終幕

世界の果て

 冬の訪れを予告する冷たい雨が、陰鬱な帳のように街を灰色に覆っている。


 ウィンドルンの一等地にある大邸宅を訪れたスタイフェルは、応接室にその主人と向かい合って座り、机にあるものを広げていた。

 マーカリアが満を持して世に出すと決めた航海地図……刷り上ったばかりの新しい匂いがする。

 そこには魔海帯域の外側にまで一回り広くなった《上半球》が描かれていた。


 赤道より下、西南陸塊の西側を吹く“ナルディアスの風、そして、東側からマンドラ島へと吹き抜ける……“シャオの風”。


 総督権限に於いて、両者をそう命名したのはスタイフェル自身である。

 この一連の“物語”にはこれが相応しいと思えたからだ。

          ※     

『わたしは、この島に残ります』


 あの運命的な九月の終わりから、数日後。


 崩壊した芙蓉宮から急きょポルテ=サスラの海運会館に御座所を映した王宮とマーカリア共和国の会合の場で、十四歳になったばかりの少女が語った決意の言葉である。

 瞬間、誰よりも衝撃を受けたのがグレンであると、スタイフェルは知っていた。

 なぜならその前夜、彼はスタイフェルに言っていたのだ。

 アルメリカを望まぬ結婚や、困難な地位へと進ませるのは止めようと思うが、どう思う、と。

 グレンがこの自分の意見を求めてくれている。感激したまま、スタイフェルは頷いた。『そうだ、彼女はまだ若いのだし、婿取りにしても世界中から選りすぐった千人の候補者の中から一人を選びだすくらいでも良いくらいだぞっ?』

 そう、間抜けにも自分は全面的に請負い陰気な友の背中を押し出したというのに。

 一体いつの間にあの大人しい少女は、あんなにも強い娘になっていたのだろう。


 言葉を切ったアルメリカは、グレンになり代わるように緑神に喜され、数百年ぶりに現れた“緑に愛でられし王”として国民に歓呼の礼で迎えられた兄王の瞳と静かに見つめ合った。

 それぞれの思いに呆然自失した男たちの全員を見回し、最後に、つつましく目を伏せて。


『自分が何者なのか知るために、お母様が居たこの地で過ごし、学び、それから……決めたいのです。自分がどの方向の風に乗り、どちらへ帆を立てるのか、何をすべきか。一年、二年……いいえ、三年、かかるかも知れません、それでも、そうしたいの』


 再び顔をあげ、ミケラン新王が占めている上座の次席で黙している男に言った。

『お願い、おじ様……!』

 先に顔色を変えて、同じく次席に座しているヴェガが話を性急に遮った。

『アルメリカ、ここより、ヴェガの国、来る。退屈させない、幸せにする』

『―――ごめんなさい! 貴方は約束通り、いつもどんな時でもわたしのそばに居てくれた。それなのに、まさかわたしの方から離れていくなんて、思ってもみなかったわ!』

 本当は、声を上げて泣きたかったのだろう。

 両手で顔を覆い、堪えて肩を震わせる少女に誰も、何も言えなかった。


 そして、思いがけず離れていったのは少女だけではなかった。


 前人未到の西南航路を開き、航海史に偉大なる御名を刻みこんだセイミ・シャオ王子もまた聖なる囚人号と共に忽然と姿を消してしまったのだ。


 もちろん、皆が八方尽くして探し回った。特に聖なる囚人号乗組員らは別れも告げずに消えてしまった王子を罵り、恨み、やがて―――悲しみにくれた。

 スタイフェルは彼らにかなりの報酬を持たせて解散させたが誰の顔にも心からの笑顔はなかった。

 皮肉なことにスタイフェルの手元には自分が割り、手荷物の底に入れて持ち歩いていた”青華”の茶瓶の破片だけが残った。

 文献や記録を当たった結果、それらが間違いなく陶工ヘイセ・スウ本人が手本用に所有していたものだとほぼ結論付けられた。

 今は美術館に修復を依頼し、預けてある。復元されれば間違いなく国宝となりうるだろう。


 謎の美女レンヤの予言通り、東玻帝国の艦隊はマンドラ沖に姿を見せなかった。

 そればかりか、まもなく真偽不明の不穏な噂が東方世界を駆け巡ることになる。


 なんと、不死身の東方大王スヴァル・ワン=ハン十八世が崩御したというのである。

 大王が世界中から収奪していた魔香の中にマンドラ神話の中にしか存在しない“不死殺し”と呼ばれる幻の魔香が混ざっていたという噂もある。

 いずれにしても、昔から曖昧模糊とした東方情勢が明らかになるまでには時間がかかりそうだった。

          ※       

(皆、家に帰ってしまった、か……)

 以前にも増して気難しさが増している友の邸宅を出たところで、物憂げにスタイフェルは振り返る。

 端的にいえばグレンのことが心配でならなかった。

 彼にはまだ誰かが必要なはずだった。

 アルメリカやヴェガが居た頃のように、彼の元に新しい風を入れてくれるような存在が。

 だがその困難な役目をこの世の誰が担えるというのか、情けないことにまるで見当もつかないのだった。

 薄暗かった空が少し晴れて雲間から明るさが差し、雨が上がっていた。

 ため息をつき、待たせていた御者に帰宅を告げようとした時だ。


 新しい門衛が、誰かと言い争っているのが聞こえる。

 老婆心から近づいていく。グレンの家に客が来るとは珍しい……というより無謀だ。

 ここに来るときはこの自分ですら秘書を置いてくるというのに。


「どうかしたのかね?」

「はっ?! 総督閣下! この若者が、面会の約束もなくグレン様に会わせろ、と……」


 くだんの若者に眼を向けると、彼は深々と亜麻色の髪の頭を下げた所だった。

 旅の身なりはほとんど飾り気がないもののこざっぱりしており、荷袋を解いた形跡が無い所を見ると着いたばかり、宿無しらしい。 

 雨でも落ちていない砂埃が革長靴の上までついているのを見ると、海から来た客ではなさそうだ。


「どうかお願いします、グレン・フレイアス様にどうかお取次ぎ願えませんか」


 溌剌とよく通る美声。聞き覚えがあるような気がするのは気のせいか。

 しかし、グレンは世の中の若者という若者が嫌いだ。

 理由は未来ある若者の姿を見ると、彼が失った“甥”のことを思いだすから…… 

 まじまじと。

 顔を上げた若者の、旅の埃をかぶっていてもなお目を瞠るほど端整な貌をまじまじと見つめた瞬間、スタイフェルの喉からは悲鳴がほとばしった。

 呆気に取られる門衛の横を若者の腕を掴んで走り出す。

「グレン! おい、グレン!」

 と、ほとんど絶叫しながら。

 庭から野鳥たちが驚いて飛び立った。

「なんだ騒々しい、帰ったばかりなのに何度来れば気が済むのだ」

 優雅な張り出し屋根の下のポーチに再び姿を現したグレンが漆黒の眼差しで睥睨する。

「はあ、はああ……ううっ、久々に走って、息が、くるし……!」

「庭に変死体を置くのはごめんこうむる。おまけに今度は……部外者連れとは」

「驚かないのか?! 君の甥っ子が生きて帰ってきたんだぞ?! なぜその無表情でいられるのか全くもって理解出来ん! この前うちの娘が婿にするとかいう若造を連れてきた時だってそんな顔ではいられなかったぞ私は?! 先にコツを聞いておけば良かった……いやむしろシャロン君の方があんな若造よりずっと良――――」

「貴様はもう黙れ。貴様とて、存外に驚いていない風なのはどういうわけだ」

「えっ? ……いや、そんなことはないが、何というか、その……何となく……」

 シャロン君? とスタイフェルは捕まえたままの若者の目を見、試すような心地で切り出す。

「私の、好きだった……例のあの壷、のことだが、覚えてるかね?」

「はい?」

「ほら、壷だよ……私の、あれが、抜けないままだった……」

 シャロンが少し身を引き、助けを求めるようにグレンを見やる。グレンが眉を吊り上げた。

「何の真似だ?!」

「い、いや……何でもない! やはり、私の勘違いだ……ああ、そうだとも……」

 微妙に過ぎる沈黙を、シャロンの懸命な声がめげずに破る。

「あの……改めて、どうかお願いします。おれをもう一度貴方の側に置いてください。最低限の給与と寝床以外にいかなる好意も優遇も求めません。もう絶対に逃げ出しません、お手伝いします、日々学びます、どうかお願いします!」

「……船には乗っていないのか」

「歩いて来ました。その、色々考えた末、海は当面やめておこうかと思って……」

「……言ったはずだ。何であれ二度とこの家には入れないと。まさかお前は、親類の温情で上手く行くとでも思っているのではあるまいな? 私がお前を許すと思ったのか? 勝手に死人になったかと思えばまたも勝手に蘇ってきた身勝手なお前を?」

 ただただ目を見開くシャロン。

 グレン! とスタイフェルは怒声に近い叫びを上げた。

 グレン一人が冷然としたまま続ける。

「だが……見違えたぞ。北海の“底”ばかりか、世界じゅうを旅してきた風情だな」

「北海とかその他諸々については、若干、ご説明を……」

「……“昔”のお前のことだ、どうせどうしようもない理由であろう」

「はい、本当に、どうしようもなくくだらない理由です……」

「生きていた、ということは見ればわかる。理由など何も聞きたくもない」

「これ……あの時、頂いたお金です。長いこと、申し訳ありませんでした」

 シャロンが重たげな財布を取り出すと、グレンの声色はますます尋問調になった。

「返す、ということは借りていたという自覚があったということか。債務者監獄は甘くはないぞ……その覚悟もある、ということだな?」

 言葉に詰まるシャロンの顔色が判決を待つかのように蒼ざめ始めた。

「今は、かつてお前が遭遇したようなことはこの国では起きない」

「えっ……」

「決済方法が変わったのだ。利益の分配が、資本金分割方式から収益配当方式へと……」

「……つまり、船が沈んでも船主が首をくくらなくてもよくなったってことですね?」

「おいグレン? 確かにあの改革案を出したのは君だが、そんな険しい顔をしていま、ここで、再会の挨拶もお預けにしたまま何を於いても言うべきことがそれか?!」

「ウィレムさん、いいんです、慣れていますし、おれも興味が――――」

「いいや良くないぞシャロン君、慣れとか諦めとかコイツにつける薬なんて無いとかそういう態度はな! 君に残された最後の希望、こんなに素晴らしい甥っ子君がここまで頼み込んでいるのに、折れてやらないか! 見たまえ、最近の若者にはないこの背筋の通った佇まいに礼儀正しさ! これほど立派な若者は求人したとしてもそうそう……」

「そこまで言い切るのなら、君が使ってやればよいではないか」

 同じく我慢の限界に達したかのようにグレンが性急に言い返した。

 スタイフェルとシャロンは揃って思わぬ落とし穴に足を取られたような、驚きの表情を浮かべ、笑い出す。

 シャロンを、目に毒だとでもいうように頑なに逸らし続けているグレンがますます怒気を強めたが誰に対して怒っているのか定かではない。

 そのまま無言で手が出された。引き下がりかけていたシャロンが慌てて財布を渡す。

 彼は重さを確かめただけで、そのまま突き返した。

「これほどの歳月を経て……ひとが落とした金をわざわざ届けに来るような奇特者にはこれが相応の謝礼だろう」

「グレン叔父さん!」

「……私はもう引退した身だ。空いている仕事は、草むしりぐらいしかない」

「草むしり、おれいくらでもやるよ!」

「私の館はもう”食器”だらけでどうしようもないということは承知だな? 私の新しい徒弟に貸部屋を充てがってもらえないか? ついでに茶でも出してやってくれ!」

 揃って期待を浮かべる二人の前でグレンは眉間にますます皺を寄せた。やがて、不自由な足で屋内に引っ込もうとする。

 すかさずひとっ跳びで段を上ったシャロンがグレンの横に立ち、右腕を差し出した。

「あの……杖の、代わりです」

「……再度言っておくが私はお前に関して何かを承諾したわけではないのだからな、何一つ」

         ※

 それから、三年後。


 右に大西海、左に大南海を望む世界の果ての岬の先端に立ち、シャロン・ナルディアスが伸びかけた亜麻色の髪に風を受けている。


 人はいつだって風が吹くのを願うだけの存在だ。

 それでも、自分の甥にはどこか追い風を味方につけている人間特有の伸びやかさがあるとグレンは思うようになっていた。

 恐ろしいものも驚異的なものもこの五十数年足らずの生涯の中で数多く目にしてきた。

 それでも、何度も見失ったはずの甥とともに今を生きていること以上の不思議はない。

 近頃はこの自分を通さずにシャロンにだけ持ち込まれる商用も数多い。


 ここは、近年ようやく安定し、ヴェガラバルアンダ王が治めている王国から譲り受けたささやかな土地だ。

 小さかった交易所がようやく軌道に乗り、グレンは渡りの時期になるとシャロンとマーカリア交易公社の社員数人を連れてここに滞在した。

 交易の仕事を仕切るのはシャロンたちだ。 

 グレン自身はここに開く予定の、長旅の船乗りたちや現地のタルタデス人のための施療院兼薬草園の建設に着手している。


 マンドラ島では、ミケラン新王とエーサラ姫もまた新しい大僧正、大神女と共に島の再建に尽力している。

 エーサラの名は今ではマンドラの希望の象徴となっているという。

 マーカリア共和国とグレンの元には即位一周年、それから二周年にもマンドラから招待状が送られてきたが、体調不良を理由に辞退し、代わりに総督職を満了しウィンドルン市長になったスタイフェルが祝いの品に新造帆船を一艘まるごと携え、赴いた。

 この夏、新しい交易港の祝賀と返礼を兼ねて、マンドラから特別な大使を乗せた船がやってくる。大使は冥海の生物や驚異にことのほか興味がおありだそうだ。


 が、今日まで来航の予兆は何もない。


 欠けていた自らの何かを組み直すかのようにひたすら仕事に打ち込みながらも、シャロンの心はここにはなく、今も世界のどこかを航行していると人々が信じている聖なる囚人号の甲板上に居るかのように上の空であることをグレンは見抜いていた。


(“かの人は、いとも気高き高嶺の花”……)


 少し、暮れなずんできた。

 刊行を予定している庭園に関する著作の原稿を整理しているグレンの元に、シャロンがいつもより少し重い足取りで戻ってきた時である。

 ふとした風に、画帳の一枚がさらわれそうになり手を伸ばした瞬間。

 大南海側の水平線上に何か純白のものが煌めいた。

 まるで、遠いあの日、あの庭で掌に受け止めた白の欠片のような――――


「シャロン……!」


 シャロンが振り向き、そして同じ方向を向くや、蒼海の色の瞳をいっぱいに見開く。

「船だ……東から船が来た、叔父さん!」 

 今はグレンも、甥と共に港へと走り出していきたい気分であった。

 本当は、出来ないこともないのだ。

 元々世事の面倒事から逃れるため、そして国内外の政敵の油断を誘うため、という以上の意味のないもので、真相を知るのはスタイフェルのみだった。

 だが、偽装ではじめたことにいつしか依存するようになっていた自分も否めない。

 何より、何かと世話を焼きたがるシャロンがどれほど怒ることか。

 そっと、鉄甲板の下で長年窮屈な思いをしている足を苦々しく見下ろす。


 手を振って、舷側から軽々と身を乗り出す世界のどこに出しても恥じぬ淑女。

 世界が新たな終焉を迎えるその時までも待ち続けただろう、ただ一人の愛娘。

 やがて来る彼女が新天地の名を持つ乙女だと確証が得られたならば、どさくさに紛れてこの最後のささやかな秘密を白状し、二人に叱られるのも悪くはない。


 そうなるよう、グレンは海の彼方へと願いをかけた。

                                     了

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蒼海のアルメリカ ゆきを @yukiwo

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