温泉に行こう!

増田朋美

温泉に行こう!

温泉に行こう!

この施設で、働き始めて何年になるんだろう。施設も老朽化しているし、オープンして、もう10年以上たっている。富士に温泉が出るとわかってから、10数年たった。それを買い取り、正確には旅館などから、一寸分けてもらった温泉に、みんな疲れを癒しにやってくるのだ。

勿論、この施設が、温泉であることは、みんな周知のとおりだが、本当は、温泉というより、温泉に沸かし湯を足したものであるという事は、余り知られていない。みんな、だまされるような感じで、温泉に入ってくるのだ。入浴剤を入れて、温泉らしくした沸かし湯に、みんな漬かって、ストレスを解消し、心を癒して行くのである。

そういう訳で、私たちは、ほんの少しだけの温泉の入っている浴槽を掃除したり、客が入ってくる時に、落ちていた髪などを拾い集めたり、時には、一寸おしゃべりなお客さんの相手をするなどの役目を担っていた。まあ、温泉施設を、楽しんでもらう裏方というのが、私の仕事であった。

私が勤めている間に、この施設もずいぶん変わった。オープンしたばかりのころは、若い人をターゲットに、温泉を楽しんでもらうアミューズメント施設的な傾向が強く、水着で風呂に入ってもらうようなところまで設けられていた。それが、若い人達があまり来なかったので、温泉は年よりのものという事になって、水着ゾーンは廃止され、他の温泉施設と同様、裸で風呂に入る施設になった。そうなってやっと、そこそこ客も入ってきて、付属のレストランで、食事をしてくれて、付属の施設で簡単なゲームをしたりしている人も出るようになったが、温泉施設は、デイサービスセンターの代わりのようなものになった。つまり、自分で運転などをして、この施設へ行くことができる年寄りたちの、たまり場のようなものになったのである。そうなってくると、この施設の施設長は、温泉施設を、バリアーフリー化しようという突拍子もない計画を考えた。つまり、どういうことかというと、温泉施設の出入り口の段差を外し、入浴する際、浴槽にすべて手すりを付ける。これによって、お年寄りたちが、ますます入ってくれるようになった。そこで施設長は、このバリアーフリーという言葉を強調すれば、もっと客が来てくれると考えたんだろう。温泉施設の看板に、「バリアーフリー」という言葉を、でかでかとのせて、客を呼ぶようになった。やがて、温泉施設の周りに、高齢者施設とか、障害者施設が建設されると、その施設の利用者が、温泉を利用するようになった。そうなると、余計にバリアーフリーという文字が、客を呼ぶ神様のように、見えてしまうのである。いろんな事情がある人たちが、温泉を利用するためにやってくる。温泉は、何だろう、こんなにいろんな人が来れば、まるでミニ国家のように見えてしまうのであった。

その日も、今日は、温泉を利用する人たちでごった返していた。この温泉は、リウマチとか、そういう病気に効果があるとして、そういう病気の人も利用するようになっていた。そうなると、バリアーフリーという文字が、余計に客を呼ぶための、秘密兵器としか言いようがない。私も、そういう施設で働くのは、初めは嫌だと思っていたけれど、温泉はいいなあと思う様になった。だから、本当は沸かし湯であることを隠しているのがちょっと申し訳なく思った。私は、そんな中で罪悪感というものも少しあったが、長く働いていると、それも、私は忘れてしまった。

今日も、温泉を利用するために、お年寄りたちがやってくる。偽物の温泉に入って、ああ、やっぱり温泉はいいねえ、最高だねえ、なんて言いながら、温泉を楽しんでいる。みんな、にこやかな顔をして、温泉に入ったり、食事をしたりして居るのだった。

その中で、ただ一人、変な顔をした人がいた。一人の車いすに乗った、着物を着た男性である。

基本的に、車いすの人が、温泉を利用するという事は、まったくと言っていいほどない。でも、バリアーフリーの作りになっている以上、段差も何もないので、車いすの人であっても、平気で入り口をくぐってこられる。

その人は、車いすを動かして、フロントの前に入ってきて、こういうことを言った。

「おーい、僕も温泉に入らせてくれ。ここの温泉は、バリアーフリーとなっているそうじゃあないか。それじゃあ、僕みたいな者も、入らせてくれるという事だろうな。それじゃあ、そうさせてもらうぜ。」

と、彼は、フロントにそういうことを言った。フロントの人たちは困った顔をしている。私は、近くで床にモップをかけて、掃除をしていたのだが、何だかこれから面白い事が起こるのではないかと、興味本位でそのやりとりを見てしまった。

「しかしですね、あなたは、車いすに乗っているんじゃありませんか。ここでは、そういう方はちょっとご遠慮いただいておりますので。」

と、いう受付に、彼はこんなことを言った。

「ああ、それじゃあ、看板に書いてあることは、大嘘ってことになりますな。バリアーフリーというのは、誰でも入っていいっていう意味だって、近くに住んでいる方から教えてもらいました。僕、読み書きができないので、この施設の近くに住んでいる方に聞いたんだよ。」

「一体、あなた、誰に聞いたんです?そんな事。」

と、受付が聞くと、

「その、目の前にあるピンクのアパートに住んでいる中年のおじさん。たまたま玄関先を掃いていたので、ちょっと教えてくれと聞いたんだよ。」

と、彼は答えた。ピンクのアパート。ああ、そのアパートは、知的障害のある人が住んでいるんだった。中には、軽い程度の知的障害程度しかなくて、健常者と見分けがつかない人も少なくない。そういう人に、答えを出されて、彼は、誰でも入れるという答えを得たのだろうが、逆にそういうことを言われてしまうと、受ける側としては、困ってしまうのだった。なぜ、もうちょっと具体的な答えを言える人に、彼は質問しなかったのだろうか?

「なあ、教えてくれよ。だって、その人が教えてくれた言葉が正しければ、誰でも入れるってことじゃないか。こたえが正しければ、風呂に入らしてくれ。僕歩けなくても、手で貼っていくことはできますよ。それでいいじゃないか。それがバリアーフリーっていうもんじゃないのかい?」

「そうですけど、お客さん。手ではって浴槽に入ることなんてできないじゃありませんか。第一、そういうことしたら、周りのお客さんに迷惑がかかるじゃありませんか?それくらいわかりますでしょうが。」

と、受付はそう言っているが、彼はすぐにこういった。

「いや、それならやっぱり、大嘘だったわけね。手で貼って、浴槽に入っても、何も笑わないで見てくれるのが、本当のバリアーフリーっていうもんじゃないのかよ。それができてないようじゃ、ヤッパリどこの施設も、バリアーフリーはできていませんな。昔はよ、三助というやつがいて、風呂に入る客の世話をしてくれたりしていたが、今はどこにもおらん。そういうやつが、居てくれたら、すぐに手伝ってくれと、お願いするんだけどなあ。今よりも、昔のシステムのほうが、便利ってこともありますねエ。」

そういえば、私も少し聞いたことがある。江戸時代から、昭和の終わりまで、温泉施設などには、風呂に入る客の服の脱着を手伝ったりとか、体を洗うのが不自由な人がいれば、それを手伝ったりする、三助という人が勤務していたという。歴史が好きだった私は、むかしの温泉はどうなっているのか知りたくて、ちょっと調べてみた事があったのだ。まあ、昔だから、そういうことをする必要があったんだろうが、今は、服の脱ぎ着などは自分でやれるし、体を洗うのだって自分でやれる。水道だって発達していて、個別の体を洗う場所がある温泉施設ばかりだから、そういう仕事は、要らないという事になったんだと思う。

「そんなものいませんよ。とにかく帰って下さい。あなたのような人が、こういうところに来られたら、ほかのお客様に迷惑が掛かります。」

と、いう受付。それを、彼はちょっと悲しそうな顔で見た。

「そうかあ。僕はやっぱり、そういう存在になっちまうのか。誰でも歩けなくなる、可能性だってあるのによ。そういうやつは迷惑だというのなら、出来ない奴はみな出てけという事になるな。」

と、彼は、そういうことを言っている。

「僕も温泉好きだったのにな。それに入って、静かに過ごすってことは、僕らには認められていないってことだろうな。」

と、彼は言った。

「ただ、それが正しければ、看板に書いてあるあの文句は、消した方がいいと思うぞ?」

そうか。そういう事だったのか。そういうトリックは、暗黙の了解のようになっている。そういう事は口に出してはいけないけれど、私は、確かに彼のいう事は間違ってはいないと思った。それならば、そういうことを売り物にするのはしないほうがいいと思う。だって、こういう人には、可哀そうな思いをさせるようになるかもしれない。

私は、そういう気がしてきた。そういう事になるのなら、いっそのこと、障害者進入禁止という札を作って、バリアフリーという札は、外した方がいいのかもしれない。

「おう、杉ちゃん。どうしたんだい?今日は寒いから、風呂に入りに来たのか?」

と、半被の威勢のいい顔をした、宮大工の棟梁が、にこやかに入ってきた。体が大きくて力が強く、いかにも、日本男児という感じの顔をした、宮大工の棟梁である。

「そうなんだ。風呂に入らせてもらいたいのに、この感じの悪い姉ちゃんが、周りのお客さんの迷惑になるというので、入らしてくれないんだ。」

と、杉ちゃんと呼ばれた車いすの男性が、そういう事を言った。

「そうかそうか、それは気の毒だなあ。確かに、近所の旅館では、足の悪い人も、温泉に入らしてくれる、サービスをやってくれると聞いたぞ。何処だっけかなあ。修善寺の、なんとか旅館という所だったかなあ?」

「秋庭さん、そんな事言わないで頂戴よ。ここは、その旅館とは、また違うんですよ。」

と、受付係はそういうことを言っている。

「いやあ、これからの観光施設は、誰でも入れるようにしなきゃだめだよなあ。そういう風にしなきゃ、流行らないよ。」

にこやかにそういうことを言う秋庭さんに、杉ちゃんも乗じて、

「そうだよねえ。昔は、三助がいて、風呂に関しては、何でも手伝ってくれたはずなんだけどねえ。今は、そういう便利なサービスは、流行らなくなっちまった。むかしのサービスは、今使ってもいいはずなのにねエ。」

と言った。秋庭さんが、

「そうそう。じゃあ、杉ちゃんの三助はわしがなるよ。わしが抱っこして、風呂にはいればそれでいいよな?受付さんたち、二人一緒に風呂に入るから、お姉ちゃんたちは邪魔しないでくれよな。」

と、言って、杉ちゃんの車いすを押して、浴室の中に入ってしまった。その時、受付をはじめとして、周りにいた人たちは確かに驚いていた。そういうのは確かに珍しい光景だけど、そういうことは、何も変哲もなく、できるようになる必要があるのだ。

秋庭さんと、杉ちゃんは、それから暫く出てこなかった。二人は、何をしているんだろうか、と答えれば、お風呂に入っているんだろう。私は、きっと、バリアーフリーというのは、風呂をどうにかするという事ではなくて、秋庭さんのような人を言うのではないかとふっと思った。それから私は、いつも通りに、床掃除をつづけたのであった。

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温泉に行こう! 増田朋美 @masubuchi4996

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