「鞄の中の折り畳み傘」で

 鞄に折り畳み傘を忍ばせるようになって、もう二ヶ月になる。学校ではまだ一度も開いたことのない、秘密の傘だ。



 下校を促すチャイムを耳にして靴を履き替えたものの、藍はしばらくエントランスの屋根の下に留まっていた。灰色に霞む空からは、雨がしたたかに降り注いでいる。


 そろそろ梅雨入りだという。雨の頻度も増えていく。もう一本、傘を買うべきだと思った。教科書類は濡れると困るので教室のロッカーに置いてきたけれど、いつもこれでは日々の課題に困るし、そう毎日ずぶ濡れで帰るのも親がうるさい。


 コンビニで売っている透明傘、あれがいい。あれは、みんなが差しているものだから。


 走り出そうとした時、背中に声がかかった。


「傘を差して行かないの?」


 人の気配のない、雨の日の暮れ時。部活動の片付けなどで施錠時刻ぎりぎりまで残っている生徒もいるが、校舎の中はしんと静まりかえっていた。すくなくともエントランスには、寸前まで人の気配が全くなかった。


 振り返ると、そこには知った顔の女子生徒がいた。


 名前は知らない。言葉を交わしたこともない。制服のリボンの色を見て学年は同じだと分かるが、どこのクラスの子なのかも知らない。図書室と別に、学校の敷地内に部外にも門扉を開いた大図書館があり、彼女とはそこで一緒になったことがある。一緒になったといっても、声を掛けたり同席したりするわけではない。何度も姿を見たことがあるだけだ。


 創立者や卒業生の寄贈図書で構成された図書館は、校内の図書室に比べるとどこかラインナップがマニアックで、ほとんどの生徒に言わせれば面白くない場所だ。そんなところだから、教師も生徒も顔ぶれが定まっている。


 彼女の方でも、藍を認識していてもなんら不思議ではなかった。


 藍は彼女をよく知らないが、日に焼けてない白い肌や長い黒髪には日頃からほんの少しの憧れを抱いていた。図書館でふと目に触れた時の仕草さえ、大人っぽく落ち着きがあって、藍に欠片でも彼女のような年相応の少女らしさがあったのなら、と思ったくらいだ。


 初めて彼女の声を聞いたが、やはり声も綺麗だ。その声で、彼女は研ぎ澄まされた刃のような言葉を重ねる。


「あなたが傘を差さない理由、知ってるわ」


 鞄の持ち手をぎゅっと握った。


 ペチュニアの花弁にも似たフリルのある、インディゴブルーの折り畳み傘。買ったばかりの時に晴れ空の下で開いたそれがあまりに愛らしく、気恥ずかしくて、鞄に仕舞ったのはいいが以来一度も開けずにいる。誰にも見せたことはなく、どんなに親しい友人にさえ願いを話したことはない。気を許した人とて口を滑らせないとは限らない。その些細な出来事が起こる時には、きっと自分の全てを台無しにするという予感があって、だから誰にも見せず、語ることもしなかった。


 それを、彼女は知っているという。


 傘を差さないことには理由がある。


 この学校、この閉ざされた世界では、人に傘を差し掛ける行為には大きな意味があるからだ。それはまどろっこしい感情表現の一つであり、ここでは伝統的な作法でもある。


 彼女が一体次には何を言い出すのかと思って、内心びくびくしながら眺めていると、彼女は傘立てから真っ赤な傘を引き抜いて、藍の隣に並んだ。そして、傘を開いて藍の方へ傾けたのである。


「濡れるわ」


 彼女はそう言った。


 その笑みのどこか誘うような、そして仕草の淀みのない様が、ひどく熟れた様子に見えた。その傘に、藍がきっと入るはずだとでも思っているのか、自信に満ちた目をしている。


 傘を差し掛けることには意味が伴うから、たとえ同性でもやたらと相傘なんてしないものだ。彼女がわざわざその話を持ち出したからには、この傘は親切で差し掛けられているわけではない。


 藍は、図書館ですれ違う彼女を、清楚可憐な模範的優良生徒という枠に填めて見ていたのだと思う。そんなレッテルから、いとも簡単に逸脱してしまった彼女に、うっすらと嫉妬を覚えた。


 まるで彼女は何でも知っているというような顔をして、己で決めた枠の中に閉じこもっている藍を嘲っているような気がしてならなかった。


 さあ、入って、と言わんばかりに、彼女はまた僅かに藍の方へ傘を傾けた。


「きみは、誰彼構わずそうやって差し掛けているのか」


 赤い傘が揺れた。傘を傾ける彼女の手が止まったのだ。


 冷たい言葉を吐いてしまったことを、後悔した。


 彼女の顔を見ると、彼女は何も言わずにやはり微笑んでいた。自分が吐いた侮蔑をさえ包むような、余裕に満ちた笑みだった。彼女の笑みは何も変わらない。ただその傘が、動きを止めただけ。


 藍は、雨の中へ躍り出た。


 鞄を抱え、校門へ至る広い正面通路を、飛沫を上げて駆けていく。強く地面を蹴れば蹴るほど、足回りが水に濡れていく。


 鞄の中の傘は差せない。


 機会が一度もなかったわけではない。機会はあったが、逃してしまったのだ。どうしても傘を差し掛ける勇気を持てず、それ以前に鞄から傘を出すことすら出来なかった。


 誰かが決めた藍という枠を出て、非難を受けるのが恐ろしいのだ。そして、自分の傘の存在意義を相手に嗤われるのが恐ろしくてたまらない。


 思いっきり駆け抜けて、校門を出る寸前にちらりと見やったエントランスで、彼女が鮮やかな赤い傘を閉じるのが見えた。

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