最終話「もどかしい世界の上で」

 時間はまだ昼前だ。彼女の書いた「六時」は、おそらく夜の時間だろう。それまでに彼女の身柄を保護しなければならない。そうしないと取り返しのつかないことが起きそうで、裕一はとにかく不安に駆られていた。


 二人で一緒に回った駅ナカのショッピングエリアを走り回る。

 今、チェリーはどこで時間を潰しているのか。彼女が好きそうなスイーツの店も覗いてみた。しかしそこにいるのは家族連れやカップルばかりで、一人きりの女の子の姿は見当たらない。

 リュックが普段よりもずしりと重く感じる。走っているうちに耐えきれなくなって、必要ないものを全てロッカーに預けることにした。


 しかし、身体は軽くなっても心は重いままだ。道行く人の顔を見逃さず、彼女を探すことだけに集中する。

 じっくりと顔を見られた通行人が、訝しげな顔で見返してくる。それでもいい。今は不審な男と思われても、チェリーさえ見つかってくれれば、全て笑い話になるはずだ。


 やがて日が傾き、夕方がやってきた。北海道は福岡よりも日の入りが早い。すぐに外はうす暗くなる。それがますます焦りを生み、探せるところはとことん探し尽くした裕一は、とうとう駅構内のコンコースの端っこでしゃがみこんでしまった。

 もうすぐ六時になる。時間になってしまったら、彼女は一体どうなってしまうのだろうか。想像もしたくない。一緒に旅をしていた時の、あの嬉しそうな笑顔をもう一度見たい。裕一は気力を振り絞って立ち上がる。


 チェリーは置き手紙に「チョビヒゲつんつるてん」と男の特徴を分かりやすく書いてくれていた。裕一は脳内で勝手にその男の姿を想像してみる。

 スキンヘッドにヒゲ……体格はがっしりしていそうだ。力では到底及ばないかもしれない。直接会うのは絶対に避けたかった。これまで以上に視界に入る人々を注意深く観察する。

 しかし、周りに注意を向けすぎて、前から来た人と肩がぶつかってしまった。裕一はとっさに「すみません」と謝る。

「ってーな、気をつけろよ」

 その男は威圧感のある声色で一喝し、そのまま過ぎ去っていく。


 見過ごしそうになったその人物を、裕一は二度見して振り返った。

 後ろからでも分かる、光沢を携えた立派な頭。想像よりも少し細かったが、後をつけてさりげなく追い越し、ちらりと顔を盗み見た。

 はっきりと、口元にヒゲがあった。間違いない、と裕一は心中で叫ぶ。こいつがチェリーの全てを奪おうとしている元凶だ。この男が向かっている先に、チェリーがいるはず。

 裕一は早足でその男から距離を取り、行く先に目を向けてもっと注意深く観察する。


 彼女は唐突に裕一の目の前に現れた。気をつけていなければ、絶対に見過ごしていただろう。チェリーは昨日と同じ服で、周囲の人を避けるように通路の壁へと身体を預けていた。思わず声をあげそうになる。迷っている暇はなかった。


「チェリー」


 声をかけると、彼女はびくっと肩を震わせてこちらを見た。ぽかんとした表情が、徐々に驚きの色に変わっていく様が、妙におかしい。


「お、お兄さん! な、なんでここに」

「君を追ってきたんだよ。とにかく、ここは危ない。離れよう」

 腕を少し強く握って引っ張る。しかし、チェリーはなぜかためらいを見せていた。

「えっと、その、これには複雑な事情が」

「それは後で聞く。さ、早くこっちに」


 しかし裕一の言葉に逆らうように、チェリーは足を地に踏ん張り、頑なに動こうとしない。早くしないと奴が来る。運動部経験ゼロのインドア派である裕一が、あの体格の男相手に勝てるわけがない。こうなったら抱きかかえてでも連れて行こうか。

 そう考え始めた、その時。


「おい、なんだあんたは」


 しまった、と後悔しても遅い。裕一は恐る恐る声の主へ顔を向ける。そこにはスキンヘッドのヒゲが仁王立ちしており、殺人的な鋭い眼光を裕一に飛ばしていた。

 負けてはいけない。せめて言葉だけでもと、裕一は震える口を開く。


「あ、あの。僕は彼女の、その、友人でして」

「友人? お前がか」

 友人という言葉を聞いたスキンヘッドは、怪しい青年をじろりと睨めつける。このような風貌の男に裕一は凄まれた経験はなく、脚は勝手に痙攣し、頭の中もぐちゃぐちゃで、もう次の言い分は打ち止め状態になっていた。


「おい、チェリー。こいつがお友達っつーのは、本当か」

 北の大地ごと震わせようかという低い声で、男はチェリーに問う。小さな身体がさらに縮こまって、黙りこくる。それが裕一に助けを求めているように見えて、もうここで動くしかないと思った。


「行こう!」


 臆病な脚に鞭打って、彼女の腕を強く引っ張る。

 もう二度と離さないという気持ちで、全力で駆けていく。後ろから怒号が聞こえようが、チェリーが何かを訴えていようが、今は二人して安全なところに行くだけ。それしか考えないようにする。

 旅に出ようと決意したあの日と同じ、一世一代の大勝負に出るつもりで、何も考えずにひたすら走る。


「待って、待ってってば!」

 どこをどう逃げたか分からないほど走り、チェリーの声でブレーキをかけられる。そこは駅から少し離れた通りだった。道路脇に避けられた雪が凍って固まり、少し黒ずんでいる。


 お互い、乱れた呼吸が整うのをしばし待った。向かい合ってゼイゼイ言っている二人の男女を、通行人はさぞ不信感を持って流し見ただろう。

「どうして、来たの」

 先に言葉を発したのはチェリーだった。裕一は間髪入れずに返答する。

「君が、チェリーが、心配だったからだよ」

 つい語気が強くなる。それが予想外だったのか、チェリーは口を半開きにして目を丸くした。そして何かの栓がゆっくりと外れていくかのように、目に涙を浮かべていく。口の中で白い歯がわなわなと震え、壊れた楽器のような嗚咽が漏れる。


 しばらくすると少女は、何の前触れもなく裕一に抱きつき、その胸の中で大きな声をあげて泣き出した。

 よほど怖かったのだろう。胸に溜まったどす黒いもの全てを吐き出すかのように、チェリーは泣いて、泣いて、泣きはらした。

 通行人の視線などどうでもいい。彼女の気が済むまで、思い切り泣かせてあげよう。

 今はただ、それだけでいい。



 駅にはまだスキンヘッドがいるかもしれないので、近くの居酒屋に入ってやり過ごすことにする。店内は騒がしいが、このくらいの方が逆に安心できるような気がした。

「つまり、あのお金は、そういうことをして稼いでいたってわけだね」

「うん」


 うつむきがちにチェリーは答えた。裕一の前には生ビール、チェリーの前にはオレンジジュースが置かれている。それを少しずつ飲みながら、彼女は詳細を紐解いていく。

「初めて会った時、処女だからチェリーは変だ、みたいなこと話したじゃん。あれもね、そういうことやってたワケだから、処女の部分は嘘になるね。でも、福岡でお兄さんにお世話になったのは、本当だから」

 横に座っていたチェリーが身を突き出して強調する。彼女は小学生の頃に、裕一からたくさんの遊びを教わったことを鮮明に覚えていると、興奮気味に話した。さくらちゃんと呼んでもらって嬉しかったこと、嫌いだったトマトをこっそりもらってくれたこと、裕一が大学を卒業するためボランティアをやめると知った時、喉の奥が枯れるまで泣きわめいたこと……。

 裕一が覚えていないことまで、チェリーは思い出として大事にしまっていたのだ。


「首の痕、見たんでしょ」

 急に聞かれたので、飲んでいたビールを吹き出しそうになる。それを見て、チェリーはくすくすと笑った。

「お察しの通り、これはあのハゲにやられたの。ちょっと抵抗したら、罰だとか言って。これ、もう一生治らないのかな」


 まつ毛を少し伏せ、悲しげな目をしながら首の後ろを指でなぞる。その顔はいつもの強気な彼女ではなく、つつけば脆くも崩れてしまうような心の持ち主が見せるものだった。このまま崩れていくのを見送ってしまうほど、裕一は腐っていないと自身に言い聞かせる。


「そんなことないよ。治そう。二人で」


 今度はチェリーがオレンジジュースを吹き出しそうになった。数パーセントの果汁を口からひとすじ垂らしながら、口元を緩めて「へ?」と間抜けな声を出す。

「それ、どういうこと?」

「たぶん、それくらいの痕なら、消せる……と思う。確証はないけど、お金があれば」

「お金ならまだあるけど」

 分厚い財布をちらりと見せる彼女に、裕一は首を強く横に振る。

「ダメだよ。それはあのツルツルおやじからもらった、汚いお金でしょ? チェリーの身体だから、ちゃんとしたお金で治そう」

「ちゃんとしたお金って、どこにあるの」

 苦笑して訊き返すチェリーに、裕一はなるべく変だと思われない程度の笑顔を心がけ、決心するように、はっきりと一言一句を躓かずに紡いだ。


「青森に住んで、そこで働く。アルバイトでもなんでも。まずはチェリーに綺麗な身体をプレゼントだ」

 裕一は真面目に言ったつもりだが、当のチェリーは一度小さく吹き出すと、そのまま壊れたおもちゃのようにガタガタと震えて大笑いした。いきなり笑われてしまい、裕一の心は悲しいやら虚しいやら、暗い色の絵の具を混ぜたかのように沈む。


 ひとしきり笑った後、チェリーは裕一の肩にしなだれかかって上目遣いにこう言い返した。

「私の前に、まずその変な笑顔と妙にぎこちない喋り方、治そうよ」

 そのまま肩をなぞるように頭を滑らせ、耳元まで吐息がかかる位置に口を寄せる。


「……ゆう兄ちゃん」


 生温かい囁きに驚いて顔を引き剥がすと、裕一は目を丸くした。

 そこには夢の中で見た、あの妖精がいた。眩しいほどに光を振りまいて笑っている。思わず何度も目をこすったが、間違いはない。


 そして気がつく。あの妖精は、幼い頃のチェリーだ。

 ぼやっとしていた記憶が、また呼び起こされる。一緒に運動場を駆け回った、あの少女との記憶。昔と変わらない、無邪気な笑みをくれている。

 ふと、頬に何かが流れた。チェリーに指摘されるまで、裕一は自分が泣いていることに気づかなかった。


 今まで見えていなかったものが、霧を晴らして初めて目の前に現れた気がした。


「どうしたの? ゆう兄ちゃん」

「いや、なんでも……」

「ふふ、ヘンなのー」


 最初に頼んだビールの泡は、もう既にほとんどがなくなっていた。

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北国のチェリーガール よこどり40マン @yokodori40man

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