day4マジックアワー 52Hzの鯨:町



 少なきものの町の空のどこかには絶えず燐のような青白い光が灯っていた。

 元の姿を取り戻した少なきものたちの思念体は、たいてい、博物館付近の上空に昇っていた。私が黒い拳の少なきものを解放したあとしばらく経って──たぶん、その日の深夜ぐらいだった。町と、太陽が昇っている町の外とを隔てた暗幕に気泡のような穴が空いているみたいで、見上げていてとても美しかった──から、土ボタルを閉じ込めていたガラスのロケットが倒壊でもしたかのように、まるでせきを切ったように青白い光が昇りだした。


 私はニィと一緒に人工の灯りが灯らないせいで闇の生産地のようになる夜の町を青白い光でぼうっと照らしてくれていた思念体の火を眺めた。


「とても美しいね」とニィは感嘆の声を漏らしていた。歩いたことのない道を歩いて、見覚えのない坂を上って、知り合いにはいない名字の彫られた表札が埋め込まれた民家の角を幾つか曲がった先にあったドーナツ広場のベンチに、二人、並んで座った。深夜の澄みすぎた空気に肺の内側が上塗りされて、火のように熱い吐息の体積が目分量程度減っていた。

「ほんとうだね」と私はあどけない恋人みたいに肩に頬を擦りつけた。夜のおでかけはこんなにも心がときめくんだな、と知った。時刻は深夜の一時半だった。ようは、大晦日でも起きていられないぐらいの遅くだったってことだ。

 お母さんはお家に一人でお留守番で心細いだろうな、と考えて──弱った心に喰いたがりな夜の闇が押し寄せてきた。

 私は思わず、ニィの手のひらを握った。ニィは絶命寸前の生き物みたいに微かな力で握り返してくれた。

「灯りは暗い所にあるからこそ灯りなんだね。眩しい光に満ちた世界と、闇が広く領域を占めていようとも灯りが美しい世界。果たしてどっちがいいんだろう?」

「私は、夜がすき。なんだか特別な少女になったように思えるから」

「特別?」

「子どもは夜の町を歩いたらいいの。ううん、辺鄙な港町の街灯の数よりも悪巧らむ大人のほうが遥かに多く夜道に立っているような世の中じゃ、善良な大人がついていなきゃどうしたって危ないけれど、それでも、子どもぽっちで夜の町を歩いてみなきゃ分からないことなの」

「希望は夜の町を歩いたことがあるの?」

「うん。まだ中学生だった幸一くんと一緒に、見知らぬ夜道をぐるぐると、迷路に閉じ込められた兄妹みたいに。幸一くんはお気に入りの黒いダッフルコートを羽織っていたようだったから……そっか、季節は冬だったんだね。

 子どもの気まぐれな思い立ちで、桜の木にぐるりを囲われた公園からずっと坂道を下っていったところにあるはずの世界の切れ目を見つけにいこうって、あのときは珍しく幸一くんが誘ってきたんだ。私はいつもどこか冷静でいた幸一くんが目に見えてわくわくしていることにうれしくなって、世界の切れ目を見つけるために連れ立って歩いていった。

 冬だから日が短かった。急かすように影っていく窮屈なはずだった町に張り巡った見知らぬ道に、私は心を蝕んでくるようなこわさを覚えた。でも、幸一くんが隣にいたから、アスファルトの上にぺしゃんこと膝をついて泣きじゃくってしまったりはしなかった。ぜんぜんひとが見当たらなくて、タイヤがにじにじとアスファルトを轢き轢き過ぎていく音すらも聞こえなかった。私たちはいつの間にか世界の切れ目に潜り込んじゃっちゃったんじゃないかな、って、本気で思った。

 それで、とうとう町は夜になった。

 隣で自信なさげに進路を決めていた幸一くんが、交差点の真ん中でぱたりと止まった。そうして、まるで夜の闇に記憶をさらわれちゃったひとみたいに辺りを見渡した。ほんとうに混乱しているようだと気の毒になるぐらいにうろうろうろと黒目をさ迷わせた。だってさ、あんまりにも静かにこぼしていたんだもん。幸一くんが泣いていたことに、私はなかなか気づけなかったよ。

 幸一くんはアスファルトの上にぺしゃんこと膝をついて、途方に暮れた迷子みたいにわあわあ声をあげて泣きじゃくってた。

 僕は見つけてもらえない。

 もうどこにも行けない。

 どうして忘れていたんだろう。子どもぽっちで歩いた夜の町の最中で幸一くんが泣いたこと。私はほんとうに驚いて、しばらく、その場に立ち尽くしてた。なんだって上手くこなすことができて、だからとても頼りになった幸一くんのあられもない怯えたな心から剥き出しに覗いた恐れが咆哮のように滲んでいた涙を、どうして受け止めてあげられなかったんだろう。あのときに、独りにしないよ、って声をかけてあげていたらよかった」

「そのあとはどうなったの?」

「知り合いのお母さんの車に乗せられて家まで送られた……んだと思う。そこらへんの記憶はすごく曖昧だよ」

「子どもは夜の町を歩くべきなのかい?」

「うん。生きていくうえでとても大事ななにかをたまたま浜辺に落ちていたカタチのいい貝殻を拾うように得ることができるよ。なにかが大事になるのはずっと先の未来になるかもしれない。だけど、丁寧に身支度を整えてから咲く花や大人になってから掘り返す小学校の校庭のタイムカプセルみたいに、なにかは元々、未来のためにあるものなんだ。

 夜の町を歩くと、誰も特別じゃないってことが分かるよ。それで、誰も特別じゃないということに気づけている自分だけが特別であるような気持ちになれるよ」

「それは、いい気持ち?」

「心が弱っているときには、とても」

 ふうん、と、ニィは鼻から抜けたような声を漏らした。夜空を昇る少なきものたちの思念体を眩しそうに目を細めて見上げながら、僕は僕の手許に光があればなんでもいいや、と呟いた。私は濡れた目元をニィの肩に擦りつけて、どうか夜の闇がさっさと払われますようにと祈るようにニィの手と私の手とを組ませた。燐のような青白い光が私の心を癒すように、スクリーン型の視界の中できらきらと煌めいて見えていた。

 私は孤独をこわがる幸一くんの魂を置き去りにしてどこかへは行けなかった。

 過去は重んじるべきなのだ。私は過去の私が傷つけてしまった誰かのことをなるたけ忘れないようにしたかった。私が愛せる私になるため、そして、私が幸せになるためにも、それは必要なことだった。


  あくる日は 絶滅さ 背後には海が広がる

  涙が太陽に吸われてしまった

  カタチの残らないものは大切だ だけど弱くて仕方がない


 白む朝陽が地平線から切れ長に覗いて夜の闇を幻のように払うまで、ニィのテノールの歌声が止むことはなかった。私は吊り糸の切れたマリオネットみたいに脱力して、疲れ切った少女のように笑みながら訊いた。

「その歌のタイトルはなんていうの?」

「タイトル?」

「ひとの名前のようなものだよ。有象無象に埋もれてしまわないようにつけるの」

「へえ。無いよ。端から誰にも見つからないつもりで作られたんだ」

「ふうん……確かに、タイトルなんていらないかも。だって、少なきものの町には私とニィだけで、あとにはほんとうに微かな命の一つすらもいなくなる。私たちの言葉や一見意味の無さそうな行為は、ぜんぶお互いを示すようになる。名前なんて、だったらもういらないね」

 ニィは黙った。見上げると、なにかもの言いたげな瞳が二つぽっかりと浮かんでいた。

 きっと大事なものに言葉という輪郭を持たせようと「な」のカタチに口を開きかけたところで、ニィが天を仰いで、またとうとうと歌いだした。私は、今更、決意をかされたくなくて、ニィのごまかしに付き合った。

「復興の火と少なきものの町のことを歌ってるんだね」と私は呟いた。

 ニィは凪の空気を破いてできた切れ目からどこの世界線までもよく通っていきそうなテノールの歌声を響かせ続けた。雪玉のような喉仏が出口を見失った子どもみたいに蠢いているんだろうなと思った。


 悪くないよね、と心の中で呟いた。


 幸一くんの魂とえいえんに一緒にいれること。たとえその選択が世界から咎められてしまうような停滞なんだとしても、二人してどこへも行けなかったあの頃はどこへも行けるような幻想に取り巻かれて麻酔にかけられたように幸福だった。

 鼓膜が絶えず震えていた。


 心の耳の鼓膜だった。


 ──   ノ  ゾミ  ……。


 私は私を呼ぶ声の出所を突き止めようと耳を澄ませてみて、脳みそが処理しなきゃいけなくなる情報をなるたけ減らそうと目を瞑った。

 潰されて滲み出た涙の粒が、剣の切っ先のように地平線をなぞりだした陽光に吸われて消えていった。私はハッと顔を上げた。薄く延ばされた白の絵の具のような陽光が鼻先や頬をコーティングした。

 これからえいえんに繰り返すことになるんだろう夜明けだった。少なきものの町の四日目だった。朝陽が四度、弧を描くのだ。私のカラダが、ぶるり、と震えた。

「希望」

 ニィが私に呼びかけた。心の鼓膜が現実の鼓膜のほうの震えに打ち消された。私は涙痕るいこんを大手の羽織の袖に作ってから、深淵のような瞳を見上げた。

「少なきものの町に留まることは嫌じゃないかい?」

「嫌じゃないよ。だって、独りじゃないもの」

 ニィはしばらく黙ってから、そっか、と呟いた。私は、私の心の耳に届いていたのはいったい誰の声なんだろう、もう糸のようなものは断ち切ったはずなのにどうしてそんなことができるんだろう、と薄ぼんやりと考えていた。

 やがて、夜は朝に負けた。あんまりに短い有限の終わりがもうすぐそこまで差し迫っていた。私はなにかやましいことをした少女みたいに口数を減らして、白んでいく空から思念体の火が消え去るまでの間、ずっと目を瞑っていた。


 ── ノゾ 

          ミ … ! ノゾ ミ …… !


「希望に聞いてほしい話があるんだ」

 凪いでいるのに雲が流れるのはどうしてだろうか。まるで地と空とを隔てたスクリーンがあらかじめ撮っておいた空模様の映像を放映しているみたいだった。こんな風な不思議な現象が少なきものの町に目新しい発見を幾つも散りばめてくれているんだとするならばどこへ行けなくてもあんまり退屈はしないだろうかなと前向きに思った。

 私とニィは少なきものの町を連れ立って歩いていた。どこにも復興の火の気配がなかった。大禍時の時分になって、ピンクと橙と紺と少しの灰色とが綯い交ぜになった空模様が放映されても、まっことおぞましい異形の姿をしたモスマンや道路の脇に扁平な尻尾を垂らして花崗岩のようにとして動かない山椒魚、まだ糊のきいた夏用のプリーツスカートを逃亡の反時計回りにひるがえしたアマミノクロウサギの少女などは、空からも小路からも飛び出してはこなかった。もう少なきものの町から解放されて、復興の祈りを宿したまま次に生まれにいったのだ。私たちは、ほんとうに二人きりになっていた。

 波の音が、ざざん……ざざん……と、いまはもの悲しい響きを含んでいるように聴こえた。幸一くんの愛するマジックアワーの空にはパッと見た限りだといまは灰色が多めに交じっているようで、幻想的な色合いの最中をゆっくりと流れる雲の数々はまるで十何年も遊泳を共にしてきた鯨の群れみたいに見えた。

「聞いてほしい話?」私は真剣な眼差しを向けてきたニィにしっかと向き直った。

閉塞感に苛まれたひとが作ったジオラマみたいに、軒並み低い建物群と幼子のバースデイケーキの蝋燭みたいに生えた電柱──つまり、余白だらけの町の風景、私たちを育てた町の風景の余白──それらを埋めるようにして果てしない世界にどこまでも続いていっている海が波を立たせていた。防波堤からホチキスの芯のような梯子が三つ並んで留められていた

 いつの間にか海に出たのだ、と思った。港町をテキトーにぶらついていたらいずれは海に出るものなのだ。

「サチイチが元の世界に帰ったときの話だよ」

「……幸一くんの話を、私に聞かせたいの?」

「うん。もうあまり時間がないようだから」

 へんなの、私たちには時間しかないのに──そんな疑念は口よりも表情のほうから先に出た。私よりも頭一つ分は背高なニィの隣を歩きながら、短気なひとだったら思い切りぶちたくなる衝動に駆られでもしてしまうんだろうしかめっ面をかました。

 ニィは手負いの獣みたいによろめいた歩き方でもって、私たちが再会した防波堤とほとんど同じような格好をした防波堤に近づいていった。というか、防波堤なんてどこも同じようなんだろう。石灰岩で書かれた『の』の落書きが端々にあって、際からは潮風に枯らされた雑草の先っちょが覗いていて、近くにはプルタブがひしゃげた格好で落っこちていて、銀色の梯子はつるんとした光を帯びていた。

 どこも同じよう。ひとそれぞれの感じ方だけが違った。私は海と町とを隔てる防波堤を見たってなんの感情も湧かないけれど、幸一くんはいつだって苛立っていたのかもしれなかった。


 この町は、たとえば幸一くんが作ったジオラマみたい──ふと思った。


 閉塞感に苛まれながら、町のぐるりを防波堤で囲った。どれだけ〝出たい〟〝どこかへ行きたい〟という自意識が風船みたいに膨らんでいったとしても、口を丁寧に縛った紐はこの町の根っこのほうに深くうずまっていた。高いところから全体を見渡したら余計に窮屈そうな町に映るのかもしれなかった。


 少なきものの町は、幸一くんのジオラマ。


 町に囚われないまま、自由に空を昇っていける思念体たちは幸一くんの願いの象徴なのかな、と、一瞬、考えみて……そうしたらなんだか妙に腑に落ちてしまって、たちまち足元がおぼつかなくなって──思わず、ニィの腕にしがみついた。ニィはなにも言わずに、自分の居場所がどこなんだか分からなくなってしまっている方向音痴な少女を見下ろしていた。

「サチイチも僕と共に留まることを選んだんだよ。きみたちを独りにはしないからって、縋るようにゆびを絡めてきたんだ」とニィが眠たげな老人のように言った。温度は冷たかった。なにかの打ち明け話をしようとしているんだろうなとなんとなく分かった。

「幸一くんが? でも、だって……」

「うん。サチイチは僕らとの約束を破って元の世界に帰ることを選んだんだ。黒い拳の少なきものは悔しくて悲しくてしょうがなかったんだろうね。それで、あんなにも自暴自棄になっていたんだろうな。いまとなってはそう思うよ。ほんとう、ぜんぶサチイチが撒いた種なんだよね。後始末はぜんぶ希望に任せるなんて、あんまりにもテキトーだよ」

 ニィはあっけらかんと笑んで言った。防波堤に向かって歩を進めながら動揺したようにつまづきき続けている私をよそに、海の中のあぶくみたいに弾けて笑っていた。

 防波堤のへりに手をかけたときに、ふと、目を伏せて、でもうれしかったよ、と呟いた。私は平たい防波堤に黒馬のような足をかけて上体を引きあげていくニィをぼんやりと見上げていた。

 おいで、と古びた魚のヒレのような手のひらを差し出されて、私は肘から手首にかけての中ほどにまっさらな右手の五本指を回した。泥濘ぬかるみにはまったひとを引っ張り出したいときに籠めるような力を右腕に通ったすべての筋に強く張って、防波堤に引き上げられた。

 手のひらの皮が猫の舌みたいなざらざらに擦られてひりひりした。立ち上がって、指の背で幾度か膝を払った。目線を上げた。海だった。夕陽の橙色が地平線から扇状に煌めきながら波及はきゅうしていた。どこかからか押し出されて寄せてくる黒い波のが細やかな泡のような白に揉まれ続けていた。

 私は幸一くんと瓜二つのニィの横顔を見やった。古びた陶器のような肌がべっこう飴色に照っていた。

 ニィはボールペンで描いたような輪郭を凪の最中に保ちながら手折られかけの花みたいに突っ立っていた。風が吹けばたちまち中ほどから折れてしまいそうだとこわくなってくるほどのぐらつき加減だった。

 私はいつか夢と現の狭間で眺めた幸一くんの後ろ姿を連想して、動悸が逸った。もう部屋に戻ろう、と出しかけた口を閉じた。右手の指で左手の甲の皮をつまんだ。涙腺が病熱に浮かされた青年の瞳のように潤んでいくようだった。


 やっぱり、幸一くんも少なきものの町に留まろうとしていた。

 自分自身から切り離された二つの魂を放ってはおけずに、終わらない孤独をこわがる52Hzの鯨と共に停滞することを選んでいた。幸一くんなら間違いなくそうするだろう。そこまでは分かった。

 それでも、幸一くんは〝元の世界に帰る〟と選択を変えた。

 ゆびきりをして交わした約束を破ってまでそうしたかった理由が、悲しいことだけれど、私にはぜんぜん分かりかねた。準備を逸って失敗してひとの海で座礁して、鯨の歌に視える糸を必死に手繰り寄せてようやっと少なきものの町に来た。幸一くんは疲れ切っていたはずだ。

 私だって頭をぶっつけたショックであんまり元気とは言えないような状態でいたけれど、それだって〝幸一くんに会いたい〟という冒険の指針を胸に抱えていた私とは違って、幸一くんには元の世界に帰ってまで会いたいひとなんてそのときにはもう一人もいなかったはずなんだ。むしろ、種族は違えどくくりは同じである少なきものたちが復興の火を灯し合う少なきものの町にいたときのほうが遥かに幸福な心地でいられていたのかもしれない。ますます、幸一くんが元の世界に帰るという選択をしたわけが謎のヴェールに包まれていった。

 私は目を伏せて、マウンテンゴリラの復興の火から垣間見えた記憶を思い返した。完ペキな自意識で少なきものの記憶を探るというのは大変な作業だった。夢の内容をむりにでも思い出そうとしているような感じだった。


 幸一くんは、確か……帰らなきゃいけない、と言っていた。


 私は目線を上げた。

 ニィが目を合わせてきて、夢見る病弱な乙女のように笑んだ。私は笑み返すことができなかった。口角が上がるよりも先に眉尻が下がってしまう気がしたし、緩んだ唇の隙間から弱音がこぼれ落ちてしまう気がした。

「サチイチは戻ったよ」とニィが諭すように言った。

 私はぐっと下唇を噛んだ。

「でも、あなたは留まってる。孤独になることをこわがってどこへも行けないでいる。私のせいなんだよ。あの夜だって、私が泣きじゃくる幸一くんの背中を励ますように叩きながら側に寄り添っていさえすれば、心が真っ二つに切り離されるなんて苦しそうなことは起こらなかった。もう独りにしないって決めたんだよ。それは、私のための決断でもあるんだよ。それにっ……」と私が息継ぎをしたのと同時に、ニィが盛大に噴き出した。

 私は初め、きょとんとして、たちまち、頬を紅潮させた。

「な、なんで笑うのっ。酷いよ。私は真剣なんだよ」

「いや、ごめん。あはは」と謝ったそばから煽ってきた。私は不機嫌な猫みたいなジト目でニィの横顔を見つめ続けた。ニィはまだぜんぜん可笑しそうに笑っていた。

「だって、サチイチと同じようなことを言ってるんだよ? あははは。ほんとうに可笑しいよ。二人して〝せい〟が好きなんだね」

「同じようなこと?」

 私が聞き返しても、ニィは可笑しそうに笑い続けていただけで答えなかった。幸一くんにしては珍しい長時間の大笑いに、次第に、私もつられて笑けてきた。


 悪くないよね、と心の中で呟いた。


 ──  ノ「ようはさ」とニィが目尻に涙の粒を乗っけたまま口を開いた。私は、うん、と促した。

「きみたちは優しいんだよ」

「そうやって、あなたがうれしんでくれることが私の優しさの意味になるんだよ」

「サチイチとはここで別れたんだ」とニィが会話をぶつ切って両腕を広げた。すらりと伸びた黒馬のような片足を上げてたぶんヤジロベーみたいに旋回しようとしたんだろうけれど、防波堤の上はなかなかにざらついていたからせいぜい十時から十二時程度にしかつま先が回らなかった。どうしてそんなに楽しそうに言えるんだろう、と不思議でならなかった。

「サチイチは戻った、というより、戻されたんだ」

「戻された?」と私は聞き返した。

 ニィはけたけたと笑って、不自然なぐらい楽しそうに、まるで歌うように言った。

「希望の呼び声──サチイチはそう言っていたよ。希望が僕のことをとてもじゃないけれど抗えないぐらいに強い力で引いてくるんだ、帰らなくちゃいけないんだ、って!」

「それは……」

「だから、希望もきっと戻るんだよ! 希望を求める誰かがいるなら、戻らなくちゃいけないんだよ。人の祈りは強引なんだ。たとえ、希望が少なきものの町に留まりたいとどれだけ強く望んでくれたとしても、燐のような青白い光に包まれて元の世界へとそれよりも強い力で引き戻されていってしまうんだ。

 そうして、僕は独りになる……こんなことだって黙っててごめんね。でも、もう一度ゆびきりをしたかったんだ。だって、ゆびきりって信頼だろう? ゆびきりは絆を結ぶ行為なんだってサチイチは言ってたよ。ゆびきりで結んだ絆はどちらかが裏切らない限りなかなか切れないんだってそんな風にっ聞いてたからさ……もしかしたら、希望と結んだ絆なら切れないだろうかなって思っちゃったんだ。希望なら僕と共に留まってくれるかなって……思っちゃったんだ」

 私の心が切なさという点をめがけて収縮した。縮こまった体積からはみ出したありとあらゆる感情たちが血液に溶け込んで全身を巡った。

 波動のような切なさが心の体積を膨張させて、元に戻ったときの反動で血に濡れそぼったせいで生がふんだんに香るようになったありとあらゆる感情たちを取り戻した。心がはちきれそうだった。

 私は私のカラダをびりびりと波打たせてくるような──右足を踏み出した──血液をふつふつと粟立あわだたせてくるような切なさに──左足で地を蹴った──たまらなくなって、私でも知らずの内に、駆けだしていた。

 べっこう飴色に輝く頬に涙の道筋を作り出していたニィのカラダに抱きついた。ひしゃげるぐらいの力を籠めた。かき抱くように抱きしめた。

 そんなにさびそうに泣かれたら、どこへ行く意味もなくなる。

「あんなに楽しそうに言ってたのに、泣いてるじゃない」

「こんなのって空元気からげんきだよ。どうせばいばいすることになるんなら、笑顔のほうが、鮮明ではなくとも綺麗な記憶にはなるだろう? 今回も失敗しちゃったけど」ニィがまた笑んだ気配がした。私は腕により強い力を籠めた。

「幸一くんが元の世界に戻されたからって、私もそうなると決まったわけじゃないよ。私はあなたを独りにしてどこかへなんて行きたくないよ」

「もういいよぉ。出会ったときから分かっていたことだったんだ。きっと、少なきものの町はそういう風に成り立っているんだ。停滞するのは端から誰にも見つけられないようにできている僕みたいな奴だけで充分なんだよ。ほら、よく耳を澄ませてごらん。希望を求める声が聴こえるだろう?」

「聴こえないよ! ねぇ、幸一くんは私を呼んだりしないんだよ。だって、あんなにもたれて、傷つけて、たくさんを委ねてしまったんだもん。思う通りに振る舞えばいいなんて伝えていたし……幸一くんは私のことなんて嫌いなんだよ」

 私の心を私の意思で傷つけるように言うと、ニィが可笑しそうに笑いだした。

「あはは! きみたちって双子みたいだ。いったい幾つ同じようなことを言えば気が済むんだい?」

「なにがっ」と私は額を腕の付け根に擦りつけながら吠えた。

「嫌いになんてなるわけないだろ。じゃなきゃ、こんな風に振る舞えないよ」

 頭上で響いたニィの声は洞窟を通る子風のように震えていた。私は胴に回していた腕に一層強い力を籠めた。ざざん……ざざん……という波の音が、私たちを取り巻く沈黙を削ぎ落として足元に積もらせ、身動きを取れなくさせていた。

「ほんとうに元の世界に帰ることになるの? だって、もうすぐで少なきものの町のあんまりに短い有限は終わるんだよ。ほら、見てよ。朝陽が四度、弧を描き終えそうだよ……」

「希望は元の世界に帰るんだよ。ほら、僕は慣れてるから。独りでも平気なようなんだ。僕は少なきものの町に留まって、希望はサチイチに引き戻されて……うん。ぜんぜん大丈夫だよ。それに、いつかはまた希望みたいな子どもが僕の歌を聴きとって少なきものの町に訪れてくるようなことが、ほんとうに少しだけの可能性だったとしてもあるかも分からないだろう? あぁ、人の祈りって強引なんだね。選択も信念も幸福もなんにもお構いなしで誰かを救おうとするんだ。絆を結んで引っ張ることができるのは人だけだね。

 サチイチも……マジックアワーの時分に帰っていったよ。現や幻の境目なんかを曖昧にさせる力が働いたりしているのかなぁ?」

「なにが起こっても不思議じゃないんだよ。マジックアワーはどんな例外も許容される時間帯なんだよ。だから、私はニィを独りにはしな」

「希望は少なきものの町に留まることをほんとうに望んでいるかい?」

 不健康な心のひとの引き笑いのような声が鉛色の雲みたいに頭上に重たく垂れこめた。

 私の背中にあてられていた古びた魚のヒレのように平たい手のひらが、唐突に、ぐぐぐっ……と丸められた。かぎ爪状に立てられた爪の先が背中の肉にうずまりたいというように、柔らかな土を掘るような動きをしてみせた。痛かった。

 幸一くんがずっと苛まれてきた、油断したらたちまち心を喰い荒らしにかかってくるような圧倒的ななにかが私の心までをも侵そうとしてきているようで、呼気がわずかに震えたし、冷や汗をかいた心臓がどくっどくっと逸った。

 私は一瞬、肉食獣に爪を立てられた獲物みたいに身を固くして……ニィの背中にあてていた手のひらを離して、またあてた。かぎ爪型に丸められた手のひらが戸惑ったように二度ほど震えた。

 泣きじゃくる子どもにやるように、背中を励ますように叩き続けた。

「ほんとうに思ってるよ。嘘はついていないよ。私を信じて」

「…………」

 ニィの手のひらが平たくなって──私の背中を強く押さえた。夜のとばりのような頭を私の肩にもたせかけた。青色の冷凍枕の匂いと、しょっぱい潮の香りがした。

「ごめん」とニィが謝った。

「いいよ」と私は許した。

 ニィが悲しみの息を吸った。粘着質な糸が震える音が耳から一番近いところで聞こえた。

「きみみたいに優しくなれたらよかった」

「……私なんか、半端なのに」

 私はぽろぽろと涙をこぼした。幸一くんの声でそんな言葉をかけられたら、もう、泣く以外に感情を発散させる方法がなんにもなくなった。

 マジックアワーの空模様がだんだんと紺の領域を広げてきた。私は、ふと思い立って、ハッキリとした口調で夢遊病患者みたいに語った。

「いつか、少なきものの町の物語を書くよ。52Hzの鯨のことや、凛々しいユキヒョウのこと、行く先々で出会った少なきものたちに教わった大切なことをカタチにして残すよ。私のような少なきもののひとたちが幾らか救われるような物語に書けたらいいな。少なきものの町のことを知った少なきもののひとたちがお互いを見つけて祈り合えるようになったらとてもいいな。

 ねぇ、ニィ。いま、とびきりのタイトルを思いついたよ。パッと見じゃあちょっと堅苦しいようだけど、あんまり軟派が過ぎても良くないよね。私たちってよこしまな思いをすぐに嗅ぎ取ってしまうから、いいと思ったもので勝負しないと斜めの目で見られちゃうんだよ」

「……少なきものの町の存在を知った少なきものの誰かさんが、いつか、僕の歌を聴きとってくれるようになるだろうか」

 開きかけていた口を閉ざした。オレンジ味の琥珀糖のような皮が張りついた唇がふるふると震えた。地平線から扇状に波及していた夕陽の煌めきが瀕死の蛍のように弱弱しくなっているようだった。私は独りぽっちになることをこわがる子どもを慰めようとするように、背中を優しく叩き続けた。

「なるよ。きっと」

 ニィが病熱で乾ききった口内から分泌されるような粘っこそうな唾をこきゅりと飲んだ。それから、様々な物事について真摯しんしに向き合いすぎたせいで膨大な数にまで膨らんでしまった思考で重石おもしのように重たくなった頭を私の小ぶりな肩に擦りつけた。

 遠慮がちに、青年らしく少し固めの手触りをした髪を撫ぜてみたら、海の中のあぶくが弾けたように、ふふっ、と笑った。

「やっぱり、きみは僕の希望だよ」

「大げさだよ。あなたこそ私の幸せだよ」

 そっちこそ大げさなようじゃない? と熱い呼気が纏わった声を肩下に籠らされて、私は泣き笑った。もう、わざわざ耳を澄ませなくとも聴こえてきた。

 心の耳の鼓膜が破けそうなまでに激しく震えていた。私のことを求める声がいまにも泣きだしそうなぐらいに弱弱しく震えながら幻の糸を伝ってきた。

 ノゾミ──私と幸一くんの秘密の呼び名だった。

 意識が夢の中のようにぼんやりしてきた。ほんとうに、元の世界に帰ることになるんだろうか、と、背中にあてていた左手のひらを丸めた。とても悲しかったし、さびしかったし、切なくなった。だけど、大海の最中で停滞する私から遥か遠く離れたところで浮かぶ孤島に屹立した灯台を見つけたときのように、ほのかなうれしさが心に灯ってもいた。

 私は私の心に灯ったうれしさがひどく汚らしくて誰に咎められても文句は言えないぐらいの罪であるように思えてならなくなってきて、途端、ぜんぶを躊躇った。目を瞑らないようにと瞼はしっかと上げられていたし、左手のひらは半端な猫の手を取って大手の羽織をつまんでいた。

「ねぇ、ニィ。もしも、ほんとうに元の世界に帰ることになって、幸一くんと再会できたら……私、なんて言ったらいいかな。色々ご迷惑をおかけしてすみません? 誠に申し訳なかった? 許さなくてもいいから信じてください? なんて言ったらいいのかな」と私は不安をこぼした。断ち切ったはずの幻の糸が強風に吹かれた蜘蛛の巣みたいに激しく揺らいでいた。

 ニィがしょうがなさそうに笑んだ気配がした。

「そんなの、ごめんね、でいいんだよ。きみたちは兄妹なんだろう?」

「兄妹って言ってもいいのかな。だって、半分しか繋がってない。私の命は幸一くんの大事なひとの命と引き換えにして作られたんだよ。そうだよ、兄妹なんて言っちゃったらバチがあたるよ」

 私が痛切な声で訴えると、波がさざめくように笑われた。

「ふふふっ、ほんとうに可笑しいなぁ。人間はなんのために言葉を生み出したんだろう。伝えられないことばかりが増えているように、きみたちを見ているとそうとしか思われなくなってくるよ」

「どういうこと?」

「サチイチは元の世界に狼煙のろしのように立ち昇っていた未練を消すために糸のようなものを断ち切ったんだ。でも、どこからか伸びた糸を伝ってきた希望の呼び声に引き戻された。サチイチは困ったように笑みながら……あぁ、これはサチイチ本人から聞いたほうがいいね」

「なんてところでもったいぶるの! いいから教えてよう。まだ再会できるって決まったわけじゃないんだから」

 私がしつこく駄々をこね続けると、肩にうずまっていたニィが観念したように顔を上げた。つんと尖った顎が私の小ぶりな肩に乗せられた。言葉が紡がれるたびに伝わってくる振動がなんだかとてもこそばゆかった。

「兄妹の絆で繋がっているんだ、って言ってた」

「それ、ほんとう?」

「嘘だと思う?」とニィが楽しげに訊いた。私は拗ねたように口を尖らせた。すぼまった声帯から這い出ていく声もまた拗ねたようにところどころが攻撃にもならないような細やかさで棘ついていた。 

「分かんないよ。ニィは二年前の幸一くんとほとんど同じようだから、嘘をつくのだって得意でしょう?」

 そうかな? とニィは笑った。私はなにも言わずにただ頷いた。

 ニィが上体を反らして、古びた魚のヒレのように平たい手のひらを両肩に置いた。夜の帳のように濃い色合いをした黒の髪がべっこう飴色に照った美しい顔を質のいい天蓋みたいに囲っていた。

 私は滑らかな頬に張りついていた髪を幾房か払った。すべての分岐点であった夜の町の最中で目を背けたあられもない泣き顔がみっともない恰好で現れ出た。

 剥きだしだ、と思った。

 こわがっていることや悲しいことから目を背けずに全身全霊で向き合っている幸一くんは世界で一番美しかった。

 ニィが深淵のような瞳で私の揺らぐ瞳をじっと見据えた。

「傷つけたことを謝りに行くためにも、僕とはここで別れるんだよ」

 私はぽろっと涙をこぼして、なにを言うこともできなかった。

 ニィは平気そうに笑んで、ほんとうにうれしかったから、と、そこで言葉を終わらせた。ニィの手のひらは冷えていた。まるで遠い昔に不時着した隕石がごうごうと迸る熱を収束させて、どこへも向かえずにしんと眠っているようだった。

 心の耳の鼓膜が震えていた。

 どこからか伸びた──或いは、ずっと伸びていたのかもしれない──兄妹の絆が懐かしい呼び声の周波数で震えて、私の心を強引に引き戻そうとした。

 私はありとあらゆる感情に揉まれながら〝生きたい〟と叫び続ける心の琴線を〝ノゾミ〟と呼ぶ声に合わせようとした。

 マジックアワーの空模様がもうえいえんに見上げられなくなるんだろう少なきものの町の夜空に侵されてきていた。全身が燐のような青白い光に包まれつつあるのを感じた。

 ニィが名残惜しそうにゆっくりと後じさりして、ばいばい、と一筋光った。

 私は開きかけた口を閉じて、目を瞑った。


 ──幸一くんがどれだけ強く停滞を望んでいようとも、私はそれ以上に強く、幸一くんが独りにならないことを望んでいた。


「許してもらえるかな」

 私は頼りなげに訊いた。

 兄妹の絆は懐かしい呼び声の周波数で震えていて、私の心を強引に引き戻そうとしていた。

 マジックアワーの空模様がもうえいえんに見上げられなくなるのかもしれない少なきものの町の夜空に侵されてきている最中さなか、私は両肩に置かれていたニィの冷たい手を取った。

 ニィはまっさらな手のひらに握られた平たい手のひらを見下ろして、首を左右に弱弱しく振りかけてから……試してみるかい、と呟いた。

 私はハッと息をのんだ。ニィの瞳がなにかしらの決意によって凝固したように見えた。

「いまの僕は二年前のサチイチとほとんど同じようなんだろう? それじゃあ、僕に許されなければ、サチイチにだって到底許してもらえないかもしれないよね」

「うん」と私は頷いた。

 ボールペンで描いたようなニィの輪郭と紺色に塗り替えられていく曖昧な曇りの恰好をした空以外は黒色に輝く海とそこに打ち寄せ続ける波だった。ざざん……ざざん……という音と共に泡のように細やかな白が消え去り続けていた。

 いま目の前に広がっている風景のなにもかもが儚いようだ──そう思ったら、胸が真綿の紐のような感傷で締めつけられた。微かに息がしづらくなった。窒素や二酸化炭素や別れの粒子が取り除かれたあとにただ残された酸素だけを取り込んでいるみたいで、だから、ぜんぜん苦しくはなかった。むしろ、私は心地よく、しづらい呼吸を繰り返した。

「それじゃあ、なんでも謝ってみてよ」

 そんなおかしなセリフ聞いたことないよ、と笑ったあと、私はニィの手を取りながら〝ごめんね〟を試し続けた。

「ムキになって怒鳴ってごめんね」

「善意の怒りだ。ぜんぜんいいよ」

「おぶらせてごめんね。重かったでしょ?」

「謝らなくてもいいことだよ。軽すぎておっかないぐらいだった」

「たくさん涙痕を作ってごめんね。舐めてみたらしょっぱい味がするかもしれない」

「濡れることには慣れてるよ」

「ほんとうのことも嘘だと決めつけてごめんね」

「それは僕のほうこそが謝らなきゃいけない。自業自得だから、掘り返さないで」

「ごめんね」

「……うん」

「約束を破ってしまうこと」

「いいんだよ」

「元の世界に帰って、ごめん」

「僕は独りに慣れてるから、そんなに苦しくはないんだよ。それに、いつか少なきものの町の存在を知った誰かさんが僕の歌を見つけてくれるかもしれないだろう? そのためにも帰るんだよ。希望には未来がある。変えるべき世界に帰らなくちゃいけない」

 私はニィの瞳をまっすぐに見据えた。

 ニィもまっすぐに見つめ返した。

 こうであったらいいなとは思うけれど、果たして私の意図していることとニィの決意が意味していることとが一致しているのかどうかは分からなかった。


 そうして、たとえ違かったとしても私の決意は揺るがなかった。

 きっと。ニィも。


「ごめんね」

 私はニィの手を握った手に青白く燃ゆる復興の火を迸らせた。決して逃してしまわないようにとありったけの力を籠めた。絞られた肺から追い出された息が空っぽの声帯を通ってつらそうな呻き声に変わった。

 視界が燐のような青白い光に包まれて、私は誰にも見つからないような涙をこぼしながら──幸一くんの魂を解放するために祈っていた。ニィの手は微動だにしなかった。


 ──人の祈りって強引なんだね。選択も信念も幸福もなんにもお構いなしで誰かを救おうとするんだ……。


 幸一くんのもの悲しげな声色が私の脳内でリフレインされた。

 許されなくてもよかった。

 これは私の駄々で、暴力みたいに理不尽に捧げられた幸一くんのための祈りだった。〝私は幸一くんを置いてどこかへは行きたくないから、私よりも遠くへ行って〟──初めの頃となんら変わりないような……ううん、変わった。私は私の選択を、他の誰でもない、私自身に委ねていた。


 私は私の人生を生きていける──ふと、思った。


 私の心は燐のように青白く燃えていた。私が私に捧げられた祈りを覚えている限り、青白く燃ゆる心は私の人生の航路をまるで北極星のように揺るぎなく導き続けてくれるんだろう──私は迸る祈りに震える手を胸の前に持ってきて、ぽろぽろと涙をこぼし続けた。


「ありがとう」


 優しい声音に顔を上げると──幸一くんの瞳が燐のように青白く燃えていた。

 すべてが白んでいく視界の中で、幸一くんの片割れの魂は微かに笑んでいた。


 鯨が潮を吹いたように青白い復興の火が上へ上へと昇った。復興の火は私のほそっこいカラダを透過して、際限なく上へ上へと昇り続けているように思えた。

 だけど、あるとき、終わりがきた。

 唐突に色彩を取り戻した視界に目がくらんで──耳に届いた笑い声に天を仰いだ。


 少なきものの町の夜空の最中さなかに、燐のように青白く燃ゆる鯨がいた。


 まるで銀河間をどこまでも行く飛行艇のように巨大な52Hzの鯨の思念体は凪の中を揺蕩って、ときどき、雨のような復興の火を迸らせた。

 海は無数のオパールが浮かべられているかのように煌めいて、振り返った先にのっぺりと伸びていたジオラマのような町並みは海みたいに燃えていた。とても幻想的な風景だった。

 私は呼気を震わせて、顔を覆った。そうして、またすぐに顔を上げた。


 幸一くんが私に一枚だけ見せてくれた、青白く燃ゆる町の絵だった。


 私はたったいま海に沈みかけている少女のように、ほそっこい腕を天に向かって凛と伸ばした。白樺の木の節くれのような五本指が指す先には、銀河間をどこまでも行く飛行艇──ではなくて、解放された52Hzの鯨の思念体が──幸一くんの片割れの魂がどこまでも続く空に向かって昇っていた。














 希望と復興の物語がいつかありがちになるようにと祈りをこめて──H・Y──














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復興の火 井桁沙凪 @syari_mojima0905

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