2 川辺のヌシ

淀川を歩き始めて六ヶ月が経った。

私たちは雨の日以外は、殆どかかさず、淀川を歩いた。顔見知りも段々増えてきた。


たくましい黒い犬を引き連れ、日焼け止めに、顔を忍者のように赤い頭巾で覆い、しゃきしゃきと歩いてくる浜田夫人。

いつも仲良く、おしゃべりしながら、マイペースで歩く老夫妻の大場さん。

中年男の石原さんは、大阪弁丸出しだ。タオルを首に巻き、川の眺めを楽しみながら、ゆっくりとジョギングしてくる。


この人たちとは、大体、同じ時刻、同じ場所で行き会う。

会うと立ち止まり、一言、二言、他愛ない会話を交わす。


今日も石原さんに会った。生憎、妻は今日は風邪をひき、私一人だった。


「今日は奥さんはどうしなはった?」


「今日はちょっと風邪気味でお休みですわ。でも、たいしたことないんで、また、明日は出てこれると思います」


「そんならよろしいけど、奥さんは大事にしなはれや」


 暫く会話が弾む。石原さんが言った。


「私の家は直ぐ近くでね、小さな工場をやってまんねん。いっぺん、遊びにきてくんなはれ。待ってますさかい」


「ありがとう」と、応えた私の心にほのぼのとした温もりが広がっていった。


*  *


 私と妻は毎朝、夜明けを待ちかね、淀川に向かった。

 そして、淀川に冬がやってきた。


 ススキの穂が美しく銀色にたなびき、カモの群れが寒々とした川面を泳ぐ葦の茂みからは野焼きの匂いが漂ってくる。

 十二月の初旬の朝、私たちは昭和五十年以来、淀川の水辺に来て、川を見続けているという北村さんに出会った。


 北村さんは、七十歳前半位か。笑うと日焼けした額が、くしゃくしゃにしわむ。痩せてしゃがれ声でもある。

 毎朝、夜が明けると、北村さんは、川がよく見える川端に魚釣り用の椅子を持ち込み、どっかりと座る。それからの一時間半が北村さんの時間である。


 北村さんの日課は、雨が降っても、風が吹いても変わらない。冬は紺色の頭巾を頭からすっぽり被り、懐に懐炉カイロを入れて座る。

 北村さんは自転車の籠にいつも犬の餌を入れて来る。水辺に着くと、川辺の藪に向かって、


「ごん」と呼ぶ。


 ガサガサと音をたて、茶色の野犬が一匹、勢いよく飛び出して来た。

『ごん』は、北村さんが三年前から、毎朝、餌をやっている野犬である。この秋、二匹の子を生んだ。三匹の犬の世話で北村さんは忙しそうである。


 北村さんの周りには、いつも人の輪が絶えない。

 みんなが立ち止まり、淀川のヌシ、北村さんの話を聞いて行く。北村さんは嘆く。


「淀川も変わりましたで。昔はな、カワセミ、キジ、フクロウなど、ずいぶん、色んな小動物がいよった。でも今は、川の流れも堰き止められ、地道もみんな、コンクリートに変わってしもうた」


 とつとつと語りながら、北村さんは立ち上がり、草笛を口に含み、ピーと鳴らす。すると、どこからともなく小鳥が寄って来る。


 この北村さんから私は珍しい言葉を聞いた。

 

 『かぎろひ』という言葉である。





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