さよならがいえない
本間 海鳴
さよならがいえない
同窓会の招待LINEが来たのは、私が二十歳になったその日のことだった。まるで私が二十歳になるのを待っていたかのように、それはやって来た。
九月十二日。私は二十歳になった。私はその日を一人で迎えた。雨の降る、肌寒い日だった。
馬鹿みたいに派手な赤いコートで街を歩いた。派手なコートと高いヒールのせいで、すれ違う人がみんな振り向いた。私はその足でコーヒーショップに行って、今日出たばかりの新作を注文した。爽やかな男性店員が、私にコーヒーを手渡してくれた。手渡す時に指先が触れた。コーヒーを受け取って帰る時、男性店員の頬がほのかに赤く染まっているのを見た。
男性は素直だ。コンシーラーを叩き込んだ顔じゃないから、頬が赤いのがすぐ分かる。カラコンをしていないから、動揺して瞳が震えるのもすぐに分かる。ネイルをしていないから、指先が戸惑っているのもすぐに分かる。胸が無いから、心臓の鼓動が激しいのもすぐ分かる。
コーヒーを飲みながら仕事場に戻る途中で、LINEが来た。それを読みながら、そっと私は顔を撫でた。
私の顔が整形で出来ているなんて、誰も思っていないようだった。高校を卒業してすぐ、私は自分の顔を捨てた。目を大きくして、鼻を高くし、顎を削って、歯を矯正した。唇を厚くして、脂肪を吸引し、おでこを少し出した。とにかく美人になりたかった。どんな人も虜に出来るような、全ての人が振り向くような、そんな美人になりたかった。顔を変えれば変えるほど、周辺に男性が増え始めた。仕事場でも取引先でも、買い物に行った店や街中でも、どこでも男の人が声をかけてきた。男の人が近付いてくるようになったのを見て、私は整形をやめた。私は、誰から見ても『美人』になったのだ。
「どうしてそんなこと言うの?」
向かいに座った男の人が、困ったようにそう言った。
「どうして、って」
戸惑った。こんなのに、理由なんていらない。今世間で流行ってる曲が、そう言っていたはずだ。
「そんなこと言うもんじゃないよ」
向かいの男の人はそう言って、私とその人が挟んでいる机に目を落とした。
「ほんとは頭良いんだから、分かるでしょ」
男の人の持ったペンが、机の上の紙を二回叩く。
「分かりません」
私は言う。
「嘘ばっかり」
男の人は笑う。
「分かりません」
もう一度そう言ったら、声が震えていた。分かりません。何もかもが。
「お願いだから、やめてよ」
男の人が困った声で言う。私の震えた声に気付いたからだろう。
「だから教えてくださいよ」
真っ赤な目で睨みつけたら、男の人の目がこちらを見た。心が揺らがないように、必死に睨み返す。
「……先生」
セーラー服は嫌いだ。いい思い出が無い。同窓会の会場に向かう電車で、吊革に掴まる中学生を見て思った。
中学一年生の時、国語の先生に恋をした。チョークを持つ手が綺麗だったから。声がよく通ったから。伏せた目の睫毛が長かったから。私の隣を歩いてくれたから。
入学早々、変な噂を流された。私が変な人とつるんでるとか、おかしなことをやってお金を稼いでるとか。私が持っていた高級ブランドのマフラーは月に一度会う実の父親から貰ったものだったし、校門前で待っていたのは少し見た目の派手な母の弟だった。物事の一部しか見ていない可哀想な人たちとは対照的に、先生は私と目を合わせてくれた。授業に関する質問をすると、君は鋭いところを見るね、と褒めてくれた。だから好きになった。理由なんて、そんなもんだ。
同窓会の会場は浮き足立っていた。魂胆が見え見えな同級生の間を縫って歩いた。この日のためだけに買った派手なパーティドレス。くびれがなるべく際立つ物。それと、高いヒール。会場の床によく響いた。視線が痛い。こそこそと聞こえてくるのは、やはり憶測に塗れた噂話だ。
飲み物を貰った時、後ろから声をかけられた。
「よぉ」
振り向いたら、全然知らない人がいた。
「俺の事分かる?」
答える代わりに、今貰ったジンジャーエールに口をつけた。残念ながら、彼のことは勿論、この場にいる殆どの人の名前を私は知らなかった。
「まあ分かんねえよな」
意外にも、話しかけてきた彼は満足そうにそう言った。
「お前、野口だろ? 元二組の」
「そうだけど」
「やっぱりな。面影あるじゃん」
私はもう一度ジンジャーエールを飲んだ。今度は少し乱暴に飲んだ。
正直心外だった。面影なんて無くしたつもりだ。私はあの頃の私とは違う。あんなお子様で世間知らずな餓鬼ではないのだ。目の前にいる男をちらりと見る。へらへらとするこの表情が、人の表情の中でも一番嫌いだ。
「ちなみに俺は、田口よ、田口」
得意気にそう言った彼は、自分を指さして笑った。真っ白い歯。その歯に心当たりがあった。
「あぁ」
私がそう答えたのは、彼のことを思い出したからではなかった。不自然な歯の白さ。多分セラミックだ。整形したんだ。そういう意味だった。だけど彼には伝わらなかった。
「俺さ、すげえ変わったと思わね? 野口もだけど」
そう言って男はペラペラと、聞いてもいないことを話し始めた。パッとしない学生生活におさらばしたくて、女の子を両手に抱えてみたくて、鼻を弄ったと。いい笑顔ではあったが、やはり人工物だ、と思った。そんな小さい事で、そんな小さい覚悟で、小さい顔の変化を自慢する目の前の男がウザくてしょうがなかった。そんなことは今の私にとってどうでもよかった。そんな顔で、私と分かり合えると思われたのが正直心外だった。
ペラペラと、全開にした蛇口から出る水のように話す男に飽きて、私は目を会場内に泳がせる。誰か助けてくんないかな。まあ助けてくんないよな。小さいグラスに入ったジンジャーエールはどんどん減る。男の口は閉じる兆しを見せない。何度か質問されている気はしたが、曖昧な笑みだけで返した。そうしていたら飽きてくれると思ったのに、一切男は引かない。いい加減にして欲しい、と苛立ち始めた時、私の背後に気配を感じた。
「田口、ちょっと彼女借りてもいいかい」
どくん、と大きな音が脳を突き抜けて行った。勢い良く振り向く。
「久しぶりに話してみたくてね」
困ったような笑い方と、紺色のスーツ。
「うわー、進藤先生じゃん! 相変わらずかっちりしてんね!」
男ははしゃいだように言う。
「スーツしか着るものないんだよ」
少し頭をかいた先生の髪は、白髪が混じっていた。それ以外は、何も変わっていない。綺麗な指も、目尻の笑い皺も、真っ直ぐな足も、少し猫背気味な背中も。
「久しぶりだね」
先生はそう言うと、さりげなく会場の隅に目をやった。あそこで話そう、ということらしい。
まだ話し足りなさそうな男を置いて、私と先生は会場の隅の誰もいないスペースに足を運んだ。途中、私はまたジンジャーエールを手に取り、先生は水を手に取った。
「随分変わったね」
歩きながら、先生はそう言った。
「そうですね」
私は答えた。
「大人の女性って感じになった」
微笑む先生に沸き立つ心臓を抑え込む。昨日鏡の前で練習した笑顔で答える。
「先生は変わりませんね」
それは本心だった。あの頃と同じスーツが入るのは、自己管理が厳しい証拠だ。すっと伸びた足と、無駄な脂肪のついていなさそうな腰。こんなにスッキリした大人を、私はあまり見たことがない。
「ありがとう」
先生は微笑んだ。そうして、床に目を落とし、ゆっくり口を開いた。
「ところで、いい人は見つかったかい?」
そう問う先生の目は、何か言いにくいことを含んでいた。多分、あの日のことをまだ覚えていてくれているのだろう。私が、貴方が好きです、と言って困らせた日のことを。
「……今はいません」
グラスを親指でなぞりながら、そう言う。
「今は、ってことは、前まではいたんだね」
その通りだった。今まで付き合ったのは、全員年上ばかりだった。仕事場の上司、高校時代の先輩、合コンで会った人、ナンパしてきた人、よく行く服屋の店員。でも、どこかで私は先生の影を探していた。誰一人、先生の代わりになる人はいなかった。
「……まあ」
最後に付き合っていた服屋の店員とは、同窓会の知らせが来た時に別れた。どうしても、先生の顔が離れなかったからだ。だけど、そんな説明をするのも面倒で言葉を濁した。こんなくだらない私の話よりも、先生の声が聞きたかった。低くてどこか甘い、先生の声が。
「安心したよ」
先生はそう言って、長い足を持て余すように壁に身を預けた。
「安心って」
「勝手に心配してただけだよ。今日は久しぶりに会った同級生の中から、新しい人でも探せばいいさ」
くすくすと茶化すように言われて、なんだかムッとした。私がわざわざここに来たのは、そんな理由じゃないのに。
「じゃあ、そろそろ僕は行くよ。とりあえずみんなに挨拶しておかないとね」
先生が壁から身を離した。行ってしまう。咄嗟に私は先生の前に立ちはだかった。先生が不思議そうな顔をした。
「……まだ話は終わってないです」
「なんだ、話し足りなかった? ごめんよ」
グラスの水が揺れる。狡い。またそうやって、子供扱いする。すぐに謝る。そんな風に色んなことをクッションみたいに受け止める。子供だと思って、手の上で転がす。抗っても、私は転がされる。いいように転がされた挙句、ゆっくりクッションの上に置いていかれる。そんなの狡い。
「行かないでください」
新調したドレスも台無しな仁王立ちで、私は言う。
「でも、みんなに挨拶しないと」
「私だけでいいじゃないですか」
あまりに身勝手でダサい言葉に頭がくらくらした。でも、口が止まらなかった。
「先生に会うためだけに、来たのに」
先生が何かに気付いた顔をした。今更気付いたってもう遅いのに。
「……こんなに、綺麗になったんです」
ジンジャーエールが震えている。こんなことで手が震えるような弱い自分ではなくなったはずだ。
「先生のために」
ずっと前から用意していた言葉は、震えなかった。あの日と同じように、視線が交差した。
「……弱ったな」
しばらくの沈黙の後、先生が弱々しくそう言った。あの日は上手く言いくるめられ、家に帰らされた。今日はそうはいかない。私は大人になったし、強くなった。今なら、勝てる。
「今日まで忘れたことなかったんです。先生のためだけに生きてきた」
先生の目がぐらついた。行ける。押せば行ける。私は、大きく一歩、先生との距離を詰めた。
「先生」
もう一度呼ぶ。先生は目を少し泳がせた後、困った顔になった。そうして、ゆっくりと、持っていた水を飲んだ。
ハッとした。今度は私の目がぐらついた。同時に頭もぐらついた。揺れる水が、先生の喉に吸い込まれていくのを、ただ見つめるしかなかった。
「……こんなことになるなんて」
水を一気に飲み干した先生が、また少し笑った。先生の左手には、光る輪が嵌っていた。
「……実は、二年前にね」
私の視線に気付いたように、先生はそう言った。
「結婚したんだ」
目は、合わせてくれなかった。胃の辺りから何かがせりあがってくる。目の前の光景と、先生の口から紡ぎだされる言葉を、脳が拒否している。
「いやあ、滑り込みって感じだったけどね」
その空気を払拭するように明るく、毒薬のような言葉が地面を這っている。
そりゃそうだよな。私の中の冷静な私が、そう呟く。こんなにも狡い人なら、誰かが放っておくわけがないもんな。
「こんな僕でもいいって言ってくれる、素敵な人だよ」
お得意の、困った笑顔。そんな顔で、そんな事を言うな。冷静でいられない私が、心臓で叫んでいる。そりゃ素敵な人だろうよ。貴方が選んだ人なんだから。
「だから、もう僕のことなんて忘れてくれないか」
じわりと、切開した目頭が痛む。異物を入れた鼻も痛む。何度も注射をした頬も痛む。作り物の顔が歪む。
そんな風にお願いするなんて、狡い。やっぱり狡い。忘れてくれと、命令してくれればいいのに。変なところで優しさを出す。余計に痛むじゃないか。
「……私じゃ」
口を衝いて、そんな言葉が出る。絶対にやめた方がいいと、体のどこかでけたたましくサイレンが鳴っている。絶対に後悔するから、言ってはいけない。そんなサイレンを手で押さえて、口は勝手に動く。
「私じゃ、駄目なんですか」
真っ白い頭の中、そんな言葉だけがさ迷っている。先生は少し考えて、片手で頭を押さえた。
「うん」
静かに、言葉が落ちる。
「駄目、だね」
ジンジャーエールが、震えている。今にもヒールが折れそうなくらい、全身の重さが足にかかっている。サイレンは、心臓に重い傷を付けて初めて、鳴り止んだ。
「自分を安売りしちゃ駄目だよ」
空になったグラスを眺めながら、先生はそう言った。
「君のために生まれてきたような人が、どっかに必ずいるからね。僕が見つけたみたいに」
先生の右足が、床から離れた。狡い。行ってしまう。でも、私の足は動かなかった。もしかすると、授業の後のように、頑張れと頭を撫でてくれるかもと期待したからだ。
先生の足は、止まらなかった。
「おやすみ。幸せになったらまた会おう」
先生は一切私に触れなかった。肩と肩でさえ、触れ合わなかった。代わりに、横を通り過ぎるときにそんな言葉を置いていった。国語教師らしい、キザで飾り気のない言葉だった。多分先生の、精一杯の優しさだった。
逃げるように同窓会の会場を出た。タクシーを呼ぶのも面倒で、大通りの歩道をひたすら歩いた。途中で靴擦れが酷くなり、街灯の下でヒールを脱いだ。すれ違う人が、異様な物を見るような目で私を見た。派手な服を着て、ブランド物のバッグを肩から提げ、片手でヒールを持った裸足の女は、どこからどう見ても異様だった。
信号が赤になり、立ち止まって横断歩道を見ていたら、どうしようもなく惨めになった。
全部無駄になってしまった。人工物の顔も、高級なパーティドレスも、毎日痩せるために走ったことも、全部無駄になった。念の為を思って用意していた「連絡先だけでも」という言葉さえも出なかった。こんな簡単な結末を想像していなかった自分の想像力の乏しさも恥ずかしかった。
『おやすみ』
最後に聞いたその言葉が、甘く夜に溶けていた。毎日聞きたかった。毎夜、近くで聞いていたかった。でももう叶わないようだ。
いっそ身投げでもしてしまおうかと思った。近くの駅は大きいし、きっと何分かおきに電車は出ているはずだ。でも出来なかった。
『幸せになったら、また会おう』
ただその一言だけが、私を生に縛り付けた。『また会えたね』の低い声が、どうしても聞きたかった。
狡い。やっぱり狡い。こんなにも感情をめちゃくちゃにしておいて、それでもなお私を離さない。離さないのに、繋がれない。悔しい。ただ悔しかった。グラスをなぞりながら、指輪をちらりと見る先生の目が、あまりにも幸せそうで、それ以上何も言えなかった。
家への帰り道、川の上に架かった橋の上で立ち止まった。身投げする代わりに、手に持っていたヒールを投げ捨てた。ヒールは空中で一足と一足になり、音もなく落ちていった。川に小さい白い輪を二つ作り、消えていった。
さよなら、と言おうとしてやめた。似合わない。いくら飾り立てたって、私はあの日のままだ。あの日、子供のままで時間を止めてしまった。気取って履いたヒールで靴擦れするようじゃ、さよならなんて素敵な言葉を使う資格はない。子供のまま、永遠に先生の背中を追って死んでいくのだろう。
ばいばい。代わりにそう呟いた。しっくりきた。橋の手すりに掴まって、その手の間に顔を埋めた。おでこが冷たい。まだ、感覚がある。
ばいばい、先生。幸せになったら、また会おうね。
呟いた言葉が、水滴になって川に落ちていった。
さよならがいえない 本間 海鳴 @mazi_Greensea
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