「午前4時」「朝霧」で
嘘は、己が身を呪う。
大魔女ダフネ――、この世で最も古く、最も偉大で、そして千年の時を生きる探求の魔女。そのダフネにすらどうにもならぬ、ひどく相性の悪いもの、それが嘘だ。魔女とは大概嘘をうまく扱い意地悪に振る舞うものだが、ダフネにとっては必ず自らに跳ね返る呪いであった。だというのに、ダフネはかつて、嘘をついてしまった。
「――人は、何によって定義されると思うかね」
古い、古い、記憶の奥底で、老いた男の声が響く。瞼を閉じれば、情景が蘇る。音も、匂いも、気配も。
冷めて香りの抜けた珈琲と、地下工房の埃と機械油の匂い。オイルランプに照らされた作業場に向かって、男は広い背中を丸めている。その様を眺めながら、ダフネはグラスを傾けていた。
男が珍しく手を止めて、真剣な面持ちで振り向いた。
ダフネと言葉を交わす時、彼はほとんど手を止めることもなければ振り向くこともない。彼は一秒とて無駄に浪費したくないのだと言った。不遜なことだ。その、彼が。
「このような術に頼ってまで生き存える私や、不老を得て途方もない時間を生きるあなた。それでも我々は、自らを人と定義し、人であることを疑わない。それで、それだけのことで人の枠に収まるというのなら、この錯誤を与えてしまえば」
男の命はもう残り少なかった。男の仕事の仕上げに、男はダフネに助力を求めた。それがたとえ男のエゴだとしても、男の求める完成がそこに在るのなら手を貸してやろうと思った。ダフネは、男に手を貸した。
ゆっくりと瞼を持ち上げれば、そこは見慣れた列車の客車。一両まるまるが魔女の工房であり、住まいである。この車両に客人がいる光景というのは、実に三百年前、ここに引きこもってから初めての事だが、その客人は既に沈黙している。眠りについた少年と、心を失った少女。もはや己で動き出すことはない。
列車は規則的な振動と音を繰り返しながら、夜明け前の宙を月を追いかけ走り続ける。テーブルのグラスの中で、溶けた氷がカランと崩れた。
* *
夜行馬車に揺られて三時間が過ぎた頃、朽ちかけの塀と鍵の壊れた大きな門の前で馬車が停まった。ようやく目的の場所である死者の都に到着したらしい。街道からは街を取り囲む木々が山のように聳えているようにしか見えないが、木々の間にうっすらと白い石畳が見えた。
ネルは傍らに掛けた姉に声を掛ける。
「ミーナ」
呼ばれた少女ミーナは、ゆっくりとネルの方へ顔を向けた。その表情からは何の感情も読み取れず、瞳は眼前のネルを捉えていない。ネルは「降りるよ」とミーナに手を差し伸べて、馬車を降りた。二人を降ろした馬車はすぐに走り去って、夜の闇へ消えていった。
ネルは手持ちのランプに火を灯し、街へ続いているだろう道へと翳す。石畳は木の根に持ち上げられて割れ、苔むしている。長い間、人の手が入っていないことは、夜の闇の中にも明らかだった。長い並木道を抜けて、やがて、漂う青い光で賑わう広場に出た。うっすらと霧の立ちこめる中を光が反射し、広場だけではなく街全体がまるで昼間のように明るく見える。
光の正体は、神話の時代からこの街で彷徨い続ける死者の魂だと言われ、ゆえにこの街は死者の都と呼ばれた。いつの間にか生者は絶え、街は今や、死者だけのもの。今では、外から訪れる者もない忌避された街となった。木々の浸食は街中にまで及び、人家もすっかり朽ち果てている。人の時の輪を外れ悠久に呑み込まれんとする街の真ん中に、ただ唯一、一際高くそびえる大時計が、今でも寸分狂わず時を刻んでいた。
ネルは彼方の大時計を見上げて、提げた鞄に触れた。
「行こう」
ミーナの手を引き、ネルは歩き出した。
かつて姉弟は、老いた錬金術師の元で過酷な労働を強いられていた。錬金術師の元を逃げ出して、住人のいなくなった三脚の椅子のある家で、二人でひっそりと暮らした。暮らしぶりは楽ではなかったが、ネルにとってはミーナさえいれば良かったし、きっとミーナもそう思っていたことだろう。いつまでもそうして二人で暮らせさえすれば、他に望むものは何もなかった。ところが突然、ミーナから心が抜け落ちた。ミーナの豊かな感情と、ネルを呼ぶ明朗な声はその日以来失われてしまったのだ。
ネルはミーナを治す術を探し始めた。
姉弟が隠れ住んでいた空き家には、前の住人の道具がそっくりそのまま残されていた。油臭い鉄くずは何の役にも立たなかったが、書棚で埃を被っていた本たちはネルに様々な知識を授けてくれた。そこでネルは、どんな病もたちどころに治すという魔女の伝承を知ったのだ。
探求の魔女――、並ぶもののない魔法薬学の才を持ち、対価さえ払えばどんな病や呪いもたちどころに治してしまうという。彼女は自らが作り出した霊薬によって不老長寿を得て、今もなお生き続けているというが、その工房は宙を運行する列車の中にあるために、実際に会ったものはない。
誰も知らないなら、実在する確証はない。
けれど、何人をも寄せ付けない不可思議な列車が宙を行くのは確かな話だ。そればかりか、列車に乗る方法を知っている者は少なくない。広く知られていながら誰も乗り込むことが叶わないのは、誰も切符を提示できないからだ。切符は金銭でも、食料でもない。虹色の石炭と呼ばれる稀少鉱石だ。本来は綺麗なだけで大して役にも立たないが、こぶし大のそれ一つで宙を行く魔性の列車は百年を走るという。
長い月日の果てにネルはそれを得て、列車が唯一地上と接する駅に今向かおうとしている。高くそびえる大時計の裏側、通るのは朝の四時きっかりだ。
漂う青い光が照らすのに助けられ、姉弟は崩れ去った家々の間を抜けて大時計の足下へ辿り着いた。大時計は三時をいくらか過ぎた頃を指し示している。蝶番の壊れて外れた鉄のドアを踏みつけて中へと入ると、ここにも青い光がふよふよ、吹き抜け構造の遙か上まで照らしながら漂っていた。四方の壁にぐるぐると、細身の階段がへばりついている。見上げた限り段差には欠落はないようだが、手すりはほとんどが落ちて、床で瓦礫となっていた。近づいてみると、子ども二人でも並んで上るのは無理そうだった。
「僕が先に行くから、気をつけて付いてきて」
視界からミーナが消えるのは不安だったが、万が一、この段差が脆く、落ちないとも限らない。たとえそうなっても、ミーナは声も上げず落ちていってしまうだろう。だから先行すべきは自分だとネルは思った。きっと以前のミーナなら、年長者の自分が先に行くと言い出したろうし、おそらくネルもそれに甘んじた。手すりもない幅の細い足場を見上げ、またしばらく上って振り返り下を見るに付けて、偉大な姉を思って奮起した。ミーナを守り、魔女に引き合わせ、元の暮らしを取り戻す、もう間もなくだった。
なんとか、歯車の音が喧しい大時計の裏まで上りきった。床に座り込んでネルが息をつくと、傍らではミーナは平然としている。今のミーナにはおそらく恐怖もないのだから、平地を歩くのと何ら変わらなかったろう。
見回すと、左右の壁には列車が入ってくるためかアーチ状の穴が開いているが、駅と呼ぶには何もない。まず線路すらない。本当にここに列車が入ってくるのか不安にも思ったが、宙を駆ける列車が高度を落としてこの街に入り、出て行く姿が頻繁に目撃されていると、二人をここまで乗せてきた御者も言っていた。他に縋るものはない。
待つ時間がひどく長く感じられた。見上げたすぐ上には、今でも鳴るという巨大な鐘が吊されている。
いつしか、塔の中には妙な霧が立ちこめ始めていた。下から上がってきた青い光が、ふよふよとあたりを彷徨う様が、一層明るく、不気味に見える。
すっかり建物の中を霧が満たした時、どこか遠くで、か細い笛のような音が聞こえた。アーチ状に開いた向こうに見える東の空がぼうっと光っている。夜明けにしてはまだ早い。光は一秒刻むごとに強くなっていく。何かが近づいている。
それこそが列車だと思い至った時、真上で鐘が打ち鳴らされた。四時だ。頭の割れるような轟音、塔そのものを震わせる響き。それに混じって、今度ははっきりと、高く澄んだ汽笛の音が聞こえた。鐘の音の余韻が引いていくと、それに替わって今度は甲高いブレーキ音がけたたましく鳴り響く。
ネルの眼前を、幾本もの光の筋が伸び、今までそこに存在しなかった線路を形作っていく。
突風を巻き上げながら、蒸気機関車の巨体が時計台の中に突っ込んでくる。車体はまだ揺れている鐘の下すれすれぐらいを抜けて、二両ほど通り過ぎたところで停車した。乗車口は姉弟のちょうど正面に来ていた。
胸の高鳴りを抑え、ドアに手を掛けようとすると、ドアはその前に独りでに開いた。覗き込むと、列車の中はインク瓶の中のように真っ黒だった。中が見えないように、なにか施しているらしい。列車の中に詰まったのっぺりした闇を見つめながら考えていると、闇の中から声がした。
「お乗りになられますか」
女の声だった。すぐそこから聞こえるのに、女の姿は見えない。声は、あまり間を置かず、「ご乗車でないのなら、出発いたします」と告げた。
「待って、乗ります。その前に聞きたいことがあります。その列車に、探求の魔女は乗っていますか?」
「ええ」
答えはあっさりとしたものだった。それから、また事務的に同じ問いを繰り返した。
「お乗りになられますか。どうされますか。お早く」
乗り込む以外の選択肢はなかった。ここまで来たからこそ、今、ここで尻込みしてはいられない。ネルはミーナの方を見やって、「行くよ」と声を掛けた。まるで奈落の底のようなその得体の知れない闇の中に、二人は足先を揃えて飛び乗った。
その、先は――。
見回すと、薄暗い中に天井も床も座席も確認できた。車内は外から見た車体より随分広く感じたが、その有様はひどく寂れている。壊れた電飾、埃の積もった床、綿のはみ出た座席。住人のいなくなったうち捨てられた街を思い起こさせる。
「切符を拝見いたします」
先ほどまで列車の内と外でやりとりをしていた声が、頭上に注ぐ。ふと見ると、横に女が立っていた。声は直ぐそばから聞こえていたのだから、そこに立っていても何らおかしくはなかったが、ほんの寸前、ネルが車内を見回す間、そこには何もいなかった。女は突如沸いて出たのだ。
女は車内の有様とは正反対に、おろし立てのような皺一つない紺の制服と、金糸の刺繍が鮮やかな制帽を纏っている。手に填めた手袋も、車内の何処に触れても汚れがつくだろうに、真っ新のままだ。
列車といい、女といい、驚かされることは多かったが、なんと言ってもここはかの探求の魔女が工房を構える空飛ぶ列車だ。理解できないことをいちいち数えていてもきりがない。
ネルは鞄から虹色の石炭を取り出して女に差し出した。
女は真っ白な手袋をした手のひらの上でそれをしばらく見定めたのち、満足したように顔を綻ばせて言った。
「申し分のない品です。手に入れるのは大変だったでしょう?」
「どんな苦労も厭いません。僕たちには探求の魔女の助けが必要なんです。魔女はどこにいますか?」
「彼女は最後尾の客室にいます」
女はドアを閉めて「発車いたします」と告げた。それとともに、列車はゆっくりと動き出す。姉弟に「良い旅を」と言って、女は進行方向へと歩き出した。
「行こう、ミーナ」
ネルはミーナの手を引き、魔女の居場所を目指して歩き出した。足下に目を落とすと、床に積もった埃の上には二人の靴あとがくっきりと付いている。長い間、他に誰も歩いていないのだ。それが気にかかって後ろを振り返ったが、そこに女の背中はもうない。足音の一つさえ、残ってはいなかった。
車体は揺れる。
後ろの車両へ移っても、有様は変わらない。破れた座席には乗客はなく、やはり足跡もない。同じつくりの車両をもう二つ通り過ぎて、後部の貫通扉を開けた。
ネルは思わず、息を呑んだ。そこに現れた次の車両に繋がる扉は、それまでの物とまるで様子が違った。拵えは上等で、赤い塗装には剥げも傷もない。飾り立てた金の装飾には曇りなく磨き上げられ、姉弟の姿が小さく映り込むほどだ。この車両に乗り込んでようやく、朽ちていない物を見た。
おそらくこれこそが最後尾の客車、探求の魔女の工房に違いなかった。走行音にかき消されない程度に、強めにドアをノックする。
「どうぞ」
おそるおそる開けてみると、これまで辿った車両の埃臭さから一転、香と薬品の、くらくらするような匂いがした。客室には鮮やかな赤いローブを纏った若い女性が一人、ソファにもたれて琥珀色の液体の入ったグラスを傾けている。怪訝そうな顔つきで彼女は姉弟を見定め、「尋ね人とは久しぶりだ」と言った。
「僕たち、あなたにお願いがあって」
「掛けて」
魔女は言ったが、客室には魔女のもたれたソファの他に座る者などない。言葉を返そうとすると、魔女が手を振るった。床に散らばった薬瓶たちがその動きに合わせて脇に避けていく。ひとつ指を鳴らすと、魔女の正面にもう一つソファが現れた。ミーナを促して座り、ネルは身を乗り出すように話を切り出した。
「あなたならば、どんな病もたちどころに治せると聞きました」
「噂というのは大概誇張して語られるものだが、あながち間違ってはいない」
「じゃあ」
「ただし、わたしが治せるのは生き物だけだ。死者や物はその限りではない。それは了承して欲しい」
「はい」
「よろしい、続きを」
魔女に促され、ネルはこれまでの経緯と、ミーナを蝕む得体の知れない病の話をした。語る言葉は尽きなかった。空は、いつまで経っても白むことはない。太陽に背を向けて、月を追って走って行く、いつまでも明けることのない空を駆ける。ぐるりと世界を一巡りするまで止まることはない。長い話をした。
魔女は最後まで黙って聞いていたが、その表情は決して明るくなかった。
「やはり、そうなのか」
魔女は、困ったように呟き、それから、ネルを見据えて言った。
「わたしには、お前の姉は治せない」
その言葉がネルの身体に浸透しきった時、疲弊しきった頭は理解をやめた。
* *
「嘘だ!」
少年は勢いよく立ち上がった。傍らの少女は驚くどころか、ほんの一片、意識を向ける事すらない。話に聞いた通りだ。
「そんなの、嘘だ」
少年は悲痛な声で叫んだ。
「だってあなたは大魔女で、何でも治せるはずじゃないか」
ダフネは星の数ほど人を救ったが、同じだけ人を救えなかったし、見捨てた。全能の神ならば救えたろうが、ダフネにも知識と技術の礎とするしかなかった人々はいた。そして彼らもまた、ダフネを詰った。たとえ救えないと初めから分かっていても、何一つ心が痛まぬということはない。千年を生きて、なお。しかし毅然として、少年の言葉をはねのける。
「けれどわたしは、死者と物は治せないと言った」
「ミーナは死んでいない」
「生きてもいない。生きているように見えるだけだ。昔も、今も。そして、お前も。忘れているだけさ、本当のことを」
少年は狼狽していた。
魔女の言葉の意味を、少年は理解できない。たとえ矛盾が生じても、都合の悪いことは理解できないように強い暗示がかかっている。他ならぬ、魔女がその仕事を手助けした。
「あなたは……、あなたは何を言っているんですか……? あなたが如何に大魔女でも、一体僕たちの何を知っているというんですか。僕たちを混乱させようっていう魂胆なんでしょう? 魔女は、意地悪をするものだから……」
トパーズの輝く瞳が、今にも泣き出しそうに見えた。
「そうだ」
少年は疲れ切った顔をして、好いことを思いついたように声を上げた。震える手で鞄を開いて、あれじゃない、これじゃない、と困ったように呟いている。しばらくして差し出したのは一枚のチョコレートだった。魔女の大好物であるそれは、いつか知人の文筆家により、魔女への依頼料として流布された。
「あなたにお渡しする物を忘れていましたね。これで、どうか、僕の頼みを聞いてください。ねえ、お願いします」
少年は悲痛な顔を歪めて笑った。
「残念だが、どれほどのチョコレートを積まれても、わたしはその少女を直す術を知らないのだ」
魔女がそう言うと、降ろされた少年の手からぽとりと、チョコレートが落ちた。心の痛みに堪えかねて、少年は固く目を閉ざし呻いた。
ダフネは姉弟を知っていた。
かつて世話になった男が作り上げた、思考し自律する人形たち。彼らは主人である男を崇敬しており、男も子のように愛していた。だが、男は自らの死期を悟り、主人を失った人形たちが存在意義を見失うことを恐れた。
男は、人形たちを人間にしてやりたかった。人でない身体はどうすることも出来ないが、人形たちに自分たちを人間だと思い込ませることによって問題の解決を試みた。そこにダフネが手を貸したのだ。男のくたばる前に、男とダフネは人形を停止させ、記憶を改ざんし、男の死後に動き出すよう調整した。
少年の話を聞く限り、期待していた通りの認識をしている。ただし、自己の認識と状況の矛盾には対処できない。
人と人形では治すアプローチが全く違う。薬と療養で治せる人の病にたとえ症状が似ていても、それが人形となればその治療法には効果がない。
少年を見ていると、この少年に、そして以前の少女にとって、人間である男やダフネが一方的に与えた錯誤が、彼らの助けになったとは思えなかった。それどころか、もし少年が自分たちを人形と認識した上で少女の異常と向き合っていたのなら、解決はもっと早かったのではないか。錯誤は足を引っ張ったのだ。
そして、ダフネがついた古い嘘は、工房に引きこもっていたダフネの元に彼らと共に返ってきた。
男がこの世を去った今、この過ちの責めを負うのはダフネただ一人だ。だが、少年はその真実を知らない。責める言葉を持たなかった。
「お前の姉がこうなって、どれだけ経った」
「……さあ、覚えていません」
諦めきった、ひどく疲れた返事だった。
「もう、思い出せないんです。どんな声で、どうやって笑っていたのか。しゃべり方も、仕草も、ずっと一緒だったのに。あんなにも、僕たちは互いに支え合って生きていたのに」
「お前には少し休んだ方がいい。少し眠るといい」
「僕は、眠りを必要としません」
「そうだったな」
ダフネがこの列車に乗り込んでからと同じ年月だけ、彼は眠りもせず動き続け、少女に異常が生じてからは一人で解決策を探してきた。この疲れ果てた少年は、ダフネの罪の形だ。
「私がお前に眠りをあげよう。少し休むといい。私は君の姉を直す術は知らないが、直す術を調べることはできる」
「手を貸していただけるんですか?」
「専門外だが、仕方あるまい。三百年で初めての客人の願いくらい、叶えてやらねば。目覚めたら君にも手伝ってもらう」
「ミーナのためなら、僕は何だってします。約束です、約束します、魔女様」
少年は安堵したように、そして力強く言った。やがて眠気に襲われた少年は、ゆっくりと目を閉じて項垂れた。寝息は聞こえない。完全に停止した。
ダフネは、目を開いたまま置物と化した少女へ視線を移す。少女は少年のことなど意に介してはいない。仕方ないことだが、憐れだった。
「わたしは出かける。弟を見ていてやれ」
声をかけると、少女は焦点の合わない瞳を少年の方へ動かした。
ダフネは席を立った。
約束とは、自らを縛る呪いだ。ダフネにとっては特に。だから、また工房を宙に走らせたまま地上を旅しなければならなくなった。少し旅に出るから、と、挨拶のために機関室まで行くつもりで車両の扉を開けると、すぐ外に車掌が立っていた。
「旅に出られるのですね」
「聞いていたの?」
「如何に魔女様の工房でも、私の車体に変わりありませんので」
「挨拶に向かおうと思ったのに」
「お出でいただくには、すこし散らかっていますから」
何十年も他の車両へ移ったこともないが、ひどい有様だったことは覚えている。
「お客さんの修理が終わったら、礼に内装の修理でもしてもらえばいい。何でもしますって言っていたもの、それくらい喜んで引き受けてくれるさ」
「悪いですよ、勝手に決めて」
口ではそう言うが、車掌も内心期待しているようだった。
「お客さんは起きないから世話はしなくていいけど、くれぐれも安全運転で」
「ええ、勿論ですとも」
車掌が乗車口のドアに触れると、勢いよく扉が開いた。
列車の外と内は魔法障壁で遮られて、風をほとんど感じない。夜風が気持ちいい程度だが、外に出ればもうそんなことは言っていられない。ローブにはしっかりと、風よけの呪いをかけた。
「お気を付けて。お帰りをお待ちしています。魔女様」
車掌の言葉に手を振って応え、ダフネは高度一万メートルの夜空に足を踏み出した。
* *
「――ネル」
声が、聞こえた。頭の中に、心地好く響く。どうしてか、それだけでとても嬉しいと思った。
はて、何をしていたのだろう。記憶がぼんやりとしている。そこは、三脚の椅子と大きなダイニングテーブルのある――、よく見慣れた家のダイニングだった。ぼんやりしていたところを、ミーナに声をかけられたのだった。
「疲れたの? ネル」
「ううん、大丈夫」
■■は、疲れない。どれだけ働いたって平気だ。
「仕事は僕が代わるから、ミーナはゆっくりしていて。ミーナは働き過ぎだから、そんなだと、いつか壊れちゃうよ」
「これくらい、なんてことないわ。姉さんはつくりが違うのよ」
へへん、と、ミーナは胸を張る。同じ素材で出来ているのにな、とネルは独り言ちる。本当は作られたのだって同時だから、姉弟という役割があるわけではないのだけれど、意思が芽生えたのはミーナの方が早かったし、やや内向的な性格のネルにとって、活発な性格のミーナが姉として引っ張ってくれるのは助かるところも多い。
特に、近頃主人のところに来ている変梃な客人、もとい、大魔女と話す時なんかは。
「無茶はしないでよ。ミーナが動けなくなったら、僕一人でお世話しなくちゃならなくなる」
「大丈夫よ」
自信満々に、ミーナは笑った。
「もう朝食にするから、あなたは工房からお父様を引っ張ってきて頂戴よ。どうせまた、食事の時間を忘れて研究に没頭していらっしゃるのだわ」
呆れたようにミーナがため息を漏らすと、「心外だな」と、穏やかな男の声があった。声の主はすぐに地下の工房から階段を上がってきて姿を見せた。
その人は――。
識っているのに、分からない。出てこない。老いた男の人。袖から覗く手は機械で出来ていた。右足を引きずっている。近頃動きが悪くなったと言って困っていた。
「まあ、今日はお早いのね。びっくりしちゃった」
ミーナは男の人に嬉しそうに声をかけた。彼と一緒にいるのは、ネルにとっても嬉しいことだ。どうして。
「……もう、ネルどうしたの?」
思案していると、ミーナが心配そうにネルの顔を覗き込んだ。
「さっきから変よ。どこか悪いの?」
ミーナがそう言うと、男の人の表情も曇る。心配させたくないので、「大丈夫、平気だよ」と普段の何割増しか溌剌とした声を出して返事をしてみせた。
「ならいいんだけど。さ、椅子を引いて差し上げて」
「うん」
ネルは彼のために椅子を引き、身体を支えて座らせる。それからミーナと一緒に出来たての温かい食事を運んだ。ネルとミーナは食事を摂らないけれど、一緒にテーブルについた。三人でテーブルを囲んでいると、昨日だって同じようにしたはずなのに、ひどく懐かしい心地がしていた。
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