「朝焼け」「涙」「ふたりきり」で

 窓の外では次々と看板のネオンが消灯していった。


 駅にほど近いこのバーは、朝六時まで営業している。以前一度、終電を逃してこの店に足を踏み入れてからというもの、エミは毎週末をここで過ごしていた。今は始発を待つためにというより、少しだけ上等な夢を見たいがために。つまりは、普段飲まないような酒と、日常から隔絶された空気感に酔いしれて、現実逃避がしたいのだ。


 エミが何杯目かのラム酒のグラスに手を伸ばしたとき、それは横から掠われていった。グラスに伸ばしたエミの指は行き先を失って、宙で止まる。酔いが回ってすっかり鈍くなった意識でグラスの行方を探すと、隣で見慣れない女性がグラスに口を付けていた。


「それ、わたしの」


「あんた、飲み過ぎ」


 スタジャンを着た短髪の女性で、凜とした瞳がエミを見据える。女性は呆気なく空にしたグラスをカウンターに置くと、エミの顔を覗き込みながら、自身の瞳から顎にかけてを人差し指で撫でて「どうしたの?」言った。


 エミは同じように自分の瞳からのラインを撫でて、はじめてそこに涙の筋が付いていることを知った。




「落ち着いた? 大丈夫?」


 ひとしきり泣いて涙も乾いた。目から流した分、水を飲んで一息つくと、エミはようやく頷いた。


「ちょっと仕事で辛いことがあって、わたし、自分が泣いてると思わなかった」


「わたしで良ければ話聞くよ。わたしはミナコ。あんたは?」


「エミ」


「エミちゃんね。それで?」


 普段は初対面の人とあまり話すことがないのだが、ミナコの力強い印象と酔いも相まってか、不思議と彼女に話すことへの躊躇はなかった。


「今日、仕事でミスをして先輩と衝突しちゃって。わたしは新人だから先輩と組んで仕事をしているんだけど、元はと言えば先輩の伝達ミスから始まったのに、先輩ったら、さもわたしだけが悪いように言うもんだから、つい、わたしも」


「言い返した?」


「言い返したって程じゃないけど。やんわりと」


 やんわりと、言い返した。


「先輩、彼氏と別れたばっかりらしくて、全く仕事に身が入ってないわ、終始イライラしてるわで、下に付いてるの、しんどい」


「それはお酒進むわ」


「でしょ」


「でも、エミちゃん飲み過ぎだから、ちゃんとチェイサー挟みな、ね?」


「うん。そうする」


 エミは素直に水のグラスに手を伸ばす。大きな氷がごろごろと浮いた冷水は味わいも優しく、臓腑に染み渡るようだった。


 二人はそれから他愛もない話をして時間を過ごした。ミナコは聞き上手で、初対面とは思えないほど話が弾んだ。エミは段々と話しているのが楽しくなってきて、バーの静かな雰囲気に似つかわしくないほど大きな声で話したり笑ったりしていたが、三時を回る頃になると、それに苦い顔をするだろう他の客の姿がまずなかった。


 聞けばミナコは、月に一、二度、ここで飲んでいるという。何度かエミを見かけて、派手な飲み方をすると心配をしていたらしい。


 エミは普段は独り、時偶店主と言葉を交わしながら飲んでいたので、こんな風に同年代の女性とのお喋りを楽しみながら飲むという経験がなかった。この時間はエミにとっては刺激的で心地よかったが、そういった時間ほど早く過ぎ去るもので、いつの間にか時計の針は四時を指していた。


「もう四時だね」


 あと一時間ほどすると、のそのそと世間は動き始める。否応なしに夜が終わり、当然のごとく朝が始まる。エミの楽しい夢は終わり、始発で帰路につく。家に帰って朝食をとり、布団に潜って昼過ぎまで寝る。目が覚めた時に待っているのは気怠さだけだ。エミは時計の針が進むのを寂しい気持ちで眺めた。


「少し歩かない?」


 ミナコが言った。


「わたし、この街に来たら必ず行くところがあるの」


「うん。いいよ」


 会計を済ませて、店主には「また来週に」と別れを告げた。


 店外へ出ると、冷たい空気が頬を冷やす。冬がようやく終わり暖かな日が多くなったが、夜になるとやはり少し肌寒い。今晩は特に冷える。ニュースでは寒の戻りだと言っていたはずだ。


「何処へ行くの?」


 エミが尋ねると、ミナコは言った。


「空が一番綺麗に見える場所」




 街は、まだ静かだった。


 深夜まで営業している飲み屋が多い通りだが、そのほとんどの店はもう暖簾を下ろしていた。エミがバーに入った時間は賑やかな光や喧噪に溢れていたが、今や派手な色もなければとりわけ耳に付くような音も聞こえない。普段なら気にも留めないような細やかな風の音や、別の通りを走る車の走行音が耳に触れる。それさえまるで、街が立てる寝息のようだった。


 ネオンの輝きも消え失せ、見る者もない交差点の信号は赤色点滅を繰り返している。靄に赤色が反射して、どこか不気味にも見えた。


 ミナコはエミの手を引きながら、振り向き様に少し意地悪そうな顔をして笑った。


「知ってる? 朝靄の中には、お化けがいるの」


「それは夕方のことでしょ? 逢魔が時って言うんだっけ」


「夜が明けるまでがパーティータイムよ。夜に歩くなら、気をつけなくちゃ」


「お化けなんていないよ。それは夜がもっと暗かった時代の名残」


 きっと、外灯も何もなかった夜はひどく暗く、闇は恐ろしいものだったのだろう。だが、人はもう、夜を恐れてなんかいない。


 エミは、この外灯の明かりや信号機だけが寂しげに灯る光景が一番落ち着く。


 この街の夜は明るすぎるくらいだ。車のライト、飲み屋の灯り、看板灯、二十四時間営業のコンビニだって少し歩けば行き当たる。街がこんなに静かになるのは、ほんの限られた時間だけのことだ。やっと寝静まったかと思えば、すぐに朝が来る。


「夜は今でも暗いのよ。ネオンの光が全てを照らせるわけじゃない」


 こっち、と言ってミナコは、昼間でも人通り車通りの少ない路地へと足を進めた。外灯はあるが、信号はない。交差点ごとに止まれの標識が立てられた細い路地だった。このあたりには商社ビルが並んでおり、ミナコはその一つの裏手へと足を進めた。そこには金属製の非常階段が高さ四階の屋上まで続いていて、ミナコは指と視線で上を示した。


「これを上るの?」


「自信ない? 富士山登るより楽勝だよ」


「これくらい上れるもの。ただ、怒られやしないかと思って」


「平気。誰も見てないし」


 ジーンズにスニーカーという動きやすそうな格好のミナコは先に上り始めて、エミが上るのを振り返って待っている。エミも負けじと駆け上ると、静かな明け方の街にパンプスが金属のステップを打ち鳴らす音がえらくよく響いた。やっとの思いで屋上まで上りきった時には身体がじっとりと汗ばんでいて、身体を掠めた冷気に思わず身震いした。


 ミナコは既に東側の柵に寄りかかって空を眺めていた。エミが傍に歩み寄ると、ミナコは得意げに此方を見た。


「どう、綺麗でしょう?」


 見上げた空は真冬のそれによく似ている、と何とはなしに思う。雲のない済んだ星空には、どこか見覚えのある配列で星が並んでいた。屋上から見上げた空は、今まで見てきたより、ずっと広いものに見えた。この街には背の高いビルは少ない。四階まで上れば、見上げた空を遮るものはなかった。電線も二人より低い位置にある。


 夜の闇色はほんの僅かに白んでいて、東の果ては微かな金色をしていた。太陽はまだ見えないが、その向こうにある大きな輝きが夜の闇を払っていく。濃紺の空は紫へ、青へ、そして透き通った空色へと色合いを変えながら空を染めていた。夕焼けとも似ていて、どこか違う色をしている。


 ミナコは東の空を差して「あの星を知ってる?」と言った。ミナコが指さす星は、朝と夜のグラデーションの中にあってなお、強い輝きを放っていた。


「あれは金星」


 風の音が止んだ。ミナコは静かな声で続ける。


「ミカボシ。――あの星からもらった、わたしの本当の名前」


「ミナコだって言ったじゃん」


 エミが言うと、ミナコは誇らしげに笑った。


「ミナコは金星のヒーローの名前なの。わたしがあの星を好きになった理由。強いし、かっこいいし、かわいい」


「何それ」


「アニメ」


 ミナコは憧憬の眼差しで遠くあの星を見ていた。


 二人で並んで柵に寄りかかりながら、刻一刻と染まりゆく空を眺めた。


「ねえ、また一緒にお酒飲もうよ」


 エミは言いながらミナコの方に顔を向けたが、そこにミナコはもういなかった。寸前まで間違いなくそこには人がいる気配があったのに、ミナコがいたはずの場所にはミネラルウォーターが置いてあるばかり。彼女を探して屋上中に視線を向けても、何処にも彼女の姿はなかった。


 柵を背にした背後から「いいよ、またね」とミナコの声だけが確かに聞こえた。振り返った東の空は、さっきよりずっと燃えるような色合いをしていて、金星は朝焼けの輝きの中にのまれていた。

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