「夜行バス」で

 人の世の常として、この度、わたくしも長旅をすることとなりました。旅と申しましても、目的地まではバスが運んでくれるため、わたくしは乗っているだけなのです。


 全ての乗客を乗せて街を出立いたしますと、あとはただひたすらに闇の中を進んでいくのです。土手道のような、闇の中に道だけがあるような景色の中をずっと走るのですけれども、はじめはそれを眺めていた乗客たちも、やがて飽きて眠りにつきました。乗務員が通路に座席を仕切るカーテンを引きまして、それから間もなく、わたくしも眠りについたのでした。


 その折、夢を見ました。


 幾度も幾度も繰り返し見た、懐かしき日々の夢でございます。まだ幼い少女であった頃のわたくしが、名すら知らぬ彼と過ごした日々の夢でございます。


 長く生きてもやはり、とりわけ楽しかった時間でありました。そして、大きな心残りでもありました。




* *




 わたくしが彼と初めて会ったのは、まだわたくしが十の頃でありました。


 当時、同じ年頃の子供と神社の敷地で鬼ごっこをして遊んだものでしたが、わたくしは走るのも隠れるのも苦手で、いつも早くに捕まっておりました。捕まったものは、境内で他の子が戻ってくるのを待つのですが、他の子はなかなか戻らず、時折遠くから聞こえる声を聞きながら、寂しさを募らせたものでした。


 そうしていると、静かな中に境内に本を捲る音が聞こえてくるのです。


 境内の隅に古びたベンチがあり、そこで詰め襟姿の学生が本を読んでおりました。風に凪ぐ気の音よりも、ずっと、頁が捲られる音の方がわたくしの好奇心を駆り立てました。


 けれど、わたくしはその頃から恥ずかしがり屋な性分でしたから、見つめているのを気取られるのがいやで、まるで彼に気づいていないような顔をして過ごしたものです。


 何度かそういうことが続きました。


 ある時、わたくしがやはり一番に捕まってしまい、境内に戻って参りますと、思いがけず彼の傍を通る格好になってしまいました。なんという本を読んでいるのか気にかかって目を向けた時、同時にこちらにむけて顔を上げた彼と目が合ったのです。彼はわたくしに微笑みかけました。


「いつもあなたが一番に来るのですね」


 声を掛けられたことにひどく動揺したわたくしは、ろくに返事をせずに駆け出しました。お社の前の端に、身を縮めるようにして座っておりました。


「気を悪くしたのなら、謝ります」


 彼はそう言って、また本に目を落としました。何事もなかったように、規則的に頁を捲る音が聞こえました。


 いつの間に目にしたのか、彼が手にしておりました本の『    』という題が頭から離れなかったのを、今でもよく覚えております。なんといっても、それこそが、わたくしが初めて自分の小遣いで買った本になったのですから。


 わたくしは、それから後も鬼ごっこはいつだって一番に捕まってしまいましたけれども、本を読むようになってからは、一人で待つ苦痛というものがなくなりました。


 いつしか、わたくしと彼とは、本を通じて交流をするようになりました。彼は実にたくさんの本を読み、わたくしに薦めてくれたものでした。当時の私には難解なものもございましたけれども、あの時分の体験こそが、後々のわたくしの礎となったのだと、今以て深く思うのでございます。


 やがて、わたくしどもの年代はすっかり鬼ごっこなどやらなくなってしまったのですけれども、わたくしは、天気の良い日には学校を上がると必ず神社へ通いました。わたくしと彼との交流は続きました。


 彼と語らうようになってから、およそ四年を数えました。幼い子供であったわたくしは、彼と並んで本を読むのをどこか意識する年頃になりました。


 一つ、不思議だったことがあるのです。


 彼は、わたくしが初めて見た時から、姿が少しも変わりませんでした。十歳のわたくしには大人びて見えた彼が、十四歳の私にとっては同年代の男の子でした。けれど、わたくしたちは、四年を経ても互いが何処の誰で、歳は幾つで、何処の学校に通っているのかを知りませんでした。聞くことも、話すことも、ありませんでした。


 わたくしたちにとって、余計なことだったのでしょう。わたくしは、彼の不思議に気づいてこそいたけれど、問題にはしていませんでした。


 わたくしと彼の幸福な交流が絶えたのは、もっと些細なことに因るのです。ある日、当時の学友に、神社で彼と語らっている姿を見られ、あたかもそういう関係であるように囃し立てられたことがあったのです。それがどうしようもなく恥ずかしく、苦しく、わたくしと同じく不快な思いをしたであろう彼に掛ける言葉もないままに逃げ出したことがございました。しばらく、学友たちはその噂をしたがりました。時にはまるで、はしたない女のように言われ、わたくしは神社の近くを通ることさえやめてしまったのです。


 ほとぼりが冷めた頃、ようやく神社に足を運びました。わたくしは女学校を卒業するまで、晴れた日のほとんどを以前と同じようにそこで本を読んで過ごしていたと思います。


 けれども、彼とはあれきりでした。




 以来、夢を見るようになりました。


 彼と本について語らう夢でございます。


 夢の中でわたくしは思うように喋ることが出来ませんでした。そして、喋っているはずの彼の声をうまく聞き取ることが出来ませんでした。


 喋っているということは分かるのです。彼は目を輝かせ、しきりに口を動かして、きっとわたくしに聞かせたい話をたくさんしてくれているのだろうということは分かるのです。けれども、一体何について話しているのか、まったく分かりませんでした。彼が大事そうに持っている本に目を向けても、その表紙に何が書いてあるのかも分からないのです。


 何十、何百と、同じような夢を繰り返し見ました。わたくしは、夢とはそういうものなのだと諦めながら、相づちを打つばかりでございました。


 ところが、今日は違っておりました。


「おじょうさん、この本はもう読まれましたか?」


 そう言ってわたくしに見せてくださったのは、『    』、わたくしと彼とが初めて言葉を交わした時に目にした本でした。忘れるはずもありません。


「ええ、もちろんです」


 わたくしは、そのようにお返事をいたしました。




* *




 バスのドアが開閉する音を聞きました。


 このバスは目的地までとまらないと聞かされていたものですから、不思議に思って身を起こしました。窓の外へ目を向けてみましたが、目的地へ到着したという様子でもありません。


 窓の外に広がっているのは、のっぺりとした闇そのものでした。


 通路に引かれたカーテンのせいで、前方の様子はちっとも分かりません。耳を澄ましておりますと、足音が車内に踏み入って参ります。


 一度走り出したが最後、このバスに乗客が乗り込んでくることはないのです。わたくしたちが、このバスを降りることが出来ないのと同様に。


 音は、寝ている乗客を起こさないようにゆっくりとした足取りで、バスの中を奥までやってきますと、やがてわたくしの座席の傍で止まりました。カーテンには人型のシルエットが映り、その誰かは、わたくしの座席の横にかけられたカーテンにそっと触れて、ほとんど吐息のような声で囁いたのです。


「おじょうさん」


 身の震えるような心地がいたしました。


 わたくしもまた、カーテンに映った手にそっと己の手を伸ばしまして、けれども触れるすんでの所で、手を膝元へ戻しました。


 声はまたも、言いました。


「おじょうさん」


 今度は少し、しっかりとした声でした。


「旅立たれると聞きました。長い間、お会いできませんでしたが、あれきりになってしまったのがひどく心残りなのです」


 わたくしも、同じ思いでした。けれども、返事をすることも憚られ、どうしようかと思い悩みました。


「ぼくは、あなたと過ごしたあの夢のような日々を、今も大切に思っています。ただそれだけを、言おう言おうと思いながら言えずにいたのです」


 ええ、わたくしも。


「もう降りなければ。あなたの旅先での暮らしが、どうか平穏なものであるよう、ぼくも願っています」


 彼は踵を返して、足音を抑えるようにして歩き出しました。


 わたくしも。わたくしも。


 何度もそう言いたくて、言葉は喉元まで出かかるのに、どうしても気恥ずかしくて言えずにおりました。わたくしは、かつてのわたくしと何もかもが違いました。今のわたくしの一片でも彼に知られてしまうのが、ひどく堪え難いように思えました。


 けれども、わざわざ見送りに来てくれた彼に返事一つしなかったとなれば、わたくしはまた己を苛んで、新たな心残りとなるに違いありませんでした。


「わたくしも」


 やっとのことで振り絞った言葉に、ドアが閉まる音が重なりました。


 わたくしは、結局、わたくしの姿形のあまりに変わったことを恥じるばかりに、彼の誠実な心を裏切ってしまったのです。申し訳ない気持ちで胸がいっぱいでした。


 やがて、再びバスが動き始めました。


 今度こそ、終着点まで停まることはないのでしょう。


 悔やみながら窓から闇を眺めていると、バスの灯りで浮かび上がる人影がありました。道の端に立ってバスを見上げる、黒い詰め襟姿。何度も夢に見た彼の姿でした。


 わたくしは、思わず窓に縋り付きました。


 彼はわたくしに向かって優しげに微笑むと、手を振ってくれました。窓と彼の立ち位置が重なって、窓が彼を追い越しても、彼はこちらを見て手を振ってくれました。


 気がつくとわたくしもまた、この皺だらけの手で、彼の姿が見えなくなるまで、ひたすらに手を振り返しておりました。


 もう、思い残すことはございませんでした。


 よかったと、安堵いたしまして、ふと膝に目を落としますと、読み古して表紙の傷んだ、頁も相当に黄ばんでしまった一冊の本があったのでございます。

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