濁流

夢路 鳳蝶

濁流

 和田岬わだみさき哲也てつやは、医科大学に通う青年である。しかし、彼は別段、医者になりたいわけではない。では、なぜ医科大学に通うのかと言えば、単に母親が医者になる以外に彼の未来を認めなかったからだ。

「父のように、人の命を救う医者の仕事につきなさい。」

 医者に誇りを持つ母に、そう言い聞かせられた彼はその言葉にうんざりして、画家になる夢を諦めてしまった。以来、興味のない医者になるための勉学が始まったが、興味のない分野である。全く勉学に身が入らなかった。

 それでも、彼が大学に受かったのは彼を監視してまで母が勉学を無理強いしたからだろう。そうして、無事合格した彼はマンションで一人暮らしを始めた。

 しかし、ソコまでなっても、彼は腹をくくって医者になることを決めた訳でもないため、ふと画家になった自分の姿を大学の講義中に思い描いてしまう。そのため、彼は成績は緩やかに右肩下がりになっていた。当然、母は手紙でソレを親不孝者ととがめたが、彼はその一言を見るなり手紙を破り棄てて、ろくに読まず、今日も朝の十時過ぎに目を覚ました。

「遅刻………か。」

 時計を見るなりそう呟いたが、彼は慌てる様子もなく立ち上がって着替えを始めた。

 彼は最近になって、留年しようと退学になろうと、真にどうでも良くなり、また、そうして両親が自分を棄ててはくれないだろうかと考え始めた。

「棄てられれば、画家をもう一度だけ目指してみよう。」

 いつからかそう心に決めたものの、母が彼を棄てる様子は未だにない。なので、今日も彼は母が自分を棄ててくれるという希望をもって、惰性で身支度を整えた。といっても、通学するための身支度ではなく遊びに行くための身支度である。

 さて、身支度を済ませて外出した彼だが、コレといった目的は無いため、ブラブラと町を徘徊していた。

 まず着いたのは本屋だった。中古本をコレでもかとしきつめたワゴンが、店前に二つ出ていた。次に着いたのはレンタルビデオ屋。残念ながら、準新作や中古のDVDに見たいものはなかった。そして、雑貨店についた。足りない日用品は無かったかと思いながら商品を見て回ったが、特別足りていない物は無かったのを思い出して店を後にした。というふうに、様々な店を回ってみたが、どうも上手く暇を潰せない。また、頭がボンヤリしていて考えが上手くいかない。さてどうしようかと、朝からボンヤリしっぱなしの頭を悩ませていると、彼は、隣街に大きなゲームセンターがあることを思い出した。前々から行こうとは思っていたが、気がのらず結局は行けていなかった場所だったので、コレは都合が良いと考えた彼はさっそく駅へと向かった。


 さて、彼は切符を買い、電車に乗り込むと、すぐ降りれるようにドアの近くの座席に座った。そうして、揺られること十分で一つ目の駅についた。しかし、自分の降りる駅は三つ目の駅先なので、彼は大人しく座席の隅に座っていた。彼の向かいのドアが開き、人が行き場をなくした水の如くゾロゾロと流れこんでくる。それをボンヤリと彼は眺めていたのだが、彼は、ふとコレを画にしたいと考えた。

 そこから彼は、『濁流』というタイトルで人と水ともつかない何かが流れ込んでくる画を書いている自分を想像していた。色はどうしようか?この電車に乗り込んでくる人達の服の色にしようか?ヘドロとも泥ともつかない何かはどんな物なのか?と考えることが、彼の頭を支配していた。この日常から得た発想を頭の中で繰り返し繰り返し練り込むのが彼の至福の時間だった。

 二つ目の駅につくと、また濁流が起こる。また何か発想をかきたてるものは無いかと見ていると、彼はゾクリと背筋に何かが走ったのを感じ、彼の視線はある一点に止まった。

 そこに居たのは、一人の女性だった。白い服と白い日よけ帽子は、車内の窓からさしこむ太陽光を反射してキラキラと輝き、その反面黒く伸びた長い髪は煌めきも無いが後ろから風に吹かれて、サラサラと揺らめいていた。(その美しかったこと。)

 そして何より、彼の目を引き付けたのは、女性の大きくなったお腹だった。女性は妊婦であった。大きくなった子供を腹に抱えて、えっちらおっちらと歩いている。

 その様子があまりにも危なっかしかったので、つい彼は先程までの画のことなど忘れてハラハラしながらその様子を見守っていた。

 そんな彼の心配も知らずに、女性は彼の前を通り過ぎて彼の隣へ座った。

 安心して、ホッと胸を撫で下ろすと唐突に

「私の顔に何か付いてますか?」

 と風鈴のように軽く綺麗な声が隣から聞こえた。彼は、ハッとして隣を向いて女性を見た。すると、女性からまた同じ言葉をかけられた。

「私の顔に何か付いてますか?」

「ぁ、い、いえ!。」

 彼は、急に声をかけられた事にたいする戸惑いと、ジロジロ見ていたことがバレた事でキチガイや変態だと思われたのではという焦り、そして、女性の素晴らしい声をもっとききたいという考えがごっちゃになって、わけがわからないうちに、声を出して自白してしまった。(やましいことなど何もないが。)

「すみません、ジロジロ見てしまって。」

「いえいえ、昔から見られるのはなれておりましたから。」

 綿のように柔らかく微笑みながらそう言う彼女を見て、なるほど、確かにこんな美しい人なのだ。普段から、男からの熱い視線を受けていたんだろうと彼は納得するとともに、疑われていたら嫌なので弁明することにした。

「その、少し足取りが覚束ないようだったので、つい心配で見てしまいまして………。」

「あら、お優しいのですね?」

「いえ、そんな……。」

 そう言って、照れたように目を伏せた彼の顔を女性はチラリと見て、クスリと笑った。

「この子、最近ドンドン大きくなってしまって、先程のように歩くのも一苦労になりましてね。」

 その笑みのまま、女性は己の子が眠る腹を優しく優しく、慈しむように撫でる。それと同時に窓から差す太陽の日差しが、女性の腹を照らした。その様子があまりにも優しく柔らかで、神々しさを纏った光景だったため、彼はつい口を滑らせた。

「美しい……。」

「フフ、ありがとうございます。」

 彼はハッとして、羞恥で顔を赤く染めた。また、危なく貴方の画を描かせて欲しいと頼もうとしてしまっていたことに自分でもビックリした。

「この子も、貴方のように誰かを心配できる人になって欲しいです。」

「いえ、僕なんか……。」

 親不孝者ですとは、彼は続けなかった。それは、単に今言うのは不適切だと思ったからだ。だから、彼はただ少しだけ視線を下に落として拳を握った。

「嫌な思いをさせてしまったかしら?」

 唐突に放たれたその心配そうな言葉にぶたれたように顔をあげると、心配そうな女性の顔が彼を覗き込んでいて、彼は焦った。

「い、いえ!そんなことは!」

「なら、よかった。」

 女性のその一言に、彼は安心する。また、彼は少し考えて、先程の言葉を気にしていないように見せかけるために、わざと子供の話題に触れた。

「でも、きっと、元気な子では?」

「フフ、きっとそうでしょうね。だって、いつも私のお腹を蹴るんですもの。昨日だって、何回蹴られたのか数えきれませんでしたわ。」

「なら、先程からも?」

「いいえ、今はすっかり音沙汰なしです。きっと、昨日から暴れ続けて疲れて眠っちゃったんでしょうね。」

 ん?と、彼は心の中で首をひねった。何かが、何かが彼の頭をかすったのだ。

 ―――何が、かすったんだろう?

 彼はその何かを掴もうと、頭をひねる。

 しかし、答えは女性の口から告げられた。

「この子は、今はどんな夢を見てるのでしょうね。」

 夢―――子供の、胎児の、夢?

 瞬間、彼は自分の頭の中の何かが決壊するのを感じた。だが、彼には何が決壊し、どうして決壊したのか解らない。

 子供が、胎児が夢を見るのがどうしたというのだろう?

 そう考えてみても、胎児が見る夢という文字の羅列が彼の頭の中を奔走し、渦をまく。クエスチョンマークと言葉が、濁流のように彼の脳を呑み込んで覆い隠しては、頭痛へ変わっていく。

「もし、もし、大丈夫ですか?」

「あぁ、はい、大丈夫……大丈夫。」

 彼は、心配する女性の言葉もろくに聞かずに、上の空のままで返事をした。それと同時に電車が三つ目の駅に止まり、扉が開く。

 彼はフラリと立ち上がって、ドアへと流れ込むように覚束ない足取りで歩いていく。

「あの、本当に大丈夫ですか?」

「はい、はい、はい、大丈夫です。それでは、またどこかで。」

 後ろからかけられた女性の言葉に虚ろな返事だけをして、電車を降りた。彼はソコで立ち止まった。後ろで電車のドアが閉まる音と、汽笛の音がしたが、彼にはもう何も聞こえていなかった。

 ただ、彼の頭にあったのは――。

 子供、胎内、胎児、夢、悪夢、童、正夢、少年、少女、夢、夢、夢、夢、眠る、胎児、睡眠、赤子、熟睡、少年、睡魔…………。

 ――という言葉の濁流だった。頭の中で、頭蓋骨を割らんと強く強く渦を巻き、頭蓋骨を削る言葉の渦の中で、彼はひたすら考えた。

 胎児が見る夢とは―――なんだ??


 気がつくと、彼は自分の街に戻っていた。

 どうやって切符を買い、電車に乗って、戻ってきたのだろうか。ただ、女性と別れてずっと考え込んで突っ立って居たとき、駅員だか誰かが、俺にものを尋ねたような気がする。いや、そんなことはどうでも良い。それより、それよりも………。

 彼は、ここに着くまで現実が見えていなかった。突っ立ったままの彼を不審がって、具合を尋ねた駅員も、駅員に頼まれて彼をこの街まで送り届けてくれた駅の警備員も、彼には見えず聞こえずボンヤリとした霞のようなものにしか見えていなかった。それほどまでに、どうして、自身の頭に濁流が巻き起こったのかが知りたかった。

「胎児、夢、悪夢、正夢、赤子、子供、人間、獣、睡眠……。」

 宛もなく歩きながら考えるうち、無意識に彼は呟いていた。街行く人は彼を見ては、ヒソヒソと後ろ指をさしたが、彼は全く気がつかなかった。

 胎児が見る夢、それはどんな夢だ?見たこともない自分の家族の夢か?それとも、将来の自分か?まさか、夢など見ていないのか?いや、だが、しかし、そんな、だって……。

 あらゆる可能性を考えては否定して、また考え出しては否定する。彼はそれを繰り返していた。

 すると、ガシャンと大きな音がして、続けざまにバサバサとバタバタという2つの音が聞こえてきた。彼はその音にビックリして、慌てて足元を確かめた。ソコにあったのは、古ぼけた百円と書かれたシールが貼られた本と、横に倒れたワゴンだった。

 どうやら、誤って本屋のワゴンにぶつかってしまったらしい。と彼はすぐに納得して、ワゴンを立てて本を戻し始めた。

 本屋の店主に気づかれてはいないようだが、気づかれれば怒られるだろうし、速く頭の濁流の真相を掴みたい一心で、急いで本を戻し続けた。

 その時、一冊の本が彼の目に留まった。ワゴンに戻すために持っていた本を置いて、その一冊を手に取った。タイトルには『輪廻転生』と筆字で書かれていた。

 バチンと、頭の中で音がして、頭にヒビが入ったように感じた彼は、急いで額に手を添えた。また、驚くことに頭の中の濁流は一層激しく暴れまわり視界がグルグル回り始めた。

 輪廻転生―――前世があって来世がある。死んだ人間は産まれ変わって来世でまた、生を謳歌する。いや、今はそれは、どうでもいい。それよりも、胎児が見る夢。胎児、起きれば腹の中で母を何度も蹴りあげる。そう考えると、とんでもない親不孝者だ。親不孝者?親不孝者と言えば、俺だ。胎児が親不孝者で、俺も親不孝者。俺が見る夢が、胎児の見る夢?なら、俺が胎児になってしまう。俺は大人だ。いや、本当にそうか?もしも、実はそうだったら?俺が胎児で、胎児が俺で……あぁ、もう少し、もう少しで何か、この頭痛の濁流の正体が掴めるのに。

 次第に、彼の濁流は激しさを増し、視界は地震でも起こっているかのように揺れていた。

 俺が胎児だとしたなら?なら、俺はなんだ?俺が胎児なら、今ここにいる俺はなんなんだ?俺と胎児が同時平行で夢を見るはずがない。なら、俺は―――――まて、夢?胎児の夢?まさか、まさかまさか俺が夢なのか?

 ついに、その考えに至ると彼の濁流は更に加速する。視界は天地がひっくり返り、頭痛はもう内側から金槌で叩かれているような痛みに変わっていた。

 俺は、今を生きてる。だが、俺が見ている世界は実は胎児の夢で、胎児が見ている夢の主観が俺だったら?胎児が見ている夢が俺の現実だったのなら?

 母を蹴りあげる胎児と母の意を無視する俺の親不孝者という共通項。

 あの駅の中で妊婦を見た瞬間に背筋をゾクリと走った何か。それは、俺が少なからず自身を胎児だと認識しているからでは?

 仮にそうだとするなら、俺は死んだらどうなる?いや、俺が死んだらどうなる?

 簡単だ、夢から覚める。そして、母の胎内で目覚めた胎児(俺)は、次の夢を見る。夢の中でまた違う人生が始まるが、結局は主観で見ているのは胎児である俺だ。つまり、ここは前世で夢の中。夢から覚めれば、母の胎内という死後の世界が待っていて、そこで悶えて母の腹を蹴りあげて、一暴れしたならまた眠りにつき、来世を見る。そう―――輪廻転生。

 母の胎内から産まれて死んで墓場に埋まるまでの一連の夢。それが終われば、また現実の母の胎内で目が覚めて、自らの死に恐れおののいて、暴れては疲れてまた眠る。その繰り返し。

 あぁ、そうか―――――。

 彼は、ゆっくりと額から手を離して、晴れた空を見上げた。

 ――――所詮は、夢なのか。

 そう思った瞬間、本当に彼の頭は粉々に砕け散り、ドロドロとヘドロでも泥でもない何かが、氾濫した川の濁流のように勢いよく流れ出してきて、彼の身体を蝕んだ。

「は、ハハハハ、なんだ!なぁんだ!そういうことか!ははは、ハハハハハ!」

 それと同時に、彼は狂ったように笑うと走りだした。

 砕けた彼の頭にあったのは、母に絶縁の手紙を送ることと、画家になる為の学業の事だけだった。

「所詮は夢だ!夢なんだ!なら、それなら、俺は自由じゃないか!ははははは、なんだってできるぞ!なんだってやってやる!」

 そうして、彼はハッキリとした景色の中を駆け抜けていった。


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