「人魚」
お題
【海で打ち上げられていた人魚の女の子が人間の青年に恋をして男の子と一緒になる為に人間になろうと海の神様にお願いするかなぜか断られてしまう。
どうしても諦められない女の子だったが、ある日男の子が海に沈んでいくのを発見。女の子が助けてキスをした瞬間、男の子が人魚に変身し結ばれる話。】
※書くにあたり少し変えさせていただきました。
―――――――――――――
月のない夜であった。
海は墨壺の中のように黒くたゆたい、空との境も判然としない。闇を照らすものは何もなく、波音だけが響く静かな夜であった。
ちゃぷ、ちゃぷ、ちゃぷ。闇の中を、いっそう黒い影がぬるりと滑っていく。小舟が十艘、さながら陣形を組むように一定の距離を保ちながら沖へと進む。どの舟も灯りを付けていない。息を潜めているが、闇にさえ浮かび上がりそうなほどの激しい緊迫感が周囲を包んでいる。
浜の灯りも遠く離れた沖まで船団が進んだ頃、どこからか人の赤ん坊にも海鳥にも似た不気味な声が聞こえ始め、船団は動きを止めた。誰かが息を呑み、誰かが深く息を吸う。
やがて、船団の端から男の悲鳴が上がった。
「灯せ!」
静かな海に怒号が飛ぶと、すみやかに九つの火が掲げられた。黒い海がてらてらと光る。興奮した鳴き声と悲鳴と怒号が激しく入り交じる。ただ一つかがり火の上がらない舟の上では、若い男が藻のようなものに絡め取られ、海に引きずり込まれまいと舟にしがみつき、老いた男は海の中に潜む何かに向かって櫂を振りかぶっていた。
「あそこだ!」
九艘は速やかに舟を回して襲われている一艘を取り囲み、海面を照らし、銛を構える。一つの切っ先が空を切って海面に潜ると、その柄が沈みきる前に何かに突き刺さって、ぐねぐねと激しく揺れ動いた。海の中に潜む何かは、怪鳥のような叫声をあげ、身を捩り跳ねるようにして灯りの下に姿を晒す。
上体は若い娘、下肢は大魚。闇に光るまん丸の瞳に、櫂に絡まる藻のような長い黒髪。漁村で人魚と呼ばれている昏い海の化け物である。人魚は背に刺さった銛を抜き、怒りを露わに声を上げた。開いた口には細く鋭い歯がみっしりと並んでいる。
人魚が声を上げた途端、ざんぶざんぶと波が立つ。
華奢な小舟は突如起こった大波に煽られ、とても立ってはいられないどころか、あちらもこちらもひっくり返り、投げ出された人間の悲鳴と怒号が飛び交う有様となった。
怒りを露わに叫んでいた人魚の叫声は、いつしか嘲笑にも似た響きを帯びていた。
灯火は、かき消えた。悲鳴も怒号も消え失せた。波も穏やかに、微かに囁くような風音が海面を掠めていく。静けさを取り戻した真っ暗闇に、きいきいと、甲高い笑い声が響いていた。何者も海の上では己に敵わぬとでも言わんばかりに。
しばらくして、沈んだ獲物を求めるように、人魚はゆっくりと海中へと身体を向けた。だが、海の静けさはたちまち破られた。人ならぬ声が、断末魔の叫びのように海を震わせたからである。
* *
夜が明けた。
漕ぎ出した十艘の帰りを浜で待っていた村人は、朝焼けに染まる空と海のどこにも舟の一艘さえ見つけることが出来ず、悲嘆に暮れ、夜通し焚いていた火に砂をかけた。すすり泣く声があり、憤る声があった。やがてそれらは、浜を離れて村へ帰っていった。
村の仲間が死んだ。ずっと眺めていたこの闇の中で。
「兄貴は無念だったな……」
いつまでも浜を去ろうとしない少年に、隣家の老人が声をかけた。少年の兄も舟に乗っていた。泳ぎも舟の扱いも誰より巧い、勇敢な男だ。人魚退治に行くと真っ先に手を挙げたのも兄だった。前は網を破る程度だった人魚が、いつしか舟を壊したり、人を海に引きずり込んで食ったりするようになって、村人は漁に出たがらなくなった。だが、それでは生活が立ちゆかない。兄が人魚退治に名乗りを上げ、それに奮起させられた力自慢の漁師たちが共に舟を出した。
「じいさまは、本当に兄貴が死んだと思うのか」
少年が言うと、老人は不憫そうな顔をして、それ以上何も言わずに村へ帰っていった。
兄貴は勇敢な男だ。どこへ流されても諦めず、帰ってくるさ――。少年はそう信じて、仕事の合間に浜へ出ては海の彼方を眺めた。
明くる日の朝に、少年は浜の岩場の陰から鳥のような鳴き声が聞こえるのに気がついた。か細い声であまりに切なそうに鳴くので、近づいて覗き込んでみると、岩の隙間に大きな藻の塊が、――否、藻のように黒々とした長い髪の娘が俯せになって潜んでいた。髪の間から細腕と顔だけが覗いている。村の娘ではない。見覚えはないし、そもそも貴人でもなければこれほど色の白い娘などそう見るものではない。
「大丈夫か」
引っ張り出そうとすると尋常ではない怯え方をして、嫌がってなおさら岩の隙間に引っ込んでしまった。髪で自分の身体を隠すように包み、少年に顔を見せようともしない。
「何もしない。どうした、怪我をしているのか?」
娘は答えない。
「どこの娘だ」
やはり答えはない。
「恐い思いでもしたのか。そうだ、腹は減ってないか? 握り飯ならある」
少年が自分の昼食のために持っていた握り飯を一つ差し出すと、娘は僅かに顔を上げた。まん丸の、金色の目だ。言葉が分からないようだから、異国の娘なのかも知れない。
「ほら」
眼前に握り飯を突き出すと、娘は真っ白な細腕に似合わぬ力で少年の腕をきつく掴んだ。それからゆっくりと五指を緩めると探るような手つきで握り飯をとり、しばらく怪訝そうな顔つきで眺めていたが、害のないものと理解したのかやがて岩陰に縮こまってこそこそと食べ始めた。
不気味な娘だと思った。どこの者とも知れないし、このままここに放置してよいものかと悩んだが、ぞろぞろと大人を引き連れて怯える娘を取り囲むのも可哀想だ。仕方なく少年は娘を置いて立ち去った。
次の朝に少年が浜へ娘の様子を伺いに行くと、岩場に娘の姿はなかった。娘がいた砂の上は乾いていたが褐色に変色しており、そこから砂の上を這いずった跡が海へと伸びていた。
* *
先の尖った武器で腹を抉られた。
腹に刺さったそれを引き抜いて、指した男を振り払ったはよいが、たくさん血を流し意識を失って、気がつくと浜に打ち上げられていた。岩場で蟹などをとって食いながら身体を休めていると、そこに人間の小さな雄がやってきて、事もあろうにその人間は、人魚に手を差し伸べた。ただ、それだけの事なのだ。
「人の男に懸想しただと?」
海中を震わせる大笑いが起こる。巨大なイカが、愉快そうに長い触手を叩き合わせながら、人魚にぎょろりとした目玉を向けた。この近海の主である。海で起こる不思議なことの正体や、願いを叶えるためのまじないをいくつも知っている。
人は、凶暴な生き物だ。
自分たちが食べる以上の魚を海から奪い、警告を発する人魚を先の尖った武器で突き殺そうとする。十艘も舟を沈めたのに、また新しい舟を造っていた。人間のことを考える度に、いつも傷が疼くのだ。今度は大きな傷を負わされたから、なおさら、憎くて堪らない。
それなのに、傷が疼くほど、人魚に差し伸べられたただ一つの手を思い起こす。あの生暖かい手を思うと、傷の痛みがすっと引いていくような心地がする。
なんとかして傍に行くことは出来ないだろうかと海の主に訊くと、海の主はこうして人魚をひどく愚かな者のように笑った。
「わたしはお前を人の姿に変えるまじないを知っている。ただし、それは自由に海と陸を行き来できるようなものではない。人の足を得るのと引き替えに、金輪際尾びれを失う。そうまでしてもお前が化け物であることに変わりない。人の言葉を知らず、人の心を理解できず、ただ人に憧れた、人の姿の化け物だ。気味の悪いお前には、男も寄りつかんだろう。あとになって海に戻りたいと泣いても遅い」
海の主は人魚の回りをゆったりと泳ぐ。さわさわと、絡みそうなほど長い触手が人魚の身体を撫でた。
「わたしは同胞をそのような惨めな者にしたくはないんだ、わかるだろう?」
海の主が言うことは最もだった。足だけを得たところで、人と同じにはなれない。想像するに、ひどく哀しい気持ちになった。気を落とす人魚に、主はほんの少し愉快そうな声を出した。
「万が一、万が一にも、男がそのままのお前を受け入れるようなことがあれば、その時にはお前の望みも叶うだろう」
海の主は意地が悪い。頭はいいが狡猾で、誰かが苦しみ悲しむのを愉しむ癖がある。皆がそれを知っているから、この深い海に客人はほとんどない。
もしも人魚が人魚のまま少年に受け入れられるのなら、こんな深い海まで降りては来なかったものを。
人魚は海の主のもとを去った。
それからはただ、夜明け前に浅瀬へと泳いでいって、毎朝夜が明ける頃に浜へと出てくる少年を遠くから眺めていた。少年が浜を立ち去るのを見届けて、人魚もまた浅瀬を去った。幾日もそうして夜明けを過ごした。
あるよく晴れた朝、少年は浜へ出てこなかった。そのかわり、人魚が立ち去ろうとした頃になって、一艘の舟が浜から出てきた。あれだけ仲間を失っても、まだ漁を続ける気なのだ。
人魚は邪魔をしてやろうかと思ったが、手を出すまでもなく今日の海はやがて荒れることを知っていた。舟を見逃して、人魚は住処へと帰ることにした。
舟が沖までやって来た頃、次第に風が出てきた。快晴だった空には黒雲が立ちこめ、次第に波が高くなっていった。人魚が海面に顔を出して様子を伺ってみると、小舟は波にもまれ、男たちが振り落とされかかっている。舟の縁に掴まって流されないように耐えていたが、ひとり、一回り小さな身体が波間に消えていこうとしていた。
あの少年だった。
少年は必死に舟を目指して泳ごうとし、共に乗っていた男が櫂を差し伸べたが、届くことなく、どんどん舟と少年とは引き離されていってしまった。少年は荒れる海で思うように泳げず、何度も波に弄ばれて、顔には恐怖と焦りが張り付いている。
人魚が海面から頭を出して近づくと、人魚を自分が情けをかけた娘だと気づいたかどうか定かではないが、必死の形相で手を伸ばしてきた。彼には、他に縋るものがなかった。
「助けてくれ、助けてくれ」
少年は死にものぐるいで人魚に手を伸ばしたが、足をもつれさせたのか、人魚の手が届くより前に海の中に沈んでしまった。追いかけて海中へ潜ると、少年は藻掻いて泡を吐きながら、必死に海面に手を伸ばしている。反して、暴れるほどに沈んでいく。人は水の中では呼吸できない。
人魚は海中で少年を抱えて、海面へと引きずりあげた。それでもまだ少年は暴れるので、人魚は少年を浜へ連れ帰った。浜のあたりは雲がかかり始めてはいたが薄ら明るくて、村では海の異変に気がついていないようだった。浜に憔悴した少年を横たえた時、人魚は彼の目から熱い滴が零れていることを知った。
少年は言った。
「なんで俺を助けたんだ」
それから、こうも言った。
「なんで兄貴を殺したんだ」
人魚は、彼の言葉を理解していた。人魚が人間を憎むのと同じだけの憎悪が、その言葉に篭もっていた。腹の傷がじくじくと痛む。もう人魚の中に、その痛みを和らげられる温もりはなかった。人間が人魚を憎んでいることなど、初めから知っていたのに。
「なんでだ、なんでだ」
起き上がる気力もないまま、少年は人魚を責める言葉を吐いたが、人魚はそれに怒りを覚えなかった。少年の言葉は人魚を責めるよりずっと、まるで誰かに必死に許しを乞うように聞こえたからだ。人魚はそれが憐れで仕方なくて、彼の涙に濡れる頬に口付けて、彼を残して泳ぎ去った。
以来、浜を遠巻きに眺めるのはやめた。
* *
海から生還したあと、少年はひどい病に冒され始めた。足がむくんで、歩けなくなるほど痛み、皮膚も魚の鱗のようになってしまった。医者が言うには魚鱗癬とも全く違うのだという。まるきり本物の魚のようだと気味悪がられてしまった。日に日に症状は悪化し、とても外へは出られなくなって、一日中家の中で横たわる日が続いた。
そんな頃だった。
「帰ったぞ!」
戸を開けた屈強な男が、眩しい日差しを背に受けて立っていた。逆光で顔は見えなかったが、父よりも上背があり、体つきもがっしりとしたその姿は、少年が生還を信じて待った兄その人であった。
兄貴――。
「――――!」
少年は口を押さえて、狼狽した。舌が巧く回らない。言葉を喋ろうとしているのに、喉から絞り出されるのは海鳥のような音ばかりだ。
どんな表情をしているのか、真っ黒に聳える兄は、少年を見下ろしたままじっと動かなくなってしまった。
お題をもらって書く 御餅田あんこ @ankoooomochida
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