこしいので、普段は立つことすら嫌で、なるべく近寄らないようにしていた。冷蔵庫を開ける。ヨーグルト、茄子の漬け物、半分減ったキムチ、缶ビール、キウイ、昨日の残りの黒豆、自分がアテに買っていたブルーチーズ。この中で誠一郎が食えそうなものはヨーグルトとキウイくらいだが、これでは全く腹の足しにはならないだろなぁ、しゃあないからコンビニでも行こうか、と、思った時、奇跡的に特撮キャラがパッケージにプリントされた子供用のカレーを見つけた。

 パッケージの裏にある調理方法、言っても湯を沸かしてボイルするだけなのだが、に従ってカレーを作る。いつぶりか分からないくらい久しぶりの料理だった。カレーは、何だか懐かしい匂いがした。誠一郎はこれを喜んで食べたので、自分も少し気分が良くなり缶ビールを開けた。

 それで酒を飲み出すと、何だか楽観的思考になり、これは自分はよくあることなのだが、由美子のやつもそう無茶はしないだろうと、明日には何もなかったように帰ってくるだろうと都合の良い考えに行き着いた。そうだよ。うん。どこに行ったか知らんが、そうそう放置しないだろ。誠一郎のことも、自分のことも。はは。何て、ビールから焼酎へバトンをわたす。味付け程度にハイサワーを少し注ぐ。はは。なんて、それが今日も結局深酒になり、朝起きると自分は寒部屋に一人、ソファで毛布も被らず冷凍チキンのようになっていた。

 寝室を覗くと誠一郎が布団に逆さになって眠っていた。相変わらず寝相が悪い。由美子は帰っていなかった。

 自分はとりあえずスーパーに昨晩の特撮カレーを買いに走った。五パック買った。



 はっきり言う。自分、壇之龍太郎はフーテンである。

 フーテン。最近あんま聞かない単語ではあるよなぁ。でも、フリーター、じゃねぇ、自分は働いていない。かと言って、ニート、でもねぇ、自分はちゃんと外に出る。外に出て酒を飲む。だからまぁ、当てはまる言葉としてはフーテンなのだろう。フーテンという言葉は谷崎潤一郎の小説「瘋癲老人日記」から来たのだとかそうじゃないだとか。何かで読んだ。それはまぁ、どうでもいいのだが。早い話、自分はクソだ。

 家のこと、金のこと、息子のことは妻の由美子に全て任せている。由美子は高校の一個上の先輩なのだが、高校卒業後、看護の専門学校へ進み、今は看護師をやっている。看護師というのはいろいろと大変な仕事であり、慢性的な人手不足、売り手市場の職種であり、働き口に困ることは無い。また、夜勤などをすれば特殊な手当ても出るため、収入もそれなりに良かった。そこで、誠一郎はもちろん、自分もそれにあやかり、ちゃっかりと由美子の扶養家族に名を連ね、何とかかんとか親子三人暮らしていた。

 由美子とは高校生の頃から交際している。あれは自分が高一、由美子が高二の冬。

 あの頃、高校の頃、もう十五年ほど前であるが、自分はスターだった、アイドルだった、鳥だった。自分は当時、バレーボールに勤しんでおり、それもかなり上手かった。雀林高校という名を当時、大阪府内府外を問わず、バレーボール関係者で知らない奴はいなかっただろう。全国大会三連覇。圧倒的な強さだった。何を隠そう、自分はそこのエースだった。雀林高校の壇之と言えば当時、全国のバレーボーラーの憧れの存在。ま、それはちと、言い過ぎかもしれないが、注目の的であったのは事実だ。テレビにも映った。インタビューも受けた。行く行くはプロ入り、んで全日本入り、皆そう言っていたし、自分でもそう思っていた。

 が、現に今、そうなっているのかと言うと、なっていない。先程も言ったが、今現在自分はフーテンである。全日本どころかプロにもなれていない。つか職すらない。

 どこで間違ったかと言うと、それはもう明確に分かっている。大学だ。自分は大学になんて進学するべきではなかった。野球やサッカー何かとは違って、バレーボールのプロ選手には大卒の人が多い。てか殆どが大卒だ。だから一般的に見て高校バレーで活躍したからといって即プロ入りせず大学に進学すること自体は間違いではない。しかし当時の自分には実力があったしネームバリューもあった。大学なんて回り道をせずにすんなりとプロ入りしておけば良かったのだ。今ではそう思う。それを当時の自分は救いようのない馬鹿で、自分を磨くため、とか、自分のバレーを追求するため、とか真摯な理由でなく、ドラマで観た華々しいキャンパスライフに憧れ、可愛い女子大生とウハウハの大学生活を送りたいという不純な動機だけで進学を選んだ。プロ入りは、まぁ、大学で四年間遊んでからでいいよね、なんて軽く思っていた。本当に不純、且つ救いようがない。そんな生半可な気持ちでいるから二十歳の時に別に重要でも何でもない練習試合で大怪我をして、あっさり選手生命を絶たれてしまったのだ。

 自分の怪我のことは当時、ちょっとしたニュースにもなった。「バレー壇之大怪我」「バレー壇之選手生命絶たれる」等、割と大きな活字でスポーツ新聞にも載っていた。辛かった。でも本当の地獄はそこからで、怪我をしてからしばらくの間は手術だとかリハビリだとかで大学を休学していたのだが、戻ってみると皆どこか余所余所しい。腫れ物に触るような目で自分のことを見る。確かに怪我をするまでの自分はスターだった。だからそれが怪我で水の泡に化した今、周りがそのような目で自分を見てしまう気持ちは分からんでもなかったが、それにしても辛かった。部活にも戻れなかった。試合に出られなくても裏方でチームを支えるだとか、そんな美談には興味がなかったし、そもそも自分はそんなに清い人間ではない。結局学業にも身が入らず、何回かの留年の末、二十四歳で大学も中退した。

 その後、今日に至るまで何一つ上手くいっていない。何度か就職をしてみたこともあるが、どれも長続きしなかった。

 自分が二十六歳の時に由美子が誠一郎を身籠り、そのタイミングで籍を入れた。妊娠初期、由美子はつわりが酷く、早々に産休に入った。自分もその時、献身的に家のことをサポートするという名目で仕事を辞めた。まぁ、結局ほとんど何もしていなかったのだが。由美子のつわりのことが仕事を辞めた理由の一つであるのは確かではあるのだが、自分は当時、働くことに対して嫌気がさしてしまっていた。だから此れ都合良し、と辞めてしまった感はある。そしてそれ以降働いていない。収入については由美子に頼り、自分は野良野良と酒を飲んで暮らしている。

 なんて、改めて言葉にすると、自分はやはりクソだな。だからまぁ、由美子が出て行く理由も頷ける。世間一般的に見てもおそらくそうだろう。つか、何で今まで離婚しなかったんだよ、何て皆言いそうだな。分かってる。分かってるって。それでも由美子は側にいてくれるのだろうなぁ、と自分は思っていたのだ。



 デイドリームビリーバー。由美子は翌日も翌々日も、その次の日も帰らなかった。相変わらず電話にも出ない。

 それで一番現実的に頭を悩ませたのは誠一郎の食事のことだった。自分一人であれば食事などどうとでもなる。酒を飲み、鼠のようにブルーチーズでも齧っていれば何となく生きていけるのだろうが、幼い誠一郎はそうもいかない。で、朝はトーストにジャムを塗って与えていたのだが、それ以外の昼夜は全て例の特撮カレーに頼っていた。誠一郎本人はこのカレーを相当気に入っていたらしく、何の文句も言わないのだが、流石に三四日続くと、栄養面的にこれはちょっとどうなんだろうなぁ、と自分も危機感を覚えた。

 ほんでまぁ、自分は、肉じゃがを作ってみようと思った。

 何故に肉じゃがなのかと言うと、ほら、よく駆け出しの、つうか新婚の女の子なんかだと、「得意料理は肉じゃがです」なんて言うじゃない? アイドルの子とかさ。自分のイメージだけど。それで肉じゃがなら簡単なのかなぁ、と思ったのだ。野菜も入っているから栄養価も高そうだし。

 それで自分は携帯で調べた食材をスーパーで購入。台所にて齢三十二、真剣に料理と向き合った。

 えーと、まずじゃが芋は乱切りで切って水につけてアクを取る、と。いきなり乱切りが分からん。えー。いや、もう食べれるサイズであれば何切りでもいいだろ、つうことでこれを一口サイズにカットし、言われた通り水に浸けた。で、次は、にんじんも乱切り。だから乱切りが分からないんだよ。とりあえず切る。玉ねぎも、切る。それで牛肉を炒めろってんだけど、これが牛肉200gとある。え、gってどうやって計んの? と、思い、あー、そうだ、計量器だ、計量器と探してみるも、周辺にそれらしきものは見当たらない。結局自分は目分量で牛肉を鍋にぶち混んだ。で、カットした野菜達もそれに続けて投入したのだが、鍋の中でじゅうじゅういってる食材達を見て、急に不安になった。乱切りじゃないと美味くできないとか、そういうのがあったんじゃないかなぁ、とか、肉は目分量じゃダメだったんじゃないのかなぁ、とか、そんな不吉な考えが脳裏を過ぎる。しかし既にもう取り返しはつかない。どうあっても野菜は乱切りではないし牛肉は目分量だ。先へ進むしかない、と不吉な考えを振り切り、調味料類を加えていく。水200ml、醤油大さじ二杯、みりん大さじ二杯、酒大さじ二杯、砂糖大さじ二杯、塩こしょう少々。少々? 少々って何? え、え、何て考えている間も鍋の中の肉じゃがは待ってくれない。自分は知らん、知らんとヤケになり塩こしょうを適当に振りかけた。あとは書いてある通りの時間これを煮込めば出来上がりなのだが、冷蔵庫を見ると糸こんにゃくを入れるのを忘れていた。自分はもう、構わず缶ビールを開けた。

「とうちゃん、ご飯まだ?」

 相変わらずぐうたらの誠一郎が炬燵の中から自分に声をかけてきた。テレビでは録画しておいた件の特撮が流れている。

「もうできるよ」

「カレー?」

「や、今日は肉じゃがだよ」

「えー。カレーが良かったなぁ」

「昨日までずっとカレーだったろ。肉じゃが、美味いから食え」

 と、自分は出来上がったばかりの肉じゃがを誠一郎に出した。見た感じは普通に肉じゃがだった。誠一郎は不満そうな顔ではあったがこれを食べ出した。

「どう? 美味い?」

 自分は不安だった。よく考えたら一度も味見をしていないのだ。

「うん」

「え、美味い?」

「美味しいよ」

 そう言われて自分も鍋に残った肉じゃがを一口食べてみる。普通に肉じゃがの味がした。と言うかこれは、正直言ってかなり美味かった。昔、家庭科の調理実習で何かを作ったら、全然大したものでなくてもやたらと美味く感じた。その感覚に似ていた。とりあえずワンステップ階段を登れた気がした。

 しかし生活というものは、いざ向き合うとこれはどうにも厄介なものなのだなぁ。洗濯をしないと着るものもなくなるし、当たり前だが洗濯物を干したら取り込まなければならない。本当のことを言うと畳まなければならない。面倒でそこまではやらなかったが。掃除だってやらずに放置しすぎると埃やら毛やらが靴下の裏にくっついてきて気になる。それで泣く泣く掃除機をかけるのだ。面倒くさい。で、自分はそんな家事という家事に慣れていないので手際も悪く、何だかんだ苦戦しているうちにまた飯の時間が来て一日が終わる。野良ついている暇も無い。何だ、何だ、由美子はいつもこんな大変なことを一人でやっていたのか。


 明くる夕方、由美子から電話がかかってきた。

「おい、いったい今どこにいるんだ」

「そんなのあんたには関係ない」

 久しぶりの由美子の声だった。やはりと言うか何と言うか、怒っている感じだった。

「関係ないってなぁ。誠一郎の世話もあるし、家事だっていろいろ大変なんだぞ」

「そんなの分かってるわよ。私がずっとやってたんだから」

 それはまぁ、確かにそうだ。

「つか、マジで今どこにいんの? 倉敷の実家か? あんなとこお前だって居心地も悪いだろ」

 由美子の実家は元々は大阪にあったのだが、由美子が専門学校を出た頃に、姉夫婦のいる倉敷に両親ともに越したのだ。今は確か、向こうで姉夫婦と二世帯住宅に住んでいるはずだ。居心地が良いはずがない。

「明日から誠一郎の幼稚園が始まるから」

 由美子は自分の質問を無視して話し始めた。

「ふぁっ、もうそんな日か」

「馬鹿な声出してんじゃないわよ。用意とかそういうの、ちゃんとやりなさいよ。あと送り迎えも」

「おいおい。ちゃんとって何をちゃんとやるんだよ」

「リビングの戸棚の上から二番目の引き出しに幼稚園のマニュアルがある。あと一月の予定表も。それ読んで」

「いや、でも、それは、えぇー。つか、お前、まだ帰って来ないんかよ。おい」

「ちゃんとやりなさいよ」

 それだけ言うと由美子は電話を切ってしまった。折り返してみるも、どうやら電源が切られているようでコール音すらしなかった。何と言う強引な奴だ。自分は初めて怒りを覚えた。ソファの上のクッションに回し蹴りをかましたろかしらん、と思ったが、向こうでブロック遊びをしている誠一郎がこちらを見ていたので止めておいた。

「明日から幼稚園だぞ」

「えー、やったー」

 誠一郎は嬉しそうに手を挙げた。

「幼稚園は好きか?」

「大好き」

「そうか。それはまぁ、良いことだ」

「大嫌い」

「いや、どっちだよ」

「嘘だよ」

「どっちがだよ」

 まったく、早くその嘘つきブームを止めてほしい。てんで会話にならねぇ。

 それで自分は言われた戸棚から幼稚園のマニュアルを取り出した。これが意外と分厚いマニュアルで、送り迎えのバスの時刻だとか、給食のある曜日だとか、年間行事のことだとか、その他細かな注意事項だとか、様々な基本情報が載っていた。特にこの細かな注意事項というのが凄い。たくさんある。幼稚園とは言えいろいろなルールがあるんだなぁ、と自分は少し感心した。幼稚園なんてものは適当に遊んでくる場所くらいにしか考えていなかった。まぁでも、確かに最近はいろいろうるさい親、モンスターペアレント言うんかな、そういう輩も多いらしいから、園の側も何かとルールを定めておかないと大変なんだろなぁ、なんて思った。

 由美子の言う通り一月の予定表というものもあった。それを読むと、どうも日によって園でやることが違うらしく、それに合わせて月曜は制服で登校、火曜は体操服で登校、と着せる服を変えなければならないとのこと。ほう。これは危ない。一人だけ違う服で登校させちゃ可愛そうだもんな。自分も大学の入学式の時、男子生徒はスーツで行くという定説を知らず、一人だけバリバリの私服で行って恥ずかしい思いをした経験がある。とりあえず明日は、おっ、始業式だから制服なんだな。了解。オーケー、オーケー、と、さらに読み進めると各日の給食のメニューも書いてある。えーと、豚肉の塩麹焼き、ほうれん草の胡麻和え、きのこたっぷりシチュー。何だよ、意外と本格的じゃねぇか。つか、下手したら自分よりも良いものを食べてるんじゃないか、と思う。すげぇなぁ、今の園児は。自分が幼稚園児の頃なんてー、と言ってもまったく覚えてないけど。おそらく何かしらの給食を食べてたんだろうなぁー。全然記憶にない。

 それで翌朝、マニュアルに書いてある通りの時間に誠一郎をバス乗り場に連れて行った。

 自分の他に二人のお母さん、四人の園児がいた。見た感じ(お母さん+子供二人)×2という構成のようで、どちらも兄弟で同じ幼稚園へ通っているらしかった。誠一郎はすっかり顔馴染みのようで、おはよー、なんて子供同士さっそく遊び始めた。お母さん二人は、今朝は由美子でなく自分が送りに来たことに少し驚いている様子だった。まぁー、誠一郎が入園して二年弱、毎日百パーセント由美子が送り迎えに来ていたのに、いきなり自分が来たら少なからず動揺するわな。自分はそんなお母さん等になるべく気を遣わせないようペコりと頭を下げ、後は端の方で黙っていた。やがてバスが来て誠一郎達を連れて行った。

 なるほどねぇ、と思い自分は煙草を吸いながら家へ帰った。家へ帰ると部屋はがらんどうで、まぁ、今この家には自分と誠一郎しかおらず、その片割れの誠一郎が幼稚園へ行ってしまった今、部屋に自分しかいないのは当たり前なのだが。そこで自分は気付いた。

 誠一郎が帰ってくるまでは自由な時間ではないか。

 間違いない。誠一郎は今日は昼前まで帰って来ない。ひゃほーい。自由な時間だ。久々の自由な時間だ。とりあえず酒だ、酒だ、と自分は早速冷蔵庫から缶ビールを取り出し、買い置きしていたナッツをアテにこれをやった。思えば最近、家事やら育児やらに追われて腰を据えて酒を飲むことがなかった。こりゃー、とことんやったるしかないな、と床下収納から芋焼酎を取り出して煽った。テンションが上がってありったけのウインナーを焼いた。ははは。何だよ、楽勝じゃねぇかよ、主婦業。誠一郎がいない時間は一人天下じゃん。自分は笑った。音楽をかけて踊った。

 暫くした頃、何かが遠くの方から自分を呼んでいた。

 プルルルルと電子音。ふぁっ。何だ。つか、いつの間にか自分はソファで眠っていた。起き上がるとまず吐き気がした。うぇっ。しかしこんなところでリバースするわけにもいかずグッと耐える。プルルルル。電子音は未だに鳴り続けていた。「ここにいるよぉ」と声を張ってみたものの、その頃にはもう、先程から鳴っているこの電子音の正体はリビングの端に設置してある固定電話の着信音だということに自分も薄々気付いており、自分が電話に出ないことにはコミュニケーションが始まらないことは何となく分かっていた。ったく誰だよこんな時によぉ、と、電話に出ると幼稚園からだった。

「誰もバスのお迎えに来られないから誠一郎君、今も園で待っているんですよ」

 担任の先生だろうか。自分より少し若い感じの女の人で、声色からして怒っていた。え、でも迎えは昼前でしょ、と、こちらも半ば切れ気味で言い返しつつ時計を見て自分は青ざめた。もう十五時半だった。またやった。自分は慌てて謝り、気持ち悪い腹を抱えながらも幼稚園まで自転車を飛ばした。教室にたどり着くと誠一郎は机に向かいクレヨンで塗り絵をしていた。意外と上手だった。



「で、いい歳こいて幼稚園の先生にめためたに怒られたってか」

 相良は中ジョッキを飲み干して笑いながら言った。

「もうボロクソだよ」

 溜息をつきながら自分も中ジョッキを飲み干す。それを見て相良はおかわりを二杯注文した。鶴橋のガード下の居酒屋。カウンター。野郎二人、ホルモンを貪っていた。

「親としての自覚が足りないって」

「逆に自覚足りてるって思ってた?」

「いや、そりゃ、思ってないけどさ」

 親としての自覚。それが何なのかすら自分にはよく分からん。またも溜息。何か、今夜は無意識のうちに溜息が出る。そんな自分を見て相良は馬鹿にしたように笑う。まったく、テメーも人のことを笑っていられるような立派な人間じゃねぇくせに。

 この相良という薄らデカい男は自分の高校の同級生であり、共に雀林高校バレー部の全盛期を支えたメンバーだった。奴は高校を卒業後大学に進学するも、何を思ったのか三回生の秋に突如大学を辞め、バレー修行のために単身イタリアへ渡った。それでじゃあ大成したかというとそうでもなく、奴がイタリアへ行っていた数年間は自分もあまり連絡を取っていなかったのだが、ある日ひょっこり帰ってきて、それ以来はレンタルビデオ屋でアルバイトをしている。要は自分と同じドロップアウト組の男だった。変に気が合い、こうやって今でもたまに会って酒を飲んでいるのだ。

「しかし本当に参ってるよ」

「お前、今日は息子はどうしたんだよ?」

「姉ちゃんに預けた」

「大丈夫なのかよそんなんで」

「いいんだよ。これも一つの花嫁修行だよ。あ、そうそう。何かさぁ、うちの姉ちゃん、今度いよいよ結婚するらしいんだ」

「へぇ」

「相手、どんな人だと思う?」

「どんなって、お前の姉ちゃん何の仕事してる人なんだっけ?」

「何か、薬の研究? よく知らねぇけど、研究職だよ。薬の。薬学部卒だから」

「じゃ、普通に考えたらその研究所の同僚とかじゃねぇの」

「だろ? そう思うよなー。それが違くて、何と、相手、医者らしいんだよ。医者」

「はぁ? マジ? すげぇじゃん。玉の輿じゃん。でも何で?」

「何かその、薬学部のゼミの教授の紹介らしいんだよ。よく知らねぇけど、繋がり深い業界らしいよ。医療業界というところは」

「へぇ。で、お前会ったの? そのお医者さんとは」

「いや、まだ。でも来週末に両家の顔合わせがあって、その時会う予定。相手、親も兄弟も医者らしい。いわゆる医者家系ってやつ」

「うわ、きっつ」

「だろー」

 自分はそう言ってホルモンを噛み噛みした。頭上を電車が走っていく。店全体が少し揺れた。

「お前、仕事何してるんですかって聞かれたらどう答える気? まさか無職とは言えないだろ」

「そうだよなー」

「そうだよなー、じゃねぇよ。馬鹿。でもお前もリアルに仕事探さないとヤバいんじゃねぇの?」

「え、何で?」

「何でって、もう由美子さんとは離婚だろ? どうすんだよ。家賃とか諸々の生活費とか」

「あれ、離婚するなんて言ったっけ?」

「いや、だって由美子さん出て行ったんだろ」

「出てったは出てったけど」

「お前もおめでたいやつだなぁ」

 相良は半ば呆れ顔で煙草に火をつけた。まぁ、言われてみれば確かにそうだ。由美子が出て行ってからもう一週間以上経つ。幼稚園が始まる前日以来連絡も無い。離婚というのも十分に有り得る話だ。

「で、由美子さんは実家に帰ったの?」

「いやぁ、それもよく分からないんだよな。聞いても言わないし。多分倉敷の実家だと思うんだけどなぁ。それ以外行く当てなんてないだろうし」

「意外と須東先輩のとこだったりして」

 相良はそう言って下品な笑いを浮かべた。

「よせよ。何年前の話だよ」

 須東先輩というのはバレー部の一つ上の先輩で、由美子が高一の頃、自分が入学する前に付き合っていた男だ。相良は未だにそのことで自分をイジってくる。須東先輩。確かにバレーは上手く、面もまぁまぁではあったがあまり性格が良い男ではなかった。由美子が何故あんな男と付き合っていたのか、自分としては大いに疑問だった。まぁ、そんなに長くは付き合っていなかったのだけど。あの先輩、今はどこで何をやっているのだろうなぁ。大学へ進学してからもバレーを続けていたらしいが、その後まったく名前を聞かない。

 店を出た頃にはもう夜は深かった。

「俺、何でイタリアなんて行ったんだろ」

 虚な目で相良が言う。酔うといつもこの話になるのだ。何だかんだ今日もかなり飲んだ。足元がふらつく。

「だから気の迷いだったんだろ。もういい加減忘れろよ」

「大学に残って頑張っとけばよかったなぁ」

「いや、高校出てすぐにプロ入りしとけば良かったんだよ」

「それもなぁ。つか、お前は慢心せず大学でも頑張っておけば良かったんだよ。合コンばっか行ってるから怪我なんてしたんだよ」

「大学生なんだから合コンくらいするだろ」

「程度の問題だっつうの。今更だけどさぁ、真面目にコツコツやるってすごく大事なことだと思うわ。マジで。慢心したり一段飛ばししたりしようとするから痛い目にあうんだよ」

「それはまぁ、そうなんだろうな」

 高校時代、自分と相良はチームの中心だった。自分等がいなかったら全国三連覇なんてまず叶わなかっただろう。が、結局その二人が今この様だ。自分等以外にレギュラーだったメンバー五人のうち、三人が大学に進学の後、プロになった。うち一人は全日本にも選ばれた。彼等は皆、慢心することもなく自らを見誤ったりすることもなくコツコツと努力をしたのだ。その結果報われた。

 ラーメンでも食って帰る? と、相良に誘われたが、さっきから何度も姉ちゃんから電話がかかってきており、今日はこの辺でやめとくわ、と言ってガード下で別れた。自分は一人JRの改札をくぐり環状線へ乗り込む。座席に座ったタイミングで姉ちゃんに「今から帰る」とメッセージを送った。それから少し寝た。



 だからね、だから、もう何回も失敗してるじゃない。この前の幼稚園の迎えだってそうだしさぁ。最近、酒飲んだら眠くなってしまうんだよな、どうも。

 深夜零時過ぎ、自分は見ず知らずの駅のホームに立っていた。

 ホームには自分以外誰もいなかった。風が冷たい。身を刻まれるようだった。いつまでもこんな吹き曝しの場所にいても仕方がないのでとりあえず改札を出た。見渡すと見慣れない街並み。寂れた繁華街という感じだった。見渡す限り全ての店のシャッターが下りていた。

 どこなんだ、ここは。

 相良と飲んだ帰り道の車内、不意に目が覚めた自分は本能で「寝過ごすっ」と思い電車を飛び降りたのだが、既に自分は目的の駅をとうに寝過ごしており、降車したのは全く見知らぬ駅だった。しかもまた運の悪いことに自分が乗っていたのは環状線の中にたまに紛れている環状線外の線へ行く電車だったらしく、最早取り返しがつかないレベルで乗り過ごしてしまっていた。

 とりあえずシャッター街へ入ってみる。仄暗く不気味な街だった。しかしとにかく寒い。どこか朝まで身を潜められるところ、ビジネスホテルなんかは高いから、漫画喫茶とかないかなぁ、と探し歩いてみるも、漫画喫茶どころか開いている店すら一軒もなかった。ダメかもしれない。そう思った。

 しばらく歩くとシャッター前におっさんが一人地べたに座り込んでいた。その目はおそらく何らかの薬物で完全にキマっており、自分を見てへらへらと笑っていた。口からぽつぽつと涎が垂れており、非常に気味が悪かった。自分は関わり合いになりたくなかったので、なるべくおっさんを見ないように注意しながらその前を通り過ぎた。通り過ぎてからも暫くの間、おっさんのねっとりとした視線を背中に感じた。酔いはもう完全に覚めていた。

 やがてシャッター街を抜けると今度は住宅街に出た。駅前同様にここも寂れた街だった。どうしようもなかった。地震が起きたらドミノ倒しみたいに倒れてしまいそうな古びた集合団地、妖怪でも住んでいるのかというくらい人気の感じられない木造住宅。団地の前にシーソーと滑り台だけの小さな公園を見つけた。自分はもうこれ以上先に進む気にもなれず、滑り台の斜面に寝転んだ。見上げると星が綺麗だった。馬鹿にしているのかというくらいに綺麗だった。

 自分は、いったい何をやっているんだろうなぁ、と心から思った。またも冷凍チキンのようになって眠ったぜメーン。

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