かぎろひ

宗像弘之

1 淀川を歩く

 けたたましく車が疾走する国道一号線を渡り、堤防に上がると、街の喧騒が嘘のように野鳥が群れ飛び、緑が連なる静かな淀川が一望に広がる。

 定年を迎えた私は、妻と近所の淀川を歩き始めた。

 行程は一時間半、約六キロである。

 私が住むM市S町は、大阪の東北部にあるベッドタウンである。町の北端を東から西へ淀川が流れている。

 私の家から淀川までは、歩いて約二十分の距離にある。


 会社を退職し、半月ほど経った四月の中旬、妻が弾んだ声で私に話しかけた。


「お父さん、明日から毎朝、淀川を歩いてみいへん? うち、いっぺん、淀川を歩いてみたいと思うてたんよ。気もまぎれるし、健康にもいいと思うけど」


 私はすぐに妻のアイディアに乗った。

 

「面白そうやな。歩いてみよか。でも、うまいこと続くかな」


 定年の日に危惧した通り、何もすることがないリタイア後の生活に、私は戸惑い、焦点を失くしかけていた。妻も終日べったりと家にいる私との暮らしに、苛立ち疲れているように見えた。

 妻との付き合い方にも困惑し始めていた私との暮らしに、妻の提案は渡りに舟だった。

 妻は早速、遠足に出かける小学生のようにそわそわとトレーニングウェア、シューズ、万歩計などを用意し始めた。


 翌朝、私たちは午前五時に起床、淀川に向かった。

 空は快晴、空気は爽やかである。

 河川敷にはレンゲ、カキツバタ、カスミソウなど、季節の花が点々と咲き、緑一色の原っぱに彩りを添えている。


 堤防の上、河川敷には、もう朝の散歩を楽しむ人々が姿を見せ、私と妻は手を上下に大きく振りながら元気よく歩いてゆく。

 淀川は白く光りさざなみが幾筋にも縞模様を描き、ゆったりと流れている。

 川下から、大学生のボートクルーが掛け声をあげながら、スイスイと上がってくる。


 堤防の上に太陽が顔をのぞかせた。黄金のまばゆい光を撒き散らし、燃え立つ日輪は、荘厳である。

 妻と私は、暫く立ち止まり曙光を仰いだ。


「まあ、綺麗」


 妻が娘のように歓声をあげた。


 水辺は、ヒバリ、スズメ、カラスのさえずりの交響曲。

 走る人、歩く人、犬の散歩。大声で詩吟を練習する人。

 淀川周辺の人々の活力は、日の光と共にあふれ出す。


 ここで私はこれまでの会社勤めにはなかった体験をした。

 行き交う見知らぬ人たちが、私たちに向かって、にこりと微笑みながら、


「おはようございます」と、

 挨拶してくれるのだ。驚きとともに嬉しくなった。会社勤めの関係では、決してなかった光景だ。

「お早うございます」と、

 私は慌てて挨拶を返し、妻を見た。妻も嬉しそうに顔を赤らめ、

「お父さん、明日もまた来ましょうね」と、楽しそうに私に囁いた。


 私の暗くなりがちな心がこの時ばかりは弾んでいた。


(みんな、いい人なんだな。私たちも仲間なんだな)


 そう思うと、生きる喜びが沸いてくる。よし、明日も歩くぞ。







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